感激!観劇雑感  2011年版

 

目次
劇団新劇場           2011年(平成23年)8月26日(金)  
  「明日に向かって逃げろ!!」             田丸 誠
     
 
     
 

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劇団新劇場                    

   2011年(平成23)8月26日(金)18時

やまびこ座

   『明日に向かって逃げろ!!』  (作 澁谷 健一  演出  山根 義昭)

 

田丸 誠




 

 劇団新劇場創立50周年記念公演第2

『明日に向かって逃げろ!!−山田わかの数奇な半生−』を観て

 田丸 誠

  劇団新劇場創立50周年記念公演第2弾『明日に向かって逃げろ!!−山田わかの数奇な半生−』を観ての正確な意味での劇評というより、あれこれ私が勝手に感じたこと、思ったことをレポートしてみたいと思います。 

私、この頃は年齢のせいか、出不精になっているのですが、演出の山根義昭さんから一通、新劇場事務局から一通、あわせて二通も観劇のお誘いを頂いたので「これは観に行くしかあるまい。」とかみさんの了解もえて、遠路はるばる北見から札幌へ出かけることにしました。

 本来なら楽日に観るべきだったのでしょうが、日程の都合で初日である8月26日(金)のお芝居を観せてもらいました。

芝居小屋はこじんまりした「やまびこ座」で、小屋に入る前に奇遇にも外でタバコを吸っている職場の大先輩に会いました。お話を聞けば、北海学園大学生のお孫さん(華生役の五十嵐優希さん)が、この芝居に出演するので観にきたということでしたので、お芝居を観る前から妙に親近感を感じてしまいました。

座席に着いて見渡すと、お客さんの入りは9割といった感じでした。

緞帳なしの舞台右袖にスポットを浴びた墓石が目を引き、「立花信三郎之墓」と字が読めました。

  お芝居を観なかった方のために、この二幕物の荒筋を紹介しましょう。観劇してから一か月も経過して記憶があやふやな部分もありますが、しばらく、おつきあいください。

一幕目はカナダに近いシアトルのチャイナタウンで白人専用娼婦だった「アラビヤお八重」(栗原聡美さん)と新聞記者・立花信三郎(星野晃之氏)のサンフランシスコまでの逃亡劇で、偶然カフェで二人の逃亡計画を知った別新聞者の記者・安部忠春(安藤抄弥氏)が逃亡先からの信三郎の通信を受け取ることとなり、彼のナレーション(三上勝理氏)がその後の舞台回しとなって劇が進行します。

逃亡計画を電話の混線で他人に聞かれた二人は十分な準備もなしに、娼館の2階からシーツを裂いてロープがわりにして抜け出し、逃走します。

面子を潰された娼館のボス=王炎(齊藤誠治氏)は、殺し屋スコーピオン(徳田敬二氏)に追跡と立花殺害を命じます。逃亡を手引きしたと見られた仕立て屋の女主人・許艶梅(高野吟子さん)は王炎の手下・安成信(小川貴大君)に殺害され、安もまた二人の後を追いました。

 急な逃亡で逃走資金が直に無くなって、身動きできなくなった立花とお八重はボート小屋に身を隠しました。立花はお八重に関係をせまりますが、お八重はがんとして拒絶します。そこにスコーピオンが姿を現し、立花のピストルを奪いましたが、すぐには二人に手を下そうとはせず、反対に見逃すような動きをします。

次にスコーピオンの回想があり、彼の生い立ちが明らかにされます。鉱山で働く向丹紅(吉田輝志子さん)・向文心(藤井達也君)親子は、日本人の住崎(新井田広氏)から博打で負けて失踪した父親の借金の返済を要求され、ついには母親を慰み者にするために力ずくで連れ去ろうとした住崎を文心が殺してしまいます。その現場に現れた王が文心の親代わりになることを約束し、母親は息子の罪を被って王から渡された毒薬で死にます。

金を工面するためにシアトルに戻った立花は、日本人のならず者達に捕まりますが、東洋貿易から新聞社襲撃の礼金を貰っていないので、代理人になって金を取ってくるように命じられます。立花はならず者をまんまと出し抜いて、手に入れた金を持ったまま安部記者の部屋に逃込みます。そこに追手の安がやってきますが、安部の気転で危機を脱します。

