感激!観劇雑感 2009年版 |
目次 | ||
1 | 座・れら 2009年(平成21年)6月14日(日) | ジャンプ |
「空の記憶」 田丸 誠 | ||
2 | 劇団うみなり 2009年(平成21年)10月25日(日) | ジャンプ |
「フユヒコ」 田丸 誠 | ||
3 | 釧路演劇集団 2009年(平成21年)10月31日(土) | ジャンプ |
「帰ってきたオトウサン」 田丸 誠 |
2009年(平成21)6月14日(日) やまびこ座 『空の記憶』 (作 浜 祥子 演出 鈴木喜三夫)
田丸 誠 |
上記写真は、北海道新聞H21.6.27夕刊より転載しました。 |
平成21年(2009)6月14日(日)、やまびこ座で開催された「座・れら」の旗揚げ公演(アンネ・フランク生誕80周年)『空の記憶』を観に、北見から札幌へ出かけました。同年の4月北海道演劇集団の総会の時に、演出の鈴木喜三夫さんから是非観に来るようにとお誘いがあったからです。 『アンネの日記』は北見の劇団河童でも昭和54年(1979)と昭和61年(1986)の2回取り組んでいます。鈴木さんには、昭和61年の『アンネ』を演出して頂きました。私は役者として一回目はペーターの父親=ファンダーンと、2回目はミ―プとともに家族を援助するクラーレルをやりました。私の役者人生でも、二つとも記憶に残る役でした。 これまで鈴木さんは、『アンネ』をライフワークのとして、「アンネ三部作」に取り組まれてきましたから、その最新のお仕事としてこの『空の記憶』があるのだと思い、これは見なずばなるまいと、北見から出かけました。 最終日の当日は雨の日で会場についたのは開演時刻である午後2時の10分前でしたが、すでに客席は満員状態。それでも何とか空席を見つけて、腰を下ろすことができました。その後もお客が切れず、押して2時7分の開演となりました。 脚本は、児童文学者・浜祥子さんの書き下ろしで、全くのフィクションです。1945年アンネが最後を迎えた収容所のあったベルゲン・ベルゼンに、1995年9月、浜さんが旦那様と訪れた体験を核にして、同地に死ぬ一年前(1979年)、90歳のアンネの父親=オットー・フランクが訪ね、アンネの魂と出会う話を創作されました。 舞台は幕なしのオープンセットで、下手正面にスクリーンが下ろされ、一段高く緑灰色の幕で覆われた平台が置かれ、上手がやや斜面をなして、それを囲むように白樺のような裸木が3本立っていました。平台の下、上手よりには破壊されたレンガ壁面の一部が転がり、それが劇中で椅子がわりになっていました。 時間が押したためか、一ベルだけで芝居が始まり、下手より朗読者(竹江維子さん)が舞台中央に登場し、この舞台が、強制収容所のあったドイツのベルゲン・ベルゼンであることを告げます。それはいいのですが、そのBGMが合唱で、しかも歌詞があるものだったので気が散り、朗読を邪魔して、その言葉が良く聞き取れませんでした。後の朗読のBGMも同様でした。これならBGM無しにするか、精々がハミングでそれも音量を小さくすべきだと思いました。再演する際には、一考を要するところです。 朗読が終わるのに前後して、大きな鞄を下げた高齢のオットー・フランク(澤口謙氏)が下手から登場し、下手奥の運転手に午後5時に迎えにくるように言い、舞台の上を見渡しながら歩き回り、腰を下ろします。 そこへ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(ひとつの小さな夜の調べ)の曲が流れ、上手奥から若い女性が登場。フード付のライトグレーに、ところどころに囚人服を意識した青い縦縞のあるワンピースの衣装。足は素足で皮膚病のためか、爛れています。ここで、オットーはアンネ(小沼なつきさん)と再会します。 私も経験があるのですが、二人芝居は役者がほとんど舞台に出放しで、演じている間は舞台裏に引っ込むことが出来ないので、台詞をとちると中々その動揺から抜け出ることは困難なのです。この芝居でもオットーの台詞で危ない場面がありましたが、何とか持ち直したのは流石でした。これも、二人の役者さんの練習の賜物かと思います。 この芝居は過去(1979年)の時点で、しかも実在の人物で、終戦間近になくなったアンネと、戦後を生きたオットーに対話させる形式です。