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風に混じり鼻を掠めるは異端の香
眼に見えずとも、僅かな気配が揺れる其の先を闇夜の内より凛と見据える
胸中浮かぶのは唯一人、己の心を掴み離さぬ紅蓮の若獅子、彼の人で
(何人たりとも、あの御方の領地へは踏み込ませぬ…!)
涼風と呼ぶには僅か冷た過ぎる風が木々を揺らし、ざわざわと唸る様に木の葉が啼く
刹那、眼前に見えた人影を見逃す事無く、は素早く得物を手にし枝を蹴り上げた
目標とする影に気付かれる事無く背後を取り、息吐く間も無く男特有のがっちりとした首へ刃を沈める
高い木の上より落ちた躯はどさりと一つ音を立て、辺りはまた静寂へと戻った
一つの枝に再び身を落ち着かせれば闇を見下ろす
其の瞳は眼の前の物等何一つ映しはせず、氷の如く鋭く冷たい物で
「此処へ足を踏み入れたのが貴様の運の尽きだ」
何処か忌々しげに吐き捨ててはひゅんと刀を振り、刃に付いた血を振り払う
其の儘鞘へと収めようとし、は不意に視線を感じ顔を上げる
視線の先には顔に交差した傷を持つ忍---服部半蔵の姿が在った
互い暫し黙った儘視線を交えて居たが先に口を開いたのはの方だった
「半蔵、貴様の草か…!?」
鋭く相手を見据えた儘に先程地へと転がり落ちた躯を顎で杓り、僅か声を荒げる
そんなとは対に、半蔵はゆったりとした動作で視線を落としふるりと一つ首を横に振った
が、そんな相手の言葉も信じられぬのか未だ苛ついた様相で半蔵を見詰め、ふいと顔を背ける
半蔵から見れば納まらない憤怒を当たり散らしたいだけの様にも見え、
気付かれぬ様にふっと小さく苦笑を漏らした
「拙者も其の影を追って居た…」
半蔵の其の言葉も聞こえないのか、は未だ眉間に皺を寄せ煮え切らぬ様子で躯が在るであろう下を見下ろしている
以前であれば、敵に対してももっと冷静で冷めた反応しか示さなかった
それこそ、此度の様な状況でも黙った儘に主の元へ帰って居ただろう
だが今目の前に居る彼女は違う、まるで別人の様に怒りを露にしているのだ
(くのいちの話、誠であったか)
以前、たまたま任務中にくのいちに在った時が真田に仕えて居ると聞いた
仕えていると同時、彼の真田幸村に対し好意を持っている事も、だ
とは豊臣に居た時より幾度か顔を合わせて居た為、半蔵は正直彼女が真田の元に居る事が信じられなかった
あれだけ主君の豊臣秀吉を慕い、其れこそ彼の人の為なればどんな任も確実にこなしていた彼女だ、
幾らくのいちが傍に在り、其の事実を目の当たりにしていようと到底信じられなかった
そう、今眼の前に在る彼の人を見る迄は
今のを見ればあの時のくのいちの言葉も信じられる…否、信じるしか無いだろう
其処まで考えふっと顔を上げれば、どうやら落ち着いたらしいが刀を鞘に納めるのが視界に入った
はぁ…と一つ、大きめの溜息を吐けばは少し離れた枝に立つ半蔵へ目線をやる
段々と空は白み、時折鳥の囀りが深い森に木霊する
長居は無用と半蔵が動こうとした時、カッと己の近くに在る木の幹へ苦無が刺さった
避け無かったのは相手が明らかに殺意を込めていないからで、
実際投げられた苦無は半蔵が微動だにせずとも当たる事は無く
ちらりと横目にを見れば其処には相変わらず膨れっ面の儘の彼女が在り
「先はすまなかった…だが、貴様とてあの御方の邪魔をするならば容赦はしない」
何だと言いたげに顔を向けて居れば折れた様にそう言い、
再び苦無を構えればさっさと帰れとでも言う様に掌をしっしと払った
そんな相手に半蔵は忍び笑い一言相手へ言葉を投げつけ逃げるように其の場から掻き消えた