 場面かわって今度は船の上で、立花は船内を偵察に行き、一人船室に残ったお八重に食事を運んできたボーイ(藤井達也君の二役)が襲いかかりますが、お八重が恐怖で顔を伏せている間にスコーピオンが素早くボーイを片付けて姿をかくします。そこに立花が戻りますが、手下のボーイがいなくなったのを不審に思った安が登場し、剣を持った立花とナイフで対決します。鎖帷子を着た安には歯が立たず、危機一髪というところにスコーピオンが再登場し、二人は自分の獲物だと警告し、安に手を引かせます。そしてお八重、立花には川に飛びこんで逃げるように言います。二人が逃げたところに再び安が現れ、スコーピオンがこれまでも王親分を裏切って逃走した女達を見逃していたことをあげ、両者の対決になります。その過程で、安から父親の失踪も殺人も文心を殺し屋にするために王親分が仕組んだことだったと告げられます。結局、安は毒付ナイフの一撃で絶命し、スコーピオンは親の仇を討ちに王のところに向います。

この一幕目だけでも場面はチャイナタウンの仕立て屋、カフェ、ボート小屋、安部の部屋、船上の一室と、目まぐるしく変わりました。キャスター付のパネルの裏表を使うなど工夫されていましたが、暗転の中の転換で裏方は相当大変だったことでしょう。

10分間の休憩を挟んで、二幕目が始まりました。

船から命からがら逃げて、サンフランシスコに辿りついた二人に金はなく、仕方なく立花が日本にいた時から懇意にしていた大海屋のおかみ日子(斎藤和子さん)を頼りますが、日子にはお八重が苦界から救った恩人である立花を拒絶することが全く理解できず、立花に当面の生活費を貸すかわりに、お八重を女郎にすることを認めさせます。そのことを日子から聞かされて深く絶望したお八重は、これまで自分を性的玩具にしてきた男達を憎み、呪います。そして、以前に許艶梅から聞いていたキリスト教の娼婦救済施設、通称キャメロン=ハウスに一人で逃込みます。

施設の責任者シスター・キャメロン(吉田浩美さん)に心開いたお八重は、はじめて本名の「わか」を名乗ります。そして、キャメロンの片腕の通訳として活躍を始めます。キャメロンは、近所の女郎屋からハウスに娼婦すずな(武田有加さん)を救い出してきます。それを追ってきた男たち、塚本(齊藤誠治氏の二役)と大川(広光洋一氏)に、わかは通訳しながら品のない言葉で罵り、撃退します。

立花が弁明と謝罪のために、わかに会わせてくれとハウスにやってきますが、わかは身を隠し、キャメロンに面会を拒否されます。絶望する立花の側にスコーピオンが現れ、わかに謝罪して許されないなら死を覚悟するように、と立花に毒薬を渡します。

英語が書けるようにと、キャメロンの指示でわかは山田嘉吉(富樫哲郎氏)が主宰する語学教室に通いはじめます。キリスト教徒の山田は、わかに寸暇を惜しんで学ぶようにいいます。山田は、わかが今まで会ったことのない刻苦勉励の男性でした。

山田は語学だけでなく、社会学など、彼の持てる知識をわかに教えようとしました。その山田の教室へ憔悴した立花が現れ、わかに面会させてほしいと山田に懇願しますが、にべもなく拒否されて、ついにこれまでと毒薬をあおって自殺してしまいます。立花に取りすがるわか。

キャメロンが留守のハウスの敷地に女衒の塚本と大川が入りこんで、すずなを力ずくで外に連れ出しますが、わかはそうした行為は違法でアメリカのキリスト教世界を全部敵にまわすことになることを理路整然と述べて警告して、彼らの意志をくじき、すずなを解放させます。

そこへ大海屋のおかみと手代が現れ、立花を自殺させたことを非難します。わかは毅然として立花には本当に感謝しているが、真実愛しているのなら愛する者にピストルを向けて関係を強要するようなことはできない筈といいます。おかみはわかとの問答の中で、わかの強い意志を感じ、立花が何故わかに惹かれたかを理解し、引き上げていきます。

すずなや中国の少女たち(金梅・平尾菜さん、小芝・吉田諒希さん、華生・五十嵐優希さん)も含めて賑やか山田の教室で、わかは授業を任されるまでになりました。山田はわかに求婚し、わかはそれを受け入れます。喜ぶ少女たち。山田とわかは、二人を結びつけた恩人として立花の墓をたてることにします。

