「何故に此の私が、武田の元に…っ」

ギリリと奥歯を噛み締めは心底忌々しそうに吐き捨てた
武田信玄が在る躑躅ヶ崎館
豊臣秀吉が影であるは主の命により数名の部下を引き連れ暫しの間武田の元に身を置く事となった
否、実際には武田信玄の家臣、真田幸村の元だが
一つは武術の向上の為、また一つは真田幸村率いる真田十勇士の実力を探り其の技を物にする為
武田は既に豊臣の傘下に在る為、さして軋轢もなく秀吉からの申し出を受け入れたのだ、が

「だからと言って、何故私が武田の忍として働かねばならぬ…!」
「まぁまぁ、んな怖い顔しないでさぁ〜」

猫の様な締りの無い口をして言うのは真田幸村直属の部下であるくのいち
彼女とは以前に幾度も顔を合わせて居り、くのいちの言葉を借りて言う処の『マブダチ』である
暢気に言うくのいちにはキッと視線をやった
別に武田や真田、くのいちが気に入らない訳では無い
主の任務に不満がある訳でも無い
唯少し、ほんの少しばかり時期が悪かった

「やっと長期の任務が終わって帰ったと言うのに…」
「お疲れさ〜ん、武田でゆっくり休めばいいよ♪」

くのいちの相変わらずの暢気さに深く溜息を漏らす
眼の前には既に真田の居城、上田城が悠然と聳え立っていた





「此度の申し入れ、有難く」
殿…短き間ではあるが武田、そして此の真田の元でも普段と変わり無く…、」
「はいはい、幸村様はほんっとお堅いんだから…はしっかり者だから大丈夫だって、ねぇ?」

上田に入り直ぐに幸村と対顔したは初めて幸村と向かい合い其の姿に僅か眼を瞠った
戦場で幾度か其の姿を見た事があったが、猛将や熱血漢と言った印象が大きかった
其の為今目の前で清々しく笑みを向ける青年が同一人物と言う事に驚きを隠せずに居る
一方の幸村もまた同じで、相手を己の部下であるくのいちの様な女子を想像していた
故に、其の忠義な振る舞いと物腰の柔らかさに驚いたのだ

「多少露出は多いけど、腕は確かだからねぇ、は」
「くのいち」

一言多いとが眼で訴えれば当のくのいちはぺろりと舌を出し頭の後ろで手を組んだ
そんなくのいちの言葉に先程言葉を遮られた儘黙って居た幸村がへと視線をやる
惜しげも無く露にされた白い肌にどきりと胸が高鳴った
ふと、の視線に気付けば幸村はばっと視線を反らす
未だ心の臓は早鐘の如く高鳴り顔が熱い、眩暈すら感じた
そんな幸村を知ってか知らずか…否、気付いてすら居ないのだが、は何処か苦慮の表情で口を開く

「真田殿、此度の件ですが…秀吉様は何時迄の期間と…?」
「それが、私も何も聞かされて居らず…」

は其の言葉にとうとう枝垂れてしまい、幸村は幸村で先程から顔を真っ赤にし視線を泳がせている
そんな二人を余所にくのいちは一人立ち上がり縁側へと脚を向けた
外は温かな日差しが降り注ぎ、時折聞こえる鳥の囀りが耳に心地良い
そしてちらりと向かい合った儘黙りこくる二人を盗み見る

「こっちの春はまだまだ遠いみたいだけどね〜」

ぼそりと、誰にも聞こえぬ程小さな声で呟き漏らす
溜息とも取れる其の声は、違った意味でうんうん唸る二人の耳に届く事が無かった










が上田城へ来て半月余り、大きな戦も無く唯只管鍛練を続ける毎日を送っていた
真田十勇士とも顔を合わせる事が出来、また互いの用いる術や情報を交換したり等、
今迄とは違った交流に僅か心弾むのをは感じていた
部下の忍も随分此処に馴染み、各々仲の良い相手も出来たらしい
此処の人々は忍も武士も皆優しく気さくな人間ばかりで、
秀吉の周りに似た此の場所が何時の間にか心地良くて仕方なくなっている自分がいる
何よりも、あの低くありながら優しい声色が己の名を呼ぶ、其の瞬間が酷く至福に思えて