役者が二人で演じる芝居では井上ひさし作『父と暮せば』があるのですが、『父と…』は生きている娘と原爆で死んだ父親の話で、娘の最後の生きる決意に未来への希望があるのですが、『空の記憶』では死んだアンネと死が近いオットーという二人で、将来の可能性という点で閉じられた芝居になっていて、間違えば感傷に流されてしまいます。 死んだ者が語りたかったこと、やりたかったことを、想像力で思い描くこと。若いアンネのしたかった旅行、フランスはパリでの散策など、親子が想像上の小旅行で、ほっとする場面に続いて、日本に世界一『アンネの日記』の読者がいることや、読者からの手紙、「アンネの日記展」、見学団とのやりとりなどがオットーから語られ、いつか京都へ行こうというオットーの誘いを、アンネは拒否します。それは、軍国日本がナチスドイツと手を結んだ同盟国だったからです。オットーは戦後日本が「永久に戦争はしない」「軍隊を持たない」ことを憲法に明記したことをアンネに伝えます。しかし、アンネは危惧します。「新顔のヒトラーが現れて『戦争放棄なんて夢物語。力こそ正義なり!』なんてことになりませんように。」と。憲法「改正」で「戦争の出来る普通の国」になることを主張し、現在の北朝鮮の軍事的な瀬戸際政策に対して、対話ではなくて「基地を先制攻撃せよ」と軍事行動を唱える保守系議員達のいることを想起させます。 そのアンネが持っているノートやペン、ハンカチなど、それらがこのベルゲン・ベルゼンにやってきた、女性の旅人がアンネを想い、置いていったものであることが語られます。その旅人はベルゲン・ベルゼンの地に横たわり、「アンネが最後に見た空」を見上げた。これがこの脚本の題名『空の記憶』の由来です。 この時の「空」をスクリーンにどの様に印象深く表現するかも問題であったと思いました。スクリーンは心象風景を映し出す空であるようなのですが、縫い目が見えて貧弱でした。私の記憶の中には、残念ながら印象として何も残っていません。最後に登場する四重奏団を隠すためにスクリーンとしたために、ホリゾントを使用できなかったこともあるかもしれませんが、この点も何とかしてほしいと思いました。雲間からアンネに射す、神の啓示のような一筋の光など、何か工夫がほしかったところです。 アンネは、『アンネの日記』に記されたこと以後の、収容所で起きた事実、普通の善良であった筈の人間が、ナチスによって人間性を奪われて餓鬼にならざるを得なかった事実を日記に書かれたこと読み上げる形でオットーに語ります。辛さのために聞くことを拒否しようとするオットーにアンネは「パパ聞かなきゃダメ!私を愛しているなら、ちゃんと聞いて!パパが聞いてくれなきゃ、誰が、誰が聞いてくれるの。こんな信じられないことがあったんだって、誰に訴えればいいの。死んでしまったら、黙っているしかないじゃない。声がないんだから。自分がどうしてこんな目に遭わなきゃならないのか、まったくわからないまま、死ななきゃならなかったのよ。生きている人がどうにかしてくれなくちゃ、この事実は、暗い穴に葬られたままになってしまう。いつか忘れられてしまう。お願いだから、このことをつぶさに伝えてよ。『アンネの日記』は、あれで終わりではないんだって、アンネ・フランクの最後はこんなだったと、ちゃんと、ちゃんと伝えて……。お願い。」と語ります。これは現代を生きる我々に向けられた言葉です。 プログラムにある鈴木さんが書かれた「演出のことば」にも「十五歳九カ月という短い彼女の人生の中で、重要な後半の七カ月は想像を絶するナチスの収容所生活だ。アンネはそこで何を見て、何を考え、何を訴えたかったのか――それがこのドラマのすべてではないだろうか。」とあるとおりで、その演出の意図は伝わりました。 アウシュビッツで引離された父親オットーが死んだものと思い、母親や姉が次々亡くなることで生きる希望を失い、死んでいったアンネ。 同じことが、私が高校生時代、40数年前に読んだ心理学者フランクルが著した『夜と霧』でも記されています。フランクルは愛する妻が生きていることを「希望」に、絶望的な強制収容所の極限状態を生抜きました。彼は、収容所では「希望」を失った者から消えるように死んでいったことを、淡々と記しています。 