空泣きて 地揺るぎ

神の御子ら 絶望に伏し時

雲別ちて 救世主(メシア)現れん




















救世主(メシア)、法皇宮迄送る。同行を」

抑揚の無い声と共に差し出された手をそっと取り、は教皇庁上役達の座する部屋から退室した
彼女、が此処、教皇庁国務聖省に保護され一月が過ぎようとしている



---空泣きて地揺るぎ、神の御子ら絶望に伏し時、雲別ちて救世主(メシア)現れん---
人知れず流れた噂は息つく間も無くローマ全体に広がった
そしてそんな噂が囁かれる中、何の前触れも無く此の地に姿を現したのがである
偶々任務の帰り、道端に伏し気を失ったをアベルが見付け保護したのが事の始まりだ
眼を覚ましたに何があったのか確認するも一切の記憶を失っており
唯分かるのはと言う己の名だけだった
何とか身元を確認しようとあらゆる手段で情報を収集するも彼女の戸籍は一向に見付からず、
かと言って放り出す事も出来ず
そんな中、今迄黙っていた“教授”ことウィリアム・ウォルター・ワーズワースが口を開く

「ではこうしよう、君の身の安全、並びに衣食住は我々が保証しよう…其の代わり---」





其の代わり、我らの救世主(メシア)とならん










(救世主(メシア)だなんて)

私には、無理だ
胸中呟こうとして、は額を叩かれる様な衝撃に思案するのを強制的に止められた
じんじんと痛みを訴え始めた額を手で押さえれ、ぶつかった其れへと視線を向ける
其処には、何時もの感情無い表情で己を窺う機械化歩兵が佇んで居た

救世主(メシア)損害評価報告(ダメージリポート)を」
「心配いりません…」

未だ口調は崩さぬも、
枢機卿達の面前であれ程厳粛な姿勢だったは先程迄の面影を欠片も感じさせず
弱々しく、逆に言えば様相に相応しい声で小さく返事を返した
そして続く沈黙
其の静寂を先に破ったのは、平静を保ったトレスの声だった

救世主(メシア)、私室に到着した」

そう言えば返事を待たず、ドアノブを捻ると中へと促す様に視線を向ける
硝子玉の瞳と眼が合えば其れ以上其の場に留まる訳にも行かず、
はゆっくりとした足取りで自室への扉を潜った
普段より白い肌は蒼白になり、明らかに体調の不良を訴えて居て
ふらりとよろめく相手の手を瞬時に捉えればトレスは負担の無い様に其の腕を軽く引いた

「…すみません、少し…眩暈がしただけです」
否定(ネガティヴ)、卿の発言には虚偽が含まれている」

私室として与えられた一室はが初めて連れて来られた時と何一つ変わらず、
絢爛とした装飾や備品が並べられて居るにも関わらず何処か寂しげで
暖炉の前にどっしりと構える安楽椅子へと導けばを腰掛けさせ、
自身は其の前に向かい合い床へと膝を付いた
僅か上体を寝かす態勢の儘瞳を伏せ深く息を吐く、其の吐息すら重く地に落ち行く様な気がして
眼の前が闇に包まれて尚グラグラと揺らぐ思考に嫌悪感すら抱きつつ静かに其の紫色の瞳を開く
薄暗い部屋の中、薪が爆ぜる度揺らぐ薄明をぼんやりと眺めては、
疲労に啼く身体に鞭打ちゆるりと上体を持ち上げた

「神父トレス、御苦労でした。もう持ち場に戻って結構です」

未だ己の前に跪く猟犬に眼を向けながら言えば再び其の重い瞼を下す
静寂が広がる、恐らく鋼鉄の猟犬は微動だにせず先と同じ場所に在るのだろう、と
そろりと瞳を開けば予想通りトレスは先程から1mmも動かずじっと硝子玉の眼を此方に向けて居た
無言の儘、時は過ぎる

「神父トレス、」
、」

同時、声質の違う其れが重なり互いに口を噤む
何事かとが目配せすればトレスは音も無く立ち上がり、僅かに腰を折って互いの距離を縮めた
近づく端整な相手の顔にも動じる事無く、虚ろ気な眼差しで其れを見詰める
遠くでパチリと言う乾いた音を聞きながら、は今日何度目かの溜息を漏らす
自身よりも微かに冷たい頬に触れ---刹那、トレスは機械音を立てながら其の手を引いた

「今、卿は救世主(メシア)でも修道女(シスター)でも無い」

救われるとは此の事を言うのだろうか
抑揚の無い声で紡がれた其の言葉に、無意識に強張っていた身体から力が抜けるのを感じた

「そう、ね…すっかり本当の自分を忘れていました」

普段修道女(シスター)として振舞い、
本来の姿---救世主を演じている事---を知らない教皇庁上役達の前では救世主(メシア)を演じ、
また時には教皇庁国務聖省特務分室(Ax)の派遣執行官“ノーバディ(存在しない者)”として生きている
そんな、目まぐるしく変わる己に、当人自身どれが本物の自分か見失う時があるのだ