言葉を受け取り見送ったも又、一度空を仰いでは風に溶ける様に姿を消す
東の空からは既に朝日が眩しい程に溢れて居た
(私は、そんなにも変わっただろうか)
上田城の一角、庭に生えた木の枝に逆さ吊りになりながらは一人何度も答えの出ない問いを繰り返していた
半蔵が去り際に言った一言、「変わったな」と言う其の一言がどうしても胸に引っ掛かっている
良い意味なのか悪い意味なのか、そんな事が問題では無い
どんな意味であれ己が変わったと言う事実をは受け入れられないでいた
今迄と同じ、唯与えられた命を確実にこなし、唯己の主君の為だけに命を費やす
此処に来てからも腕が落ちた事は無いだろう、与えられた任も全て完璧にこなして来た
「唯、違うと言うのなら…」
主君へ対する想いだろうかと、胸中静かに呟く
幸村に対する想いには己自身気付いている、此れは敬愛では無く一人の女としての情愛で
だが其れを表に出す気は無く---本人は出しているつもりは無い---あくまで主従関係として接している
そして此の想いも又、己の身が亡びるまで告げる事は無いと考えて居た
己の主君に対し恋心を抱く事すら恐れ多い事なのだ、
例え彼の人が他を愛そうと、他を娶ろうと、己は唯主君の為に命尽くそうと
其処まで考えて不意に己がぶら下がる枝が揺れるのを感じ視線を上げる
見ればくのいちが何時もの笑みでを見下ろしていた
良く言えば人懐っこい、悪く言えば意地悪い、しかし何処か憎めない其の笑みがは好きなのだが
膝で枝を挟みぶら下がった体制の儘は再び視線を戻す
庭には所々紅葉が落ちており、風が吹く度にカサカサと音を立て地を駆けた
「…は、の思う儘にすれば良いよ」
に倣う様にくのいちも真っ直ぐ前へと視線を向けた儘、至極真面目な声で其れだけ言う
其の言葉に込められた意味を正確に取る事は流石のにも出来ず、
又珍しく真剣な様子のくのいちに曖昧に嗚、とだけ返せばはそっと瞼を下ろす
思う儘に、其れは此の想いを隠し押し殺さずとも良いのだろうか
もしそうだとして、果たしてあの御方は此の想いを受け入れて下さるだろうか
考えに考え抜いてもやはり答え等出る筈も無く
くしゃり、と
不意に頭を撫でられ驚き勢い良く瞳を開けば眼の前には優しげな笑顔を浮かべた幸村の顔が在り
大きく身を揺らし其の儘地へとスタリと着地し改めて彼の人へと視線を向ける
どうやら何時の間にか近付いて来て居たらしい幸村が、
木の枝に逆さ吊りになるの頭へ手を伸ばし撫でて居たらしい
少し遅れ其れに気付けばは湯気が出る程顔を上気させた
「ゆ、幸村様…っ」
「すまぬ、驚かせたか?」
僅か困った様な笑みをしつつ再びの頭へと手を伸ばす
そんな相手に当のは唯々大人しくされるが儘になっていた、無論顔を真っ赤に染め
一方和やかな雰囲気の二人を見て居たくのいちは先の真剣さは何処へやら、
へらりと笑みを零しては己も木から飛び降り、幸村と一緒にの頭をわしゃわしゃと撫で回した
一体何をしているのか、考えても理解出来ず、唯嬉しそうに微笑み零す二人を見て居ると己も又幸せになり
暫し、の髪がぐしゃぐしゃになる迄其れは続く事になった
「すっかり忘れて居た」
散々頭を撫で回した後、幸村が思い出した様に口を開く
其の言葉にとくのいちは何事かと首を捻り幸村の顔を見た
にこりと、相変わらず人の良い笑みを向ける、其の度には小さく悶えているのだが
「、城下へ行くのだが付き合ってくれぬか?」
「城下、ですか?」
「嗚、久方ぶりに城下の甘味を食したくなってな」
そう言う幸村の表情は何処か童子じみていて、ほんの少し、可愛いと感じる
何故少しかと言えば格好良いの方が断然優っているからであり、