生きる「希望」を失って死に行く者は、過去のことではありません。この現代日本でも毎年3万人以上の人々が自殺しています。自分を世の中の不要な者として、自ら死を選択しなくてはならないことは異常としか言い様がないのですが、「弱肉強食」を肯定して人を勝ち組と負け組に分別する、資本主義社会の階級意識から見れば、そうしたことは自然なこととして受け入れられてきたのです。 強制収容所の入り口には、「働けば自由になれる」と標語があったそうですが、企業のリストラで「即戦力」か否か選別されて、一方は企業の外に廃棄されて路上生活者として野垂れ死ぬか、企業に残った者も「首切り」の恐怖に命を磨り減らし、過労死か、うつ病による自殺か、「死」が意識されている意味では、日本社会そのものがゆるやかな「強制収容所」になっているのかもしれません。 オットーはナチスが勢力を拡大していた時に、国外に逃れていれば、アンネをはじめとする家族を喪うことはなかったという思いに、戦後苛まれて生きてきました。オットーはアンネに「許し」を乞います。 しかし、歴史書を見ると「ドイツ国民」の多くは選挙でナチス、ヒトラーに政権を与え、学生達の「白バラの抵抗運動」のように一部に抵抗運動があったものの、彼が危険な独裁者になっても多くは熱狂的に支持しました。ナチスはヒットラーが自殺して敗戦になるまで、「ドイツ国民」が生活できるように他国から略奪した物資で配給を維持し続けました。その「ドイツ国民」の多くは自分達が生活できる限り、ナチスと折合いをつけ最後まで戦争を止めさせようと立ちあがることはありませんでした。日本においても、国民は戦争末期には負け戦であること本音では自覚しつつ、これを止めさせることができませんでした。ポーランドのワルシャワ・ゲットーでは、高学歴のユダヤ人がナチスの手先の警察官となりました。彼等は自分達家族の生存を優先して、同胞を弾圧することに何の躊躇もなかったそうです。しかし、彼等も弾圧する対象がいなくなった時には、最終処分=抹殺されてしまいました。自分達家族の生活だけを優先し、愛を注ぐだけでは、戦争の疫災から逃れることは出来ないのです。それ以上に、戦争を未然に防止することは出来ないのです。 そうした中で、アンネ達の生活を支えたミープ達の連帯の姿勢は大きな人類愛に満ちたものでした。それは、ドイツ軍に露見すれば直ちに射殺されるかも知れない危険なことだったからです。アンネが隠れ家で人間に対する信頼を失わなかったのも、ミープ達がいたからでしょう。黒川万千代さんが『アンネ・フランク/その15年の生涯』で紹介されているとおり、ナチスの軍隊に占領されたオランダでは、子供だったオードリー・ヘップバーンも参加したように、市民の抵抗運動が活発に展開され、最後まで傀儡政権をつくらせませんでした。また、多くのユダヤ人達が市民によって匿われました。他人の、異民族の人権を守るために、今の私がミープ達と同じように直接的な暴力を前に毅然と行動出来るかどうか考えると、その困難さが一層考えさせられるのです。今でも日本では戦争中の「従軍慰安婦」や朝鮮人・中国人の強制連行問題について何も解決していない、それどころか「自虐史観」だとそれらの事実を否定し、先の戦争を「自衛・解放戦争」だったと主張し、侵略戦争であったことを認めない政治勢力もいるのですから。 隠れ家でアンネがミープに教えてもらった子守唄を、今度はフランクがアンネから習って歌う内に、アンネは消えていきます。アンネを探すフランク。そして心をのこしながら迎えの待つ資料館に去っていくフランクが退場後、上手奥にボロ布をまとったアンネがポツンと立っている姿にスポット。間髪をいれず、スクリーンがあがり、「風の弦楽四重奏団」による「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が演奏されました。その生演奏は非常に素晴らしく、何も芝居につけなくても、独立して十分価値のあるものでした。それだけに観客の気持ちが演奏に移り、この芝居の劇的な余韻が打ち消されたようでした。 この最終場面に、収容所で最後を迎えたアンネが汚物にまみれた、惨めな姿で立ち尽していることは、現在もイスラエル軍の攻撃にさらされているパレスチナの子供たちをも連想させ、現在を生きる我々への告発になるものですから、もっと丁寧に表現されるべきだったと思いました。 