苦笑と共に零れた声は年相応の其れで、ほわりと笑む表情は先程より大分幼く見える
調子の戻りつつある相手にトレスは何時もと同じ感情の無い眼差しを向けた
否、其の表情は何処か優しげにも見える、の疲労故の幻覚かも知れないが

「此処へ来て卿は休息時間が格段に減った、其れ故の疲労だろう」
「そうだね、来る日も来る日も仕事詰めだものね…」

言葉を吐き出す度に溜息迄零れ、は改めて安楽椅子へと全体重を預ける
ギッ…と言う音が僅かに鳴って己を支える其れの上で、文書片手に意識を手放す事は少なく無かった

「次の会談迄移動時間を除き1076秒有る、小憩する事を要請する」
「…ええ…」

微睡む視界の中、遠くに聞こえる相手の声へ何とか返事をし、はとうとう意識を手放す
暖かな室内のせいか、積み重なり支え切れなくなった疲弊のせいか
が眠った今となってはどちらが理由であろうと関係無いのだが
規則正しい寝息を聞けば、トレスは再び彼女の足元へと膝を付き、己もまた瞼を下す
そして、本人の意思とは無関係にデータ再生タスクが実行される













「トレス君、今すっごく優しい顔してますよ」

不意に掛けられた言葉に普段冷静沈着を保った機械化歩兵は言葉を失った
否、失ったのではなく其の言葉の余りの下らなさに返事を返すのも億劫になっただけかも知れないが
裏庭の一角、普段より殆ど人の居ない其処で放心する様に空を見上げる一人の少女と、
其れを見守る様に離れた場所より身を潜めて窺う二人の神父
アベルは未だ返事を返さない相手にふっと口元を緩め、視線を再び少女へと向けた
が“救世主(メシア)”として振舞う様言われ一週間
彼女は初めから救世主であるかの様に、完璧な振る舞いを披露して居る

「卿の発言意図は不明だ」
「言うと思いました☆」

ふにゃりと表情を崩すアベルから視線を外し、トレスも又再び少女へと眼を向ける
は未だ飽きもせず、雲一つ無い青空を見据えて居り

「彼女を見詰める時のトレス君の眼は、何時もより優しいんですよ」
否定(ネガティヴ)。俺は(マン)ではない、機械(マシーン)だ」

感情等無い、そう続けようとした唇が其の言葉を紡ぐ事は無かった
地に座った儘ぐらりと身体を傾かせたを察知した瞬間、トレスは強く地を蹴り駈け出していた
隣に居たアベルが其れに気付いた時にはトレスは既にとの距離を半分以上詰めて居り、
後を追う事も忘れ其の光景を何処か恍然と見詰めていた

救世主(メシア)!」

大きな手によって身体を支えられ、反転した視界は地に崩れる前にピタリと止まる
肩を抱く其れは人の手よりは冷たく、されど己の冷えた身体にはほんのりと暖かく
上下反転したトレスの顔が眼に入ればはようやっと己の状況に気が付いた

「神父トレス…す、すみません」
無用(ネガティヴ)損害評価報告(ダメージリポート)を、救世主(メシア)

後ろに傾いたの上体を地面との間に滑り込んだトレスの膝が受け止める
一見すればトレスがに膝枕をしている様にも見えなくは無い、かなり無理があるが
未だきょとんとした表情で己を見詰める相手にトレスは何を言うでも無く、
瞬時に相手の身体に異常が無い事を察知すればゆっくりと背を押し起こしてやる
ふるりと震える長い睫を感情無く見据えていたが、ようやっと我に返ったに意識を戻す
と、もそりもそりと悠長な動きでアベルが近づいて来て地面に腰掛けた二人の傍で膝を曲げた

さん、大丈夫ですか?」
「ぁ…はいっ」

アベルはぽんぽんと相手の頭を撫でつつ髪に付いた木の葉を払う
吃驚した様な、困惑した様な表情で己を見上げる相手へにへらと笑うも、
其の後ろに在る、気だるげな垂れ目がちの硝子玉の瞳に睨まれわざとらしく小首を傾げる

「どうしました、トレス君?」
「ナイトロード神父、何故卿は救世主(メシア)の救護に向かわなかった」
「す、すみません…突然の事で身体が固まってしまい」

まさか声を荒げた貴方に驚き、又身を寄せ合う二人を微笑ましく見詰めて居た、等と言える筈も無く

(本当に、優しい顔をしてる)

