合掌村の誕生

白川郷と五箇山地方には、19世紀末に93の集落と1800棟以上の合掌造り家屋があったといわれるが、1994年の時点では合掌造り家屋が全く失われてしまった集落は60にのぼり、集落内に残された合掌造り家屋はわずか144棟になってしまった。

 
大きな原因は、1950年から75年の25年間に起こった日本の急激な経済発展により山間の農村の生活形態も著しく変わり、また、都市への人口流出により過疎化が引き起こされたためである。屋根の葺き替えが大変なこと、茅場が手入れ不足で荒れ地になりがち、火に弱いことから半減してしまった。
 
 
昭和37年には、国の重要文化財に指定されていた御母衣の大戸家が下呂町に移築されたり、大型合掌造り家屋の中谷家や東屋なども売りに出されて他所に移転された。御母衣の大松家、有家原の北家などもまた次々と売りに出された。トタン屋根や瓦葺きの家屋が目立ちはじめ、さらに電源開発のためダムの湖底に沈むなどして目に見えて減少していった。牛首部落の大部分は白川村内に残ったが、加須良部落(8世帯)の人々は全員が都市へと出ていった。

 そこで当時の村長 野谷平盛氏は、村議会で「このまま放置しておけば、白川村の誇りとする大切な合掌造りは全部無くなってしまう。せめてもの名残りに、加須良部落の家屋を買い付け、一ヶ所に集めて長く保存しようではないか」と提案された。

 村議会は満場一致で可決し、建設委員会を組織して問題に取り組んだ。その結果、
荻町区小呂地内に加須良部落の全部を移築することにほぼ決まったものの、売買額の折り合いがつかず、賛意を示して応じたのは中野義盛家、東志な家、中野長次郎家の三軒であった。その後、昭和45年末までに、島区の山下家、馬狩区の倉庫及びハサ場、唐臼場を含めた11棟の合掌造りが買い付けられ移築された。
 村内からは、古い時代の文化財などが集められ、合掌家屋を整えたり、池を造り庭園の整備がなされた。そして、
県の重要文化財の指定を受け、昭和46年6月1日「白川郷合掌村」としてオープンするに至った。

 資料 「白川郷の今昔物語より」
こんな小さな物置までが、合掌造りスタイルの茅葺きに保存するにも苦労が感じられます
平家の落人が住みついたといわれる白川郷は、大豪雪地帯である。茅葺きの切り妻屋根は雪を落とすため、60度に近い急勾配になっている。なかでも、明善寺の庫裡は5階建て合掌造りで最大である。けやきやヒノキの柱は、囲炉裏の煙で黒光りさえしている。この煙は、茅につく虫を駆除する効果もあり、茅が長持ちする。

保存地区への、一般車両乗り入れ禁止の試みが10/6,7実施された。観光客は、離れた指定駐車場からシャトルバスに乗り換えて保存地区へ移動。車が通らないので、安心してゆったり散策できた。環境を保存するには、多少不便なことも協力が必要です。帰りのシャトルバスが混み合って乗り切れず、待たされた人もありトラブルもでたとか。初めての事ですから大目に見て頂戴。
今も、合掌造りの家で日常生活を営んでいる。民宿・土産物・食堂などなど。
明善寺(県重要文化財)の楼門鐘
飛騨匠の作で総けやき造り。もちろん屋根も茅葺き。
天生(あもう)峠を越えてくると、最初にこの合掌造りが出迎えてくれる。ようやく白川郷に着いたなと実感する。
合掌造りの2階は、ご覧のとおり昼間も薄暗い
(明善寺の庫裡の2階で撮影)私の見学おすすめコース
屋根の裏側は、釘、カスガイは1本も使わず荒縄とねっそ(マンサクという粘りの強い木)で縛ってある。(下から棟に向かって撮影)
ようこそ、白川郷へ!
飛騨のお土産「さるぼぼ」も大歓迎