それとこの劇中のアンネはフランクが願望した姿なのですから、無理に小沼さんにメイクや衣装で早変わりさせなくても、別に15歳のアンネに似た少女を立たせても良かったのではないでしょうか。それができなければ、強制収容所にいた少女の写真でも良いかもしれません。 いずれにしても、折角の楽団の皆さんの名演奏は、劇とは別個に処理すべきだったと思われました。再演されるとすれば、この点も整理はしておくべきだと思います。 以上、気になった点を記しました。再演を楽しみにしております。 |
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H21.1.12 上記文中、パレスチナ軍はイスラエル軍の誤りでした。すでに訂正済みです。 |
紋別市文化会館 『空の記憶』 (作 マキノ・ノゾミ 演出 我孫子正好)
田丸 誠 |
上記写真は、北海道新聞H21.10.26夕刊より転載しました。 |
2009年10月25日、北見から汽車とバスを乗り継いで、紋別の劇団海鳴り第39回定期公演、第55回紋別市市民芸術祭参加作品『フユヒコ』を観てきました。『フユヒコ』と言っても、1992年に流行ったテレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で佐野史郎が演じた、マザコン「桂田冬彦」ではなくて、「吉村冬彦」のペンネームを持つ随筆家で物理学者であった寺田寅彦(1878〜1935)の家族をモデルにしたマキノ・ノゾミが書いた2幕8場の芝居で、2007年6月に新劇場でも上演したようですが、残念ながら私は観ていません。演出は我孫子正好。 会場は紋別市文化会館の多目的ホールで、座席数は252席で芝居をするには丁度良い大きさです。開演は午後1時30分で、ほぼ満席。 舞台は前回の『お糸文七』と違い、しっかり建てつけたセットになっていました。下手に一段高く茶の間があって、その奥には寺田夫人の寝室になっており、その反対側は応接室で籐椅子の応接セットがあり、壁面にはアップライトのピアノがあって、その上には大きな招き猫が置かれています。この招き猫は妻が小銭を入れて鬱憤を晴らしたり、冬彦が困ったことが起きるとその頭を撫で回してストレスを胡麻かすことに利用されています。セット中央部が開口部になっていて二階の階段の入り口であり、洋室の壁の向う側に玄関がある設定になっていました。 芝居の梗概は、昭和9年(1934)の12月24日から大晦日までの8日間の寺田家の出来事です。 24日伊香保温泉へ夫婦で行く予定であった冬彦(松浦伸二)は、長男が報告したいことがあって予定より一週間早く帰ってくる電報をもらって、旅行を中止したいのをつい言い出せず、最終便が出発するまで上野でウロウロして時間を潰し、妻りん(五十嵐陽子)を怒らせて自宅へ戻ってくる場面から芝居は始まります。留守番をたのまれた次男・秀二(斉藤利治)と長女・早月(中越真樹)の会話から、妻りんが後妻で子供達とはしっくり行っていないことが示されます。そうこうしている内に、文化学院に通う次女・秋子(舘山留美子)を巡って喫茶店で若者二人が喧嘩する騒動があり、警察で保護したとの電話が冬彦にありました。 翌日、りんは長男・康一の帰りを待たず、お芝居見物に出かけます。父から外出禁止を言い渡された秋子は騒動の顛末を姉に語ります。しつこく秋子の付きまとう男を諦めさせるために友人の沢木登(松尾淳司)を恋人役にして一芝居を打ったつもりが、暴力沙汰になってしまったということでした。そのような中、北海道から帰ってきた康一から中谷宇吉郎教授の推挙で北大の講師嘱託に決まったことを聞かされ、冬彦、姉妹、弟は喜びます。 26日、康一の講師就任のお祝い。冬彦の友人・大河内正親(我孫子正好)が招かれ、りんの接待を受けます。康一は大河内に理論物理学の時代に、身の回りの物理学を研究することの疑問をぶつけます。大河内は研究対象に重要性の差はないと諭します。上機嫌の冬彦はチェロを持ち出し、康一がバイオリン、秀二がピアノで三重奏を大河内に聞かせようとします。そこへ不意に客が冬彦を訪ねてきます。玄関からもどって招き猫の頭を撫で続ける冬彦。