ナレーションで山田夫妻が日本に引き上げ、その後、山田わかは平塚らいていが主宰する「青踏」に執筆、女性評論家として名をなしたことが告げられます。

場面かわって、わかの晩年。昭和12(1937)、雑誌の編集者=遠山佐和子(高橋みまさん)とアメリカへ講演旅行にやってきたわかの控え室に、老境に入った新聞記者の安部(三上勝由氏)がやってきて、若い頃立花からの通信を元に書き上げた新聞記事の彼女の半生記を手渡します。入れ替わりに、日本人会の名士夫人桑原(高野吟子さんの二役)・平野(吉田輝志子さんの二役)・相馬(蜂谷千枝さん)が押しかけてお世辞を述べている脇に、ひっそりと一人の婦人が立ち、わかに声をかけます。今は根岸夫人となったすずなでした。再会を喜びあうわかとすずな。それを好奇の目でみる名士夫人たち。用意された歓迎会に向かう前に、掃除にきた老人(実は老いたスコーピオン)に、これからも明日に向かって生き続ける意欲を語るわか。ここでお芝居はビートルズの曲「イマジン」でエンディングとなりました。

開演が午後6時32分、終演9時12分、正味2時間半のお芝居でした。 

これまで記したとおり、荒筋をたどるだけでも本当にシンドイ、場数の多いお芝居で、当然登場人物も多く、二役だけでなく、他劇団の役者さんたちの協力を得なくてはできない芝居でした。これらを何とかまとめあげた演出の山根さん、お疲れさまでした。

プログラムで山根さんが触れていますが、このお芝居の原作は昭和53(1978)発行の山崎朋子著『あめゆきさんの歌』です。このプログラムの表紙に、そのことが表示されていないのは、原作者と連絡を取っていないということなのでしょうか。折角こうしてお芝居にしたのなら、原作者と交流するのが原則だと思いましたが……

なお、この本は絶版ですから、興味のある方は図書館で借りて見て下さい。

女性史研究家・山崎朋子さんについては『サンダカン八番娼館』で、東南アジアで娼婦として金を稼ぎ、貧しい日本の家族に金を送り続けていた「からゆきさん」のことを取り上げ、これは映画化もされましたから、ご記憶の方もいることでしょう。

山崎さんは『あめゆきさんの歌』の「あとがき」で次のように述べています。

「あめゆきさんは」「わたしの新しく作った言葉で、〈アメリカへ行った日本女性〉または〈アメリカの暗黒街へ身を沈めた日本女性〉といった意味を持たせたのです。

かつて日本から中国大陸や東南アジアへ流れ出て行ったいわゆる海外売春婦は、日本における中国の古称〈唐〉にちなみ、〈唐へ行った女性〉という意味で〈からゆきさん〉と呼ばれていました。この造語法に従って、〈アメリカへ行った女性〉という内包で〈アメ行きさん〉なる言葉を作りましたが、漢字に両仮名まじりではいかにも坐りが悪いので、見た眼にやわらかな平仮名綴りで〈あめゆきさん〉としたわけです。そして、山田わかの評伝の書名にこの〈あめゆきさん〉の文字を冠したのは、本文を読んでくださればわかるとおり、彼女がその若き日に正しく〈あめゆきさん〉のひとりであったからでした。」

その「山田わか(18791957)」の略歴は、講談社『日本人名大辞典』で次のように紹介されています。

「大正−昭和時代の婦人運動家。明治1212月1日生まれ。渡米先でだまされて苦界に身をしずめる。救済施設にのがれ、山田嘉吉と結婚。明治39年帰国し、『青鞜』などで母性尊重をうったえ、与謝野晶子と論争する。昭和9年母性保護法制定促進婦人連盟初代委員長。戦後は売春婦の厚生につくした。昭和32年9月6日死去。77歳。神奈川県出身。旧姓は浅葉。著作に『女・人・母』など。」

渋谷健一氏は、この原作『あめゆきさんの歌』を基にしながら、フィクションとしてチャイナタウンの王やスコーピオンなど暗黒街のならず者を登場させ、活劇仕立てにしました。渋谷氏の娯楽性たっぷりの器用な作劇にはいつもながら脱帽ですが、欲張って詰め込みすぎた感もありました。

題名の『明日に向かって逃げろ!!』も、西部劇映画『明日に向かって撃て』を想起させます。

だが、どうして中国人を悪役・仇役にしなくてはならなかったのか、とも思いました。また、清国の再興とか暗黒街の描き方はジャッキー・チェンなどの香港映画の影響もあるのかな、とも思いました。

