□御母衣湖畔中野展望台にある2本の巨桜は樹齢450年余といわれ、御母衣ダム完成前は、湖底に沈む中野照蓮寺と光輪寺の境内にあったものです。
ダム湖に沈むのを惜しむ人々の手により現在の湖畔を見下ろす高台に移植され、湖に沈んだ集落を慈しむように立っています。

▽昭和27年10月18日、突然!御母衣ダムの建設が総理府から発表されました。村の約3分の1が湖底に沈むダム計画に、故郷を失う地元住民は死力を尽くして反対しました。この反対運動は長年にわたり続けられましたが、昭和34年の秋、電源開発との間に妥協が成立し、反対期成同盟死守会が解散されることになりました。
 ■その当日、電源開発初代総裁高碕達之助氏は、やがて湖底に沈む地域を思い、あたりを散策して、ふと中野地区の光輪寺に立ち寄りました。そのとき、高碕氏の目にとまったのが境内の老桜でした。高碕氏は東京の自宅に植物研究所をもってみえるほどの自然愛好家で、このまま水没させてしまうのは、いかにも耐えがたいといった面持ちで巨桜を見、「なんとしてでもあの桜の命を助けなければならん」そう決意されたそうです。高碕氏は東京に帰ると、いくつかの大学の専門家をい訪ね、移植のことを相談してみましたが、誰一人として賛成してくれる人はなく、かえってその無謀さを笑われたそうです。

 
■高碕氏は困惑して数日間考え込んでいましたが、当時神戸にお住まいの桜博士といわれた笹部新太郎翁のことを思い出し、同氏を訪ね、その念願を打ち明け移植に力を貸してほしいと熱心にたのみこみました。笹部氏は、一生を桜の研究に打ち込んできた人ではありましたが、400余年もたった老桜の移植などということは世界にも例のないことだし、いったんは断わりました。事業のために遺跡をこわし、名木を伐ることぐらいはあたりまえのことのように考えている現代のなかで、御母衣ダム建設という大事業を遂行する電源開発の総裁であった人が私財をなげうってでも、老桜の命を助けたいという高碕氏の情熱に感動し、奇跡ともみえるこの難事業に命をかける決意をし、老体をひっさげて現地に赴いたのであります。
 

 ■このことが電源開発側の耳に入り、光輪寺桜とともに、照蓮寺桜も電源開発側が移植に協力することになりました。移植は当時日本一の庭師丹羽正光氏がえり抜きの植木職人10人を引き連れて500人の人夫を動員して行われました。世の植物学者がいっせいにその無謀さを笑ったのも無理のないほど、植林史上、かつてない大がかりな移植でした。

 
■翌年の4月、人々の見守る中で、2本の老桜は、細枝にやわらかい芽を出し、ポツッ、ポツッと花をつけました。皆の思いが通じ、まさに活着したのでありました。それから日を追って桜は元気になり、年々少しの衰えもみせず、今ではかつての両寺の境内にあったときのように、毎年美しい花が咲くようになりました。

 □かつて高碕氏が光輪寺の老桜を訪れたとき、慈愛にみちた口調で語った言葉は、そのとき氏に従っていた人びとにいつまでも深い感動を与えました。「
進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。だが、人の力で救えるものは、なんとかしてでも残していきたい。古きものは古きがゆえに尊いのである
                                      <荘川桜移植物語より>
国道158号線沿いの御母衣ダム湖畔にある、樹齢450年を越える荘川桜。飛騨地方の桜といえば、一之宮町の臥龍桜、荘川町の荘川桜、下呂市の苗代桜が有名な観光スポットです。桜が御母衣ダム湖畔に植えられた理由には、こんな、逸話があります。それ以降、荘川桜と呼ばれるようになりました