大河内が帰った後、冬彦は先ほどの客がスキャンダル新聞の記者で、娘の騒動を記事にすると強請に来たので断ったことを家族に告げ、それを聞いて家族は驚きます。 翌朝、その新聞を秋子に見せまいと兄弟は買占めに近所の新聞販売店を駆け回りますが、大量の新聞を置く場所に困った時、りんは自分の部屋に運びこむように言います。しかし、結局秋子はりんの部屋から新聞を盗み出してしまいます。そこへ沢木が冬彦に弁明に現われ、秋子との交際を申し込みますが、冬彦に拒否されます。それをかげで聞いた秋子は招き猫を投げて壊してしまいます。家族はその事に驚くと同時に、猫に貯め込まれていた筈のお金が少ないことに首を傾げます。 雪が降りしきる日、秋子はりんが旅行に用意した鞄を持って家出してしまいます。「今に帰ってくる」というりんを除き、心配して心当たりに電話する姉や探し回る姉や兄弟。そこへ責任を感じ、必死で秋子を探していた沢木が飛び込んできて、秋子の友人から聞き出した行く先を知らせ、寒さと疲労でそのまま昏倒してしまいます。 やがて秋子とも連絡が取れ、一同安堵。次の日、長女・早月は外出して招き猫を買ってきました。帰宅した秋子の土産も招き猫でした。秋子の話では、りんの旅行鞄の中には50円もする外国の銀時計があったという、それは旅行先で冬彦にりんがプレゼントするつもりの品で、その資金は招き猫に貯めた金だったらしい。鞄をりんの部屋に戻した後に現れた長男・康一も新聞を買占めたため金がなくて小さな招き猫で、次男・秀一にいたっては自室にあった福助人形を持ってきました。冬彦もまた招き猫を買ってきました。最後に登場したりんも招き猫を買ってきました。ピアノの上にならぶ招き猫と福助。やれやれみんなで仲直りといったところです。そこへ沢木からこの事件へのお詫びの電話があり、誠意を感じた冬彦は秋子との将来のことも考えて、沢木に就職先の口利きを約束します。 大晦日、旅行をやり直そうと冬彦夫婦は出かけようとします。その時りんは康一に就職祝として冬彦に用意した銀時計を渡します。困惑する子供たち。やっと出かけたと思ったら、またりんが怒って戻り、自分の部屋にこもってしまいます。招き猫を抱えて、うじうじする冬彦。どうも大河内の姿を見かけて戻ってきたらしい。そこへ招き猫を土産に来た大河地は招かれざる客であることを察知して、早々に退散、ここで幕となります。 途中休憩を挟んで終演午後3時55分、楽しい芝居で、帰りのお客さんたちも口々に「良かった、面白かった。」と言っていました。 本が良く出来ていて、全体的に破綻のない芝居で、現在の海鳴りで動員できるベストメンバーによる公演だったと思います。日中戦争(1937)が本格化する前の、秋子が通う「文化学院」に象徴される、まだ「自由」が残っていた戦前のホーム・ドラマです。それでも気になった部分があったので、敢えて憎まれ役をかって、雑感を書いておきます。 冬彦役の松浦氏は地にあった適役で、私は大変良かったと思いました。ただ、最初の家に戻って、冬彦がお茶を入れるシーンで、急須の蓋がはずれて転がるハップニングがあり、素の松浦氏自身になって、バツの悪そうな苦笑いをしたのはご愛嬌と言えばいえますが、ここはこらえて芝居を続けるべきだったでしょう。役者が動揺すると、観客は劇的世界から現実にかえり、興が削がれます。それとりんとの「男と女」のつながりというか、情感というか、そうした交流の表現があればもっと良かったと思いました。 それはりん役の五十嵐さんにも言えるところで、これは演出の問題かもしれませんが、冷たいばかりでなくて、冬彦が惚れた可愛い面も欲しかった。あれでは、怖いままで、何故冬彦が一緒になったか、観客としてはわかりません。 長男・康一役の進藤君は科白を確実に覚えて表現していたのは良かったと思いましたが、特に大河内との対話で感じたのですが、逆に科白を憶えるのに精一杯で、表現に幅がなかったのが少々残念でしたが、次も楽しみにしています。 長女・早月役の中越さんはぴったりだったと思います。細かいことを言えば、髪型などが少し地味すぎたように思いました。奔放な次女と対照的にしたのでしょうが、もう少し若さが見えた方が良かったと思います。 