殿」

不意に下から声が聞こえ、は己が身を乗せる木の枝から少し身体を乗り出す
直ぐ真下には声の主が居り、再び口を開き掛けたのを見ては音も無く枝を蹴った
幸村の目の前に降り立てば片膝を付き深く頭を下げ、「此処に」とだけ告げ続く言葉を待つ

殿、そう畏まらなくとも宜しいと…」
「否、今は幸村様が主故」
「で、ですから…様等と呼ばれる立場では…っ」

此処、信濃に居る間は幸村がの主になる、無論秀吉の言い付けでだ
最初『主』と呼んでいたのだが流石に心地が悪いと言われ、渋々『幸村様』に落ち着いた
呼ばれる当人は未だ納得していない様だが

「それより、何か御用が有ったのでは…?」

先を促す様声を掛ければ幸村はそうだったと言わんばかりに頷き改めて視線を合わせた
凛とした、優しくも鋭い視線が重なる
ドクリと心臓が高鳴り、其れを隠すかの様には胸元を両手で押さえた
瞳を細め魅入る様は傍から見れば正しく恋する乙女、某戦国ゲームの女忍者を思わせるだろう
幸村が視線を合わせるようにの前へ膝を付く、顔が一気に近くなりふるりと華奢な肩が揺れた
黙った儘に白く小さな手を幸村の大きな手が包み込む
辺りには二人から(粗八割はから)溢れた薔薇が美しく咲き誇る
俗に言う、二人の世界である
更に言えば、無自覚の上の、だ

殿、実はお話したい事が…」

惚ける様に幸村の顔を見詰めていただがはっと我に返り、深く頭を下げる
相手の真剣な表情にの顔もまた赤みが消え至極真面目な顔へと変えた
ふと具足を留める白の腰紐へと無造作に差された文が眼に入る、恐らくは豊臣からの書状か
口を開く間も無く付いてくる様に言われ、は其の紅蓮の鎧の後を追う
城内へと向かい歩みを進める二人の背を見詰める影が、小さく小さく溜息を吐いた

「あ〜らら、ってば幸村様に御執着なのねん?」

くのいちの言葉通り、は幸村に対し任務としての感情では無く、はたまた本当の主以上の想いを抱いていた
事の始まりは何と言う事は無い、幸村の槍を振るう其の姿に眼を奪われたのだ
恋とは至極唐突で、また至極単純な物
其れ以来、冷徹鷹揚だったは一転、幸村の前では恋する乙女の如く大人しくなり、
手を握られた日には顔を赤く染め己の身を抱き悦楽の表情を浮かべて居た
初めくのいちはそんなをからかって居たのだが当の本人は無自覚らしく、
幸村が居ない時は至って普段通りの態度を取る、全く以て面倒極まりない
一方の幸村はと言えば此方も相変わらずの天然っぷりを発揮し、
の心境の変化等露知らず「殿は良き忍だ」等と賞賛の言葉を掛ける始末

「あんな幸村様に恋するもあれだけど、気付かない幸村様も幸村様だよねぇ〜」





其の頃二人と言えば城の一室にて向き合い坐して居た
初めはほんのりと顔を赤らめて居ただが、何処か重々しい空気を感じ取り再び表情を引き締める
何故か嫌な予感が過り、膝上に置いた拳に力を込めた

「…此処での生活は如何でござろう」
「はっ…とても、快適に」
「そう、ですか…」

何処となくぎこちない会話、脇に置かれた書状、一向に視線を合わせない幸村
の中で、全ての線が繋がった気がした

其の後も中々口を開かない相手の言葉を待ち、やっと真実を聞いたのは既に陽が暮れた頃だった
簡単に言えば任務終了、豊臣の元へ帰れと言う事
そして其れは己が、此処信濃へ来た時何よりも強く望んだ事
だが何故か、其の言葉程幸村の口から聞きたく無かったと思うのは
どうしてこんなにも、胸が締め付けられ痛むのか