それとこのお芝居の舞台はアメリカなのに、白人の登場人物がキャメロン女史だけというのが腑に落ちませんでした。「アラビアお八重」は「白人専用」娼婦であったわけで、彼女を弄んだ白人男性客たちが登場しなくてはおかしいとも思いました。

随分昔の昭和52(1977)発行の本ですが、鶴谷寿著『アメリカ西部開拓と日本人』によれば、南北戦争(18611865)や「奴隷解放宣言」(1862)に象徴されるとおり、19世紀のアメリカは奴隷制度を基礎とする農業社会から、賃労働者を雇用する産業社会に移行し、奴隷に代わる可能な限り安価な労働力として中国大陸の底辺労働者「苦力」がまず対象となり、香港等から積み出される「苦力貿易」がなされました。渡米した中国人労働者はアメリカ大陸横断鉄道建設や鉱山労働で使役されましたが、人種的偏見と貧困白人による中国人排斥運動により、アメリカ連邦議会は明治15(1882)20年間中国人移民の入国を禁止する「中国人移民入国禁止法」を通過させ、明治35(1902)には同法を改正して、完全に中国人労働者を締め出しました。中国人移民も被害者だったのです。(中国人移民の帰化が許されたのは、太平洋戦争の日本との戦いで中国がアメリカの同盟国となってからでした。)

アメリカ社会の都合で中国移民を労働界から締出しておきながら、その後釜に日本人を安い労働力として西部開拓に投入したのですが、その頃、日本で日本人労働者を掻き集めてアメリカに送りこんだのが、劇中の台詞にもあった「東洋貿易」だったのです。この会社は現代でいうと派遣業者で、出稼ぎ労働者からのピンハネで莫大な利益を上げていました。日本人男性労働者が奴隷同然だったのですから、日本女性の人権を無視して性的奴隷にすることに何の呵責も感じないアメリカ社会だったのです。その日本人移民労働者たちも大正9年(1920)前後から出稼ぎから定住へ移行し、アメリカ社会の中でその数を増やしていきました。それに比例して中国人移民の時と同様に、アメリカ社会の排日運動も盛んになり、大正13(1924)には日本人移民全面禁止の「排日移民法」が実施されます。そして、最終的に第2次世界大戦時の日系アメリカ人の強制収容所送りになったのです。

原作も岡繁樹というジャーナリストが自ら経営していた新聞の昭和13(1938)2月12日付の号から5回連載した特集記事『アラビヤお八重出世物語/山田わか女史の前身』を発見して、山田わかのアメリカでの軌跡を追うのに精一杯で、十分にここらの構造的分析は出来ていませんから、仕方ありませんが……

今でも派遣労働者が無権利状態で使い捨てされている日本社会では、売春は「セックス産業」などと称して公然と行われているわけで、この芝居の舞台は遠い昔のアメリカのことではないと思いました。ただし、「高額収入」という勧誘の「金」による女性支配が巧みになった分だけ退廃し、もっと悪質です。

主役の八重=わか役の栗原さんも、開幕のベリーダンスから終幕のわかの晩年まで舞台に出ずっぱりで気の抜けない舞台でしたが、立派に務めたと思いました。中でも立花に裏切られ、大海屋のおかみから再び女郎になるよう言われ、見栄も恥もなく嘆き、のたうちまわる様がこの芝居の核心だ、と思いました。

原作『あめゆきさんの歌』でも、山田わかが雑誌『青踏』に寄稿した一文から〈私が暗黒街をぬけ出た当時、私はその世界の人間(それは殊に男性)が憎くて憎くて、私の心身はその憎しみの焔で燃えて居た。「おのれ、どうして呉れよう。人の弱身につけこんで、思ふ存分人の血を吸はうとする悪魔、頭から石油をぶつかけて、裾から火をつけて焼いてやるから見て居れ。」こんな風に男性を瞰んで居た。〉と引用されています。騙されて日本からアメリカに連れ出されて娼婦にされた女が、束の間に信じた男に裏切られた絶望は余程深いものであったことでしょう。