次男・秀二役はこの芝居の潤滑油みたいなもので、『海鳴り』の看板役者の一人である斉藤君も落ちついて芝居をしていて、安心して見られました。ただ、ドイツ語の翻訳家なんてインテリの役づくりには困ったのではないでしょうか。これも瑣末なことですが、冒頭、次男が風呂から上がって股引姿で室内に入ってくるシーンがあるのですが、その股引の下の下着が透けて見えて、どう見てもボクサーパンツでした。やはりこの場合は、時代考証から考えて白い褌にするか、白い猿股の類にすべきでしょう。 次女・秋子役の舘山さんは、役の性格もありますが、大変のびのび芝居をしていたと思います。これも適役でした。 大河内役の我孫子氏は、演出して役者だったわけで、大変おつかれさまでした。最後に少々のミスをしても、落ちついていたのは役者としてさすがでした。 沢木役の松尾君も、役を楽しんでやっていたようです。昏倒する場面など、コミカルに芝居していました。 あと、家族で三重奏をする場面、ピアノ・バイオリン・チェロが出てくるのですが、ピアノは作り物であるから仕方ないにしても、バイオリンもチェロも少し音が出せるように稽古しておくべきでした。借り物だったのか、役者がおっかなびっくり楽器に触っているのが、見え見えでした。これでは芝居になりません。 また、所々に入る父親のナレーションが、BGMが大きくて聞き取れない部分があったこと。これは松浦氏の活舌の問題もあるのですが、基本的には音響担当がもう少し配慮すべきだったと思いました。 同じ音響関係ですが、舞台中央にある電話が重要な場面で何回か鳴るシーンがあったのですが、上手スピーカーから聞こえ、違和感をおぼえました。面倒かもしれませんが、陰スピーカーで処理すべきでした。 この日は紋別に泊まったのですが、道都大学が去ったせいか、飲み屋街に若者の姿は少なく、前から見ると元気がないようでした。居酒屋で一人銚子を傾けながら、映画館もない紋別で『海鳴り』の芝居は市民の誇りになっているな、と思ったしだいです。 |
2009年(平成21)10月31日(日) 道立釧路芸術館アートホール 『帰ってきたオトウサン』 (作 北野ひろし 演出 尾田 浩)
田丸 誠 |
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平成21年(2009)10月31日・11月1日、北海道立釧路芸術館アートホールで上演された作・北野ひろし、演出・尾田浩の釧路演劇集団第35回公演『帰ってきたオトウサン』を、おじさんが個人的な歴史調査で市立釧路図書館へ行く用事もありましたので、一泊して両日とも観ることが出来ました。 会場の釧路芸術館アートホールは、固定式の階段席と平土間で、芝居用の造りにはなっていませんから、照明のセットは大変だろうとおじさんは毎回思っています。場内に入ると、会場奥にイントレ(工事用足場)が組まれ、それを紗幕が覆っていて、適宜、照明でそこでの演技が見られるようになっていました。 その前には、下手にテーブルと椅子が四脚、中央にソファ。上手階段席寄りにご焼香用の祭壇がしつらえてありました。階段席でお尻の痛いお客さんのために、葬儀社から借りてきた座布団が用意されていました。 幕はありませんので、場の進行は暗転で進められていきました。 冒頭、薄暗がりで複数の老若男女が携帯電話に向かいそれぞれ勝手に何事か大声で話しているシーンから始まりました。 そこから一転、紗幕の中でオトウサン(たまだ まさき)が電車事故で死んだことが携帯電話で、息子(浅野俊規)や娘(浅田昌枝)、大阪に住む訳有り気な叔父(浅太郎)などに次々と知らされていきます。 場はかわり、オトウサンの自宅でのお通夜。叔父の妻(上西千鶴子)に手伝ってもらいながら、妻(如月志帆)は子供たちと弔問客の対応をしているところに葬儀屋(高橋悌司)が現われ、オトウサンの遺影用にする適当な写真がないのでどうするか相談を始めます。 そこへオトウサンが勤務する会社の部下で、次席の山本(中山知征)、平職員の上岡(小向 光)、同僚で社内の見合いで上岡と婚約した松田(寺田 舞)らがやってきます。そこで山本から妻にオトウサンの写真が渡されますが、その笑顔のオトウサンの写真は松田が持っていたものでした。 一方、叔父夫婦はバブル時代に派手な生活をしていたのが破産、今では住む場所もない状態で、ボケた母親を説得して同居を決め込もうという算段でした。 