「秀吉殿が、明日の朝、此処を発つようにとの事です」

己が何処に在りたいのか言わねばと、開き掛けた口は幸村の凛とした表情に閉じざるを得なかった
此の方に己は必要無いのだと、知らしめされる様な気がして
其れ以前にくのいちが居る、優秀な忍部隊も付いている
何より己は豊臣秀吉の影、幾ら傘下に在るとは言え、何時真田が敵になるか解らない
傍に在りたい等と言える訳も無く、は唯深々と頭を下げ其の場を辞するしかなかった



「帰しちゃっていいんですかぃ?」



何も言えず黙りこくる幸村の背後に声を掛けすたりと畳の上に降り立つくのいち
其の声は言葉とは裏腹、何処か暗く悩ましげで
背を向けた儘幸村は一度首を縦に振った

「あんなに『良い忍だ』って褒めてたのに?」
殿は秀吉殿の忍、私等が引き止めて良い方では無い」

そう言いながらも曇った儘の表情にくのいちは今日何度目かの溜息を漏らす
そしてお互いが天然と言うのも困り物だと胸中呟いた

「それに、そんだけじゃないでしょ?幸村様にとっては」
「なっ…そ、そんな事は…!」
「ちゃんと言わなきゃ伝わらないって、忍同士でもなきゃ長く仕えてる訳でもないんだし」

何時もの様に頭の後ろで手を組み他人事の様に(実際他人事なのだが)言うくのいちに幸村はゆるりと視線をやる
に対する気持ち
忠義に尽くし腕も立ち、何よりも時折見せる笑顔が酷く眩しくて
初めは中々に打ち解けられず声を掛けるのも少し躊躇う時があった
だがある日を境に、己への態度が変わった、気がする
正確な日にちやどう言った仔細が原因かは解らないが
其れでも、そんな事は関係無い位にと共に過ごす時間は己にとって幸甚の時だった
唯、残念な事に此の真田幸村に色恋事の知識等殆んど無いに等しく
此の気持が何なのか考え込むが余り、其の夜幸村の部屋から灯が消える事は無かった





翌朝、陽も上りきらぬ内に達は上田城を発った
昨晩寝ずに己の気持ちが何かを考えた幸村だが、やはりと言うか何と言うか、其れが恋だと気付ける筈も無く
最後の最後迄引き止める言葉を見付けられず、
、此の場へ留まる事も出来ず、表情には出さないものの後ろ髪を引かれる思いで信濃を去ったのだった



「長…」

忍特有の脚を活かし帰路を直走る中、不意に配下の忍が声を掛ける
木々の枝を伝いながらふと視線だけ其方に向ける、無論止まる事は無く
向けられた鋭い視線に僅か臆しつつも忍は更に言葉を続けた
本当に此の儘帰っても宜しいのかと、其の言葉には無意識に唇を噛んだ
忍である己達に、此の忍衆の長であるの変化に気付かない者等居る訳も無く
…実際あれ程迄の態度を取られれば誰でも直ぐに理解するのだが、今は其処が問題では無い
信濃を発つと告げた時の哀しげな表情を見た忍達は何とかしてだけでも留まらせられないかと考えて居た
結局良い案も浮かばずこうして共に帰還してるのだが、未だどうしても納得出来ず

「長、秀吉様には我々から話を持ち掛けます故、どうか御戻りを…」

戻れと言われて戻れる程は軽薄な忍では無い
確かに幸村の傍に居たい、だが主を裏切る事等到底出来る筈も無く
ふるりと首を横に振れば枝を蹴る脚に力を込めようとした
其の時、

殿…!」

耳に届く其の声に意識とは裏腹、身体の芯が火照り瞳の奥が熱くなる
嗚、あの御方が私の名を呼ぶと…
本能なのだろうか、唯一心に喜びが身体を駆け巡る

「幸村、様…っ」

耐え切れず軸を返せば木の上から飛び降り、細い獣道へと脚を付ける
そして背後より白馬を駆り迫る彼の人の姿を見れば、至福の末其れだけで意識を手放してしまいそうで
馬から飛び降りた幸村は僅か息を切らせへ駆け寄った
今迄の道脚を動かしたのは馬だと言う事はすっかり頭から抜け落ちている、幸村らしいと言えば幸村らしい
何時もの様にが片膝を付き頭を垂れれば幸村も又其れを追う様に目の前に膝を付く
そしてそっと、地に添えた白い手を大きな其の手で包み込む