しかし、彼女の強さはそこで立ち止まらず、「男に苦しめられたありとあらゆる女が、開闢以来のやはり男に苦しめられた女の亡者迄もが、皆墓の下から白い経帷子のままで出て来て私のうしろに立つ。と、こんな幻を見て、私は一人で勇んで居た。だから、一寸でも自分に接近する機会のあった婦人が、男に虐待されたの利用されたのといふと、私はすぐ自分の生命を投げ出して、所謂その悪魔征伐に取りかかるのであった。」とあるとおり、キャメロン女史の廃娼運動を助けるようになったことにありました。

これに対して、原作でも尾張徳川家の祐筆をつとめた家柄の三男=立井信三郎(立花のモデル)が、何故アメリカに渡り記者稼業をしていたのか、どうして八重を救い出すことになったかは十分に解明しているわけではありませんから、矛盾に満ちた立花の役作りは大変難しく、やりにくかったことでしょう。

原作者の山崎さんは、立井の遺族から聞いた話を基に、平民の家から嫁いできた兄嫁への叶わぬ思慕の情を断ち切るために彼が渡米したと解釈して、「女性を人間として尊重しようとする気持を持っていたが故に、針の筵に泣く兄嫁を愛してしまい、彼女をそれ以上傷つけまいとして海外に流れた信三郎の胸には、いつまでも木枯しが吹いていた。彼がシアトルの娼館街に出没したのはそういう淋しさを忘れんがためであったが、しかし、そこで知ったアラビヤお八重というひとりの娼婦の内面に何によっても汚されぬ〈純真〉を見、彼女を愛し、彼女の救出にみずからのいのちを賭けてしまった。そして、そのような結果となってしまったのは、やはり彼が、家族制度の下では余計者とされる三男として生まれ、そこより発した女性への連帯心を根底としての真正のフェミニストだったからだと思うのである――」と記していますが、それらは推測であって実際はどうだったかは不明です。

ですから、どうしてもこの辺がお芝居でも歯切れの悪いものになっていて、最初から説明ばかりで緊張感を感じ取れるほどにならなったのも、この原作にも一因があるようです。

「不幸な女性を救いたい。」という思いが立花にあって、妻に迎えようと思っても最後の部分でお八重と噛合わない、意思が通じないもどかしさ。「男の純情」と言ってしまえばそれまでですが、一方的な愛は破滅するしかないのです。愛するにしても、保護すべきペットのように愛するのか、独立自立した女性として愛するのかの区別が、立花には分からなかったのでしょう。そこが「立花の悲劇」の原因であったわけです。

例えば、昔アフリカの奥地で現地人に医療を施し、「聖人」と言われたシュバイツアー博士がいましたが、現地人は彼の行為について次のように評したそうです。

「彼は確かに我々のことを愛してくれた。ただし、ペットのように。彼は我々を治療したが、現地人の医者を一人も養成しようとしなかった。つまり、独立した人間として我々を認めようとしなかった。」

原作で山崎さんは、山田わかが昭和12年にシアトルで講演した時の様子を、そこに参加した女性の思い出話として、次の様に紹介しています。

「わたしは、前から待ちかねていたのですし、むかしこの町のキング=ストリートの女だった人が〈女史〉と呼ばれるようになっているという興味にも惹かれて、当夜、もちろん日本館ホールへ出かけました。会場はそれこそ超満員で、椅子がなく立っている人もずいぶんいたような気がしますねえ。日本人会の会長だの二、三人の挨拶があって、その時から弥次る言葉が飛んでいましたが、いよいよ山田女史が演壇に立ちますと、そりゃもう大変です。『いよう、アラビヤお八重』とか『久しぶりだな、お八重さん』とか、なかには、女のわたしには恥ずかしくて口にできないような言葉もまじります。――あの方、キングに出ていた頃の綽名というんですか源氏名というんですか、〈アラビヤ八重さん〉て言ったんですとねえ。

地味ィな着物に眼鏡をかけた山田女史はどこから見ても野暮なつくりで、この人に黄色い声を張り上げていたむかしがあるなんて、わたしにはどうしても考えられませんでした。その山田女史、壇に上がったままひと言も申されず、ずうっと黙っておられます。――と、人間というものはおかしなもので、話すべき人が挨拶も言わないで黙って立っていると、何となく気になって来るものらしく、数分したらさしもの弥次が間遠になり、それからにわかに静かになってしまったのですね。

そうしましたら山田女史、その静かになった一瞬を待っておられたかのように、はじめて口を開かれました。おだやな口調で、しかし真剣なおももちで最初に言われた言葉を、今でもわたしははっきりとおぼえています。女史はこのように言われたのでした。――『わたくしは、皆様の前に立てる女ではございません。しかし、わたくしは生まれ変りました。そうして、地獄から生まれ変って来た女だからこそ、ここに立って、皆様にお話したいことが胸いっぱいにあるのでございます。』