微苦笑しつつ頭を掻いては其の長身を伸ばし、座り込むへ手を差し出す
手袋に包まれた小さな手が其れを掴むのを確認し、アベルは優しく其の身を引き起こした
華奢な身体はアベルの細い腕でも軽々と引く事が出来、
有難うと礼を言いはパタパタと服に付いた草や葉を払う

救世主(メシア)、精神的・肉体的疲労を感知。休息する事を要請する」

言うや否や、拒否は認めんとトレスがへと手を差し伸べる
先程アベルにされたと同じように、だが拒絶を許さない其れには少し間を置き、そっと手を乗せた

「私室迄送る、同行を」

短く其れだけ言い相手が頷くのを見届ければトレスは手を引き僅か前を歩き出す
数歩足を進めた処でふと、前を行くトレスが歩みを止める
再び首を捻るアベルに顔だけ向ければ、トレスは形良い唇をすっと開く

「ナイトロード神父、卿は速やかに哨戒へ向かう事を推奨する」
「あ、」

トレスの一言で思い出したのかぴしりと硬直し、直後顔を真っ青にし慌て駈け出して行った
遠くなる背中を見詰めクスリと笑いを漏らすと、
此処に来て数少ない緊張の和らいだ相手を見詰めるトレス
二人も又、暖かな日溜まりに背を押され其の場を後にした













うぅん…と、小さく唸る声を聴覚センサーが捉えふと硝子の瞳を開く
跪いて居る為少し上に在る相手の顔を見上げれば、眠たげに瞳を擦るが映り
暫し朧げな表情で一点を見詰めていたが、ふとトレスの視線に気付き此方へと視線を向けた
眼が合えば、ふっと柔らかな笑みを零すにトレスは何時もの表情の儘、すっと立ち上がる
少し赤みの差す紫色の瞳が彼女の疲憊を物語るが、
幾ら同情しようと此れ以上休息へ時間を費やす事は出来ない
トレスの中のコンマ一秒の誤差も無い時計は今此の時も秒針が進んでいるのだ

救世主(メシア)、会談に向かう。同行を」

差し出された手も、其の奥で己を見据える瞳も、あの日と同じもので
其れでも知ってしまった、其の眼差しの最奥に在る温もりを
さり気無い優しさや、時折見せる人間らしさ
そして何より、

『トレス君てば、物凄く過保護になっちゃって』

彼の長身の神父が零した言葉を思い出す
常に傍に在るのは、己の主の命故か、それとも---

救世主(メシア)、時間が迫っている」

急かす様な其の声にはたと我に返り、は眼の前に在る其の手へと己の其れを重ねた
互い手袋で包まれているものの、僅か布越しに感じる温もりが酷く愛おしい
くいと引かれ立ち上がれば、トレスは一度離れ傍の机上に置かれた帽子を差し出す
余りに大きく、絢爛な装飾の施された其れは少女には不釣り合いで
が僅か頭を垂れればトレスは白銀がかった金色の髪の上へと其れを乗せた
純白を基調とした其の帽子と服は彼女の白い肌に馴染み、
まるで触れれば儚く消え行く粉雪の様にも見え

「神父トレス、参りましょう」

顔を隠す様に垂れた透かしの入ったレースに阻まれ表情が見えなくなれば、
彼女は少女では無く“救世主(メシア)”になる
声色の変わった相手を確認すればトレスは再びの手を取った
レース越しに見える相手の表情は何時もの柔らかな物ではなく、凛と前だけを見据える其れで
そっと、華奢な其の背へと手を添える
小さな身体は余りに頼りなく、其れで居て何よりも力強さを感じ

ふと、何時の日か己の主、カテリーナ・スフォルツァに掛けられた言葉が再生される





「神父トレス、今日より貴方には救世主(メシア)の警護に付いて貰います」

四六時中、一時も離れる事は許しませんと
続く言葉に僅か間を空けるもトレスは深く頭を下げ肯定(ポジティヴ)と短く返事をした

「私の警護は他の者に頼みます、貴方は救世主(メシア)の事を第一に考えて」
肯定(ポジティヴ)。此れよりの最優先事項をミラノ公より救世主(メシア)へと書換え(リライト)

今迄、カテリーナに仕えて以来一度として変えた事の無い最優先事項
其れを書換える事に僅か違和感を覚えつつ、己の前に佇む相手を見詰める
己を見詰め返すカテリーナの表情は、何時もよりも微か優しげに見えた

(其の優先事項が、永久に変わらない事を願います)

彼女の胸中等知る由も無く、機械化歩兵は主の命の為其の場を後にした










それぞれの胸に宿った暖かな其れは、神が遣わせた一人の御子が齎した光で
未だ其の感情を、其の願いを、其の希望を誰一人はっきりと理解出来ぬ儘、
其れでも確かに其処に在る温もりを抱いて
粉雪の舞う静かな夜は、今日も優しく終りを告げる










10.1.13