決して可愛い事自体を認めたく無い訳では無いのだが…と、は一人胸中話を進める
そんなを余所に幸村は幸村で一人甘味について盛り上がって居り、
相変わらず各々独走しがちな二人にくのいちは呆れた様に息を吐いた
結局あの後、二人はくのいちによって現実世界に連れ戻された
初め幸村はくのいちも一緒にと誘ったのだがくのいちは「面倒だから」と言い断った
果たして其れは二人に遠慮してか本心か、当人にしか知れぬ処だが
並び馴染みの甘味処へ入れば向かい合い席に着く
今の前に居る幸村は普段の具足姿では無く着流しを来ている
大名が外を歩く時こそ具足を、とも思うが、無闇に周りを騒がせたくないとの幸村なりの配慮だ
対には普段通りの忍装束を纏って居る
と言っても彼女の装束は世間一般で言う忍装束とは掛け離れた物で、
多少変わった服ではあるがさして周りが気に留める物でも無いらしい
何より、着流しで歩く幸村を守れるのは今隣に居る己でしかない為、
が着物を着る事は必然的に不可能なのだ
「此処の団子も久々だな」
運ばれて来た団子を口に含み幸村が言う、其の顔には笑顔が貼り付けられていて
そう、貼り付けられているのだ、今日一日見た笑顔はどれも作られた笑顔でしかない
其れに気付いたのは散々頭を撫でられたあの時
否、其れは若しかしたら幸村とくのいちの不可思議な行動故に気付いたのかも知れないが
そして今こうして共に城下へ来ている事も又、の胸をざわつかせる真因の一つで
「そうだ、折角来たのだからあんみつも食べぬか?」
確かに時折、幼げな動静を見せる時が有る、だが今の幸村は明らかに可笑しい
まるで泣きたいのを堪え無理に笑う童子の様に、酷く酷く切なげで
は手に持った儘口の付けて居ない団子を皿に戻し姿勢を正す
すると今迄元気一杯に笑って居た幸村の顔にふっと影が差した
「…、今から私が言う事、落ち着いて聞いて欲しい」
「はい」
幸村は持っていたおしながきを置き一つ、大きく深呼吸をする
そして一度瞳を伏せ再びゆっくりと瞼を上げれば、戦場で見る鋭い眼差しへと変わった
二人が坐する其の周辺だけがしんと静まり返る
以前にも似たような空気を感じたな、と胸の内一人ごちる
「今、天下は多くの大名を従える豊臣の手中に在るも等しい」
「はい」
「だが、豊臣が天下を取った訳では無い…そして世は乱世、下剋上の時代」
嗚、此の御方はそんな事に憂いていらっしゃったのかと
眼前、至極真面目な顔付きで話を進める己の主を見詰める
形の良い唇に見惚れて居られる程の余裕は今のには無かった
「…もし私が、秀吉殿を討たねばならなくなった時、其方はどうする」
「は幸村様の影、全ては幸村様の意の儘に」
余りにもきっぱりと言い放つ相手に幸村は僅か眼を見開いた
そしてふっと、重く圧し掛かっていた何かが落ちたかの様に身体が軽くなるのを感じた
愚かな事を聞いたと、自嘲気味に笑みを零せばすっと頭を下げる、其の行動に今度はが驚く
「ゆ、幸村様っ」
「野暮な事を聞いた、此れではまるでお前を試す様だ」
「そんな事…兎に角、御顔を上げて下さいっ」
机に額がぶつかる程深く下げられた頭に狼狽しつつ、細くも逞しい其の肩に触れそっと上向かせる
幸村の表情は曇っており、まるで叱られた子犬の様で
心の臓を握られた様な鈍い痛みが襲う、息する事すら酷く億劫に感じ
そろりと、震える指先で幸村の筋張った手を握る
何時も幸村が己にしてくれるように、優しく優しく、出来うる限りの情愛を込め
「どうか何時迄も、を御傍に…」
ふわり
上田城の渡りを歩いていたくのいちはふと、鼻腔を擽る甘い香に辺りを見渡す
既に夕刻、今から茶を飲みつつ菓子を摘まもう等と言う人間は居ないだろう