また弔問客の中にはオトウサンの家庭の内情を探ろうとする怪しい客、実は保険調査員(ゆみこ)もいました。 そうした訳有りの人々が集り、それぞれの思いで酒を飲んだり、葬式の相談しているところへ、突然轟く稲光とともに半裸姿で、死んだはずのオトウサンが紗幕の間から飛び出してきて、一同パニックになります。 そのオトウサンが必死に訴えるには、泥酔してベンチで寝ている間に身ぐるみ脱がされていて、こんな姿では不審者と見られるので交番にもいけず、隠れ隠れ我が家にたどり着いたら、自分の通夜が行われていて、雷雨になってこらえ切れず部屋に飛び込んだというのです。 しかし、帰ってきたオトウサンを迎える皆の反応は様々で、妻は何で帰ってきたという風で、フリーターの息子はこれからオトウサンにかわって自分が一家の柱として頑張るつもりだったのにと怒り、葬儀屋は葬儀をキャンセルすることは今更出来ない、するとなればそれなりのお金を貰うと言い、家族は集った香典を返したら、葬儀の費用はどうしたら良いのかと言い出す始末です。 ただ一人、喜んだのは松田だけで、ついに彼女はオトウサンと不倫関係にあったことを皆に暴露してしまいます。一層窮地に陥るオトウサン。 上岡はオトウサンに社内見合いと称して体よく松田をあてがわれたことや、その彼女に愛していないと言われ、大ショック。逆上した上岡は場の主導権を握って、山本にはオトウサンがいなくなれば昇進できるなど、オトウサンが帰ってこなかった方が良いことを色々と主張しはじめます。 家族の中で娘だけが「オトウサンの味方」と言い、オトウサンは感激します。しかし、そこへ赤ん坊を背負った冴えない中年男・渋谷さん(司 敬)がやってきて、オトウサンを無視して妻に娘と結婚させてくれと言い出します。彼がいうには、オトウサンがどうしようもない横暴な奴で、今まで娘はこの男と付き合っていたことを言い出せなかったので、オトウサンが死んだと娘から連絡を受け、これ幸いと晴れて結婚の申し込みにきたというのです。それを聞いて激怒したオトウサンは渋谷さんを追い回します。 その渋谷さんが語る身の上話では、青森から集団就職で上京、間違ってラブホテルの従業員になって、長年ベッドメークを続け、オーナーが死んだので、その妻と結婚して子供もできたのが、その女も死に今では何億もの売り上げのあるホテルのオーナーになったというのです。また、保険調査員からはオトウサンが死んだとなれば、莫大な保険金がおりることが告げられます。 そこでオトウサンを天国に送り返し、亡き者にした方が為になると思った人達はオトウサンを押さえ込みにかかりますが、丁度そこへ何も知らないおまわりさん(竹馬 慧)が弔問に現れ、事なきをえます。 そんなことでやっと皆が冷静になり、オトウサンが帰ってきたとなれば、お棺の中の人物は一体誰だということになりました。検死に立会い、その死人がオトウサンであることを確認したのはボケた母親(富田みち子)でした。そこで棺が運びこまれ、オトウサンが中を覗きこみますが、眼を開けて見る度胸はなく、見もしないで自分とは別人だといいます。そこでその別人が残した遺書が読み上げられ、彼がオトウサンと同じように家族をかえりみず仕事にかかりきりで、彼も自宅へ帰ってみると葬式が行われ、その後は彼なしでも家族は生き生きと暮らして、会社も何の支障もなく動いている。そして、そんな必要とされない自分の人生を終了する為に、このような仕儀に及んだことがわかりました。 しだいに皆から孤立し、そろそろと紗幕のかげに姿を消すオトウサン… この後に一寸したどんでん返しがあるのですが、今後どこかで上演されて、観る人もいるかと思うので、そのネタは楽しみのために明かさないでおきましょう。 最後、各人が勝手に携帯電話に何事がしゃべるシーンがあり、妻が電話の会話で居なくなったオトウサンが釧路でこの芝居を観ていたことを告げて、一巻の終わり。 この芝居はタイトルからしてわかるとおり、菊池寛の『父帰る』とザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』のパロディでした。 