中世においては、高山よりもこの古川の方が飛騨の中心であった。
  なぜなら、国司の所在地であったからだ。

 1334年南朝より飛騨国司として、姉小路家綱(あねがこうじいえつな)が任じられ、古川町杉崎の小島城を居城としてこの地方を治めました。京都から来た家綱は、都をしのび、杉崎を流れる川を加茂川と名付けたり、京都にある北野神社を祭ったりしました。家綱の弟の尹綱(まさつな)も兄の跡を継いで国司になりました。尹綱の死後姉小路家は、3つ(小島家、小鷹利家、古河家)に分裂しました。家綱の孫の基綱は、京都に在って歌道の名声が高く、宮中の御歌会に、数多く奉仕した人でした。その子の済継(なりつぐ)が跡を継いで国司になりました。

    故郷に  のこるこころは  心にて
           みはなほひなの身を  なげくかな      基綱

    雲をわけ  濁(にごり)を いでし こころもや
          おなじ蓮(はちす)の 露の つきかげ     済継

  当時のへんぴな飛騨の山奥で、飛騨文学の先駆けをされました

<戦国時代>
飛騨は神岡地方に江馬(えま)氏、古川盆地に姉小路家、益田・大野方面は三木氏が支配していました。三木氏は、飛騨の南部より入り、文明年間(1469〜1486)には、吉城郡まで勢力を伸ばし姉小路家と争っていました。

姉小路家は、尹綱の死後3つに分裂し次第に衰え1556年、三木良頼(よしより)に滅ぼされてしまいました。三木良頼は、古川町高野の古河城(姉小路古河家の居城 通称 蛤城)に入り飛騨国司に任じられ、神岡地方の江馬氏と親戚関係を結びました。
しかし、良頼の子 自綱(よりつな)は、1582年江馬氏を滅ぼし、高原川流域をも支配しました。この結果、三木自綱は飛騨を平定し、高山の松倉城には国司の秀綱(自綱の子)をおき、自分は広瀬城に住みました。

 豊臣秀吉が天下を平定した頃、三木自綱は、富山の佐々(さっさ)氏とともに秀吉に従わなかったため、1585年秀吉は家臣の金森長近に三木を討つように命じました


金森氏の飛騨平定  高山が中心地となる

 金森長近(かなもりながちか)は、大野郡荘川村から河合村を経て古川方面へ向い、養子の可重(ありしげ)は、益田方面から三木氏を攻め滅ぼしました。

 <金森長近の略歴>
1524年美濃に生まれ、幼名を五郎八可近(ありちか)といいました。戦乱を逃れ近江の守山市金森(かねがもり)に移住。織田信長に仕え、戦いの功績により信長より「長」の字をいただき「長近」に改名し、親衛隊に加えられる。信長の死後は秀吉に仕えた。戦いで明け暮れていた。1575年52歳で福井県大野3万石を与えられ、城と城下町をつくる仕事にのりだし、数年かかって城下町づくりに精力を注ぎました。住民の生活を商工業を中心とする平和な姿で繁栄させたいと念願しました。城づくり町づくりの名手とまで言われました。そして高山に移るまでの12年間大野を治めていました。

 長近は、しばらく大八賀村の鍋山城にいましたがのちに高山城に移り飛騨を治めました。秀吉の死後は徳川家康方に従い、可重とともに関ヶ原で戦いました。

2代目の可重は、長近と共に地方の政治に力を入れ、道路の改修工事を完成させたり口留番所を設けて飛騨への出入りを取り締まりました。3代目の重頼(しげより)の頃は産業の開発、特に鉱山の採掘に力を入れました。

古川の城下町づくり    古河城から増島城へ城下町の移動
 金森長近の養子可重(ありしげ)が古川の地に増島城なる屋敷城を築き1692年まで一種の城下町を造りました。高山の町割をモデルにし、壱之町、弐之町、三之町と名付けました。侍屋敷は今の殿町につくり、商人町は壱之町筋としました。町内を堀川が流れていました。町屋は、すべてくれ板ぶきでした。増島城は1619年に、一国一城制によって、廃止され1695年に取り壊されました。現在の増島神社のあるところは矢倉跡です。


      参考  郷土古川 、飛騨路の魅力 、飛騨金森史