このひと言を聞きますと、会場は水を打ったように静まりかえって、それこそ咳ひとつ立ちません。男たちも、山田女史のその言葉に圧倒されたのか、さすがに恥を知ったのか、それからはひとつの弥次もさしはさみませんでした。そうして女史は、あとは政治のこと、平和のこと、婦人の役目のことなどを諄々と話して、無事に講演を終えられたのでした」

苦界から脱出することで人間として尊厳を取り戻して「お八重」から「わか」に再生した彼女が、立花ではなく山田を選んだのも、彼女が自立した人間として成長する可能性を山田が認めてくれたからでしょう。

その点では立花役に比べて山田役の性格は明快で、役として得をしていました。

客演のスコーピオン役の役者さんはそれなりの雰囲気がありました。ただ、殺陣の場面は大きな劇場であれば気にならなかったかもしれませんが、客席と距離の近い小さな劇場では組み手との訓練の差もあるのでしょうが、どうしても粗が見えて仕方ありませんでした。それでもお客さんは悲鳴をあげたり、楽しんでくれていたようです。

斉藤和子さんたちが登場するだけで舞台がしまるのですから、さすがベテランとその存在感に感じいりました。

二役が多かったのですが、筋を追うのに精一杯だったのと、役者の皆さんが達者だったせいか、気になる場面はありませんでした。

ただ瑣末なことですが、最初の王の衣装がオレンジ色の安っぽい布地で、どう見ても大親分のものには見えませんでした。それと最終場、わかの白髪カツラの装着が不完全で、黒い地毛が見えていました。そんなくだらないことが気になりました。

最後に観客に向って挨拶された斉藤誠治さんが、亡くなられた多海本泰男さんのことを思い、絶句する場面には私もついウルッとしてしまいました。

私が新劇場のお芝居を初めてみたのは、1980年釧路市で開催された第9回北海道演劇祭での水上勉作『霰(あられ)』でした。喜劇系の私には出来ない大人のお芝居で、斉藤和子さんと工藤篤さんのしっとりした演技が今も記憶に残っています。このお芝居以来、私はすっかり新劇場のファンになりました。お芝居だけでなく、道演集の集会(その後の懇親会)では、多海本さん、山根さんとも親しくお話をすることが出来て、そのたびに大きな刺激を受けてきました。

その多海本さんの訃報を、昨年(2010年)9月江別市で開催された第24回演劇祭で、24日に公演された新劇場参加作品『二人の長い影』を観た後に知りました。とても素敵なお芝居を観た後でしたので、ことさらショックでした。同芝居の札幌公演が終わった後の9月9日に亡くなられたとのこと、惜しい方を失ったと無念でした。あの人を包み込むような、やさしい笑顔に会えなくなったなんて今でも信じられません。そんな私よりも、新劇場の創立メンバーで良き指導者であった多海本さんを失った劇団員の皆さんは、もっと衝撃を受けて悲嘆にくれたのではないでしょうか。

しかし、劇団員の方々は、その悲しみに立ち止まらず創造活動に打ち込むことで多海本さんの遺志に答えた、と演劇祭でのお芝居の出来を観て思いましたが、今回の観劇でその感を更に強くしました。

一口に50年と言いますが、その間に山あり谷ありであったことでしょう。それらを新劇場の皆さんが乗り越えてきたのは、年1回は公演をするという原則と、それを実現してきた民主的な劇団運営にあったと思います。

私が30年あまり団友としてお手伝いしてきた、劇団河童も創立50周年を迎えながら、何だか訳の分からない形で分解してしまったのも、劇団の「私物化」という問題が顕在化した結果であったと思います。確かに劇団河童が団長夫妻の献身で支えられてきたことは誰も否定できない事実ですが、それにしてもお芝居は一人では出来ないわけで、参加した役者・スタッフの自主的な協力が必要です。河童の残念な結果は、長年の惰性で明朗な劇団運営と自主的な意思に基づく協同が近年欠けていたのが原因した、といま思っています。

劇団はお芝居を創造してこそ劇団です。これからも新劇場が21世紀に輝く劇団として、我々のあこがれの劇団として活躍されることを期待しています。

(2011年9月30)

 

 

 

 

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