菊池寛の『父帰る』は昔父親が家族を捨てて女と逃げ、兄が父親代わりになって苦労し、それでも何とか慎ましく母親、弟、妹と幸せに暮らしていたところに、不意に落ちぶれた父親が現れて一波乱おきる短編ですが、この芝居『帰ってきたオトウサン』でも父が死亡したという状況を家族が受け入れ、それなりの安定ができたところへオトウサンが帰ってきて葛藤を生じる構造となっています。そこに現代風に不倫や、草食系男子、サラリーマンの悲哀などを織り交ぜてあります。簡単にいうと、家族のことを考えないで自分勝手にやってきたオトウサンが、気がつけば帰る家がなかったというお話です。 この芝居を観て、おじさんは1997年に社会学者・桜井哲夫氏が著した『不良少年』(ちくま新書)の、次の一節を思い出しました。 「『父』は、母子関係を基本とする動物界のなかで、人類が発明した『制度』であって、家族内の暴力を規制し、規範を形成するための装置であるからだ。父に現実的な力があったわけでもなく、あくまで家族がその地位を承認し、それを援護する親族システムがあってはじめて成立するものなのである。父は、家族関係のなかで承認されて初めて有効性を持つ存在であって、ひとり暴君を気取っても相互承認がなければ一人芝居にすぎなくなる。だから、父的役割を果たすのは、子どもと血のつながりのない存在でも可能なのである。」 この前、NHKかどこかのテレビで、「江戸時代の子どもの躾は、父親がやっていた。」という放送があったと思いますが、江戸時代でも家族関係で父親はそれなりの役割を果たしていたわけで、現代のオトウサンたちは家庭に中でどんな役割を果たしているのかと考えるには、この『帰ってきたオトウサン』は良い芝居かなと、おじさんは思いました。 ただし、この劇作家は問題提起するのは大変上手なのですが、良く考えると納得できない虚構と強引な展開で終らせる傾向があるので、演出も苦労したのではないでしょうか。 主な役者はオトウサン役のたまだ氏はじめ、如月さん、浅太郎氏、上西さん、中山氏、ゆみこさんなど、ベテランで安心して見られました。 葬儀屋役の高橋氏は、これまで金融関係に勤務されて釧路演劇集団の応援団だったのが、役者になったそうですが、少し滑っていたところはありましたが、なかなか達者で飄々とした良い味を出していました。次の芝居も楽しみです。 アクの強い演技で出色だったのは、渋谷さん役の司氏で、オジサンも役者なら絶対やりたい役で、ズーズー弁なども楽しんでいた様子がわかりました。 娘役の浅田さんは18年ぶりの芝居復帰だそうですが、その覚束ないところがかえって役にあって良かったのかもしれません。 あと釧路公立大学の学生諸君。さすが松田役の寺田さんは全く落ち着いていて、ベテランと引けを取りませんでした。 上岡役の小向君は初舞台だそうですが、この役は芝居の虚構を感じさせないというか、観客に考えさせないテンポが要求される重要な役でしたが、健闘していたと思います。これからも頑張ってください。 息子役の浅野君も初舞台だったそうですが、まだ慣れないところがあるにしても良くやったと思います。 警官役の竹馬君は衣装が中途半端なのと、本当にちょい役で残念でしたね。次回は台詞の多い役で頑張ってみてください。 31日の公演後、おじさんは紋別『海鳴り』の我孫子夫妻や演出の尾田氏とムーサにある屋台村で一杯やったのですが、海鳴りは若手の参加がなくて困っているのに、釧路は今回のように地元の大学から演劇に参加してくれる若者たちがいるのは羨ましいと語っていました。しかし、その大学生達も卒業後は本州に帰る人がほとんどだそうです。 また、初日、オトウサンが棺を除きこむシーンで、オトウサンが眼をつぶっているのが我孫子氏の席から見えなかったという話があり、おじさんが立ち位置の問題ではないかと演出に言ったところ、翌日の公演でたまだ氏が位置を変えていたのは流石でした。 なお、公演時間は初日が18:30〜20:11、二日目が13:30〜15:05でした。 プログラムに、今回の芝居を最後に釧路演劇集団の看板女優の一人、如月さんが個人的な事情で劇団を離れるとありました。昔から釧路演劇集団の芝居を観てきたおじさんとしては寂しいことです。再び如月さんと舞台で会えることを期待しています。
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