考えつつ匂いの元へ向け脚を進めれば案の定行き着いた先は厨
其処に在る一つの人影にくのいちはひょこひょこと近づいた
「お帰りー、んで帰って早々何してんの?」
「…嗚、くのいちか」
真剣な様相で餡と葛藤しているは顔だけ振り向き、くのいちの姿を確認すると興味なさげに呟いた
見た処手元には大量の餡と薄桃色の餅米、そして塩漬けされた桜の葉
何となく理解は出来た、大方幸村が甘味を食べたいと漏らしたのだろう
だが仮にもつい先程迄城下の茶屋に行って居たのだ…要するに、まだ食うのかと
「まぁ良いよ、其れは…」
「何が良いんだ」
ぶつぶつ呟くくのいちに餅米を丸めるが僅か不機嫌そうに問う、恐らく幸村に対し何か言ってると思ったのだろう
眉間に深い皺を作る相手にくのいちはにんまり笑みを向け首を横に振って見せた
そしてもう一つ、先程から存在を主張する其れに視線を向ける
「…で、今火にかけてるのは?」
「見て解らぬか、煎餅だ」
見て其れを作ってる経緯迄知れたら忍なんてやってないと胸中毒づきつつきょとと首を傾げる
幸村は甘味が欲しいと言ったのでは無いのだろうか?
若しかしたら其の煎餅は明日の分かも知れないと考え、即座に首を横に振る
どんなに忙しくとも幸村に出す茶請けだけは当日に作る、任が有る時は早朝に作ったりもした、とはそう言う人間だ
ぐるぐると珍しく思案するくのいちには丁度出来上がった煎餅を一枚手渡す
---何だかんだ言いつつくのいちにも甘いのかも知れない、無論一番甘いのは幸村に対してだが---
出来たて故少し熱いが、息を吹きかけ冷ましつつ其れを口にする、少し焦げた醤油の香ばしい味が口一杯に広がった
「幸村様は城下で団子五本、饅頭三つ、あんみつ二杯を食された」
「はぁ〜、相変わらずの大食い」
感心した様に、呆れる様に言えばが再びきっと睨んで来る
相変わらず口は開かないが何を言いたいのは大体察しが付く、大凡『成長期なのだ』とでも言うのだろう
そんな視線もひらりと躱すと煎餅を頬張りながら先を促す様に顎を杓る
「…今少し甘味が欲しいと仰られたのだ」
「此の煎餅は?」
「恐らくそろそろ塩気を御所望されると思い作った」
感服した、と言えば恐らく目の前の忍はまた鋭い眼で睨んでくるだろう、だから敢えて言葉にはしない
だが心からへ拍手を送りたいとくのいちは思った
好いた相手の為其処まで尽くす彼女に、長く真田に仕える己でも最早頭が上がらなかった
幸村は決して我儘では無い、だがやけに頑固な処が有るし、何より酷く鈍感で天然だ
若しかしたら報われないやも知れない其の恋が為に只管に尽くす相手が少し可哀想にも思えて来た
(や、実際報われちゃってるんだけどね?)
互いにそう言った処が鈍感故未だくっつけて居ないだけなのだが、
其れでも唯一人を慕い敬愛しそして想う其の一途さがくのいちには少し眩しく感じた
何が何でもくっつけてやらねばと、余計な世話焼き心を駆り立てつつ
「さ、忍やめちゃえば?」
「何を言う!私は唯幸村様の為だけに此の命を…!」
「あーはいはい、それより煎餅焦げちゃうよ」
ぎゃんぎゃん騒ぐの注意を煎餅達に逸らしつつくのいちは皿に並べられた桜餅を一つ摘まむ
程良い甘さの餡と塩味の利いた桜の葉が良い塩梅だ
摘み食いしたくのいちに気付きぺちりと頭を叩き、は幸村に出す茶やら茶請けやらを用意する
もう直ぐ夕餉なのだが、久々に茶に付き合うのも悪くは無いと
山積みされた桜餅の皿を盆に乗せつつ、くのいちもまたの後を追った
暫し、幸村の部屋からは楽しげな笑い声が響いて居た
09.6.12
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