殿、私は…私はっ」

鬼気迫る様相で言葉を紡ぐ相手には唯黙り次の言葉を待つ
見惚れて居ると言えばそう取れなくも無いが、今の表情を見ているのは幸村だけで
天然な彼の人が其れを汲み取れる訳も無く、しどろもどろに、其れでも己の言葉を懸命に探している

「長くとも短き間、殿と共に語らい、干戈を交え…私は…」
「………」
「…殿、此れからも私の傍に居ては下さらぬだろうか…」

瞬間、二人の周りには幾つもの薔薇が咲き乱れたと後に配下の忍が語る事になる
声を失うも、幸村の困惑した様な、寂しげな表情を見ればは慌てて頷いた
最初から断る筈等ないのだ、どれ程迄に其の言葉を待った事だろう
握られた手を躊躇いながらもきゅ、と握り返せば、ようやっと幸村の顔に笑みが戻った
そんな二人を尻目に、配下の忍達は音も無く其の場を後にする
無論向かうは秀吉の元
御叱りを受けるだろうか、首を刎ねられるやも知れない、それでも
敬愛し心酔する彼の長の為ならと、心無し和やかな雰囲気で脚を進めて行ったのだった










深緑が視界を埋め尽くす季節
信濃・上田城の庭先にて槍を振るうは紅蓮を纏う真田幸村
庭にはヒュン、と言う風を切る音と時折幸村の吐息だけが聞こえる
そして其の様子を、背後の木の上より甘い眼差しで見詰める一つの影

「…幸村様…」

甘く焦がれる様にぽつりと名を呟くのは金色の髪を靡かせる彼の忍、
先の任の後、彼女は此処、上田城---基、幸村の元---に残る事となった
無論、幸村の忍として
初め居た堪れない気持ちが強かっただが恋は盲目、
幸村の何気なく送られる労いや賛嘆の言葉に今迄以上に其の想いを膨らませていた

ふと、幸村の元に一人の忍が現れる
其の忍、くのいちより文を受け取った幸村は顔を顰め、くのいちも又僅かにだが表情が硬い
そんな二人の様子が気に掛かり、は軽やかに身を捻り地へと降り立つ
しかめっ面をしていた二人はへと視線を向け、そして静かに息を吐いた

「幸村様、如何されましたか」
殿、実は…」
「秀吉さんから文を預かったのよねん」

其の言葉には微か身を震わせる
此処へ戻って間も無いが、秀吉の余りにも早い行動には勿論幸村達もが身を硬直させた
を引き戻して直ぐ幸村が秀吉宛に文を書いたが、恐らく未だあちらへは届いて居ない筈
秀吉へは配下の者が巧く説得してくれると言って居たが、結局は秀吉次第なのだ
緊張した面持ちの儘幸村の手に握られた其れへ視線をやり早く中を見たいと催促する
幸村は一度、ごくりと喉を鳴らしゆっくりと文を開いた
戦になっても可笑しくは無い、其れ程迄にの存在は秀吉、そして豊臣にとって大きなものなのだ

「…な、っ…」

文を開いた瞬間、幸村は情けない声を上げ其れをぐしゃりと握り潰してしまった
そんな相手の行動にはきょとんとし、くのいちは悟ったのかニマニマと意地悪く口許を歪める
幸村は相変わらず慌てふためいた儘、顔を赤くしそそくさと其の文を懐に仕舞ってしまった

「ゆ、幸村様…一体何と…」
「大事はござらん、心得たと書いて在りました!」

声を上擦らせながら其れだけ言えば幸村は脇に刺し置いた槍を手に再び鍛練へと戻ってしまった
一方、未だぽかんと口を開け幸村の背を見送るの肩をくのいちはポンと叩く
其の口元には相変わらず厭らしいさを滲ませた笑みを浮かべて居る

「んまぁ、此処に居て良いって言うんだし、良かったじゃない♪」

くのいちは返事を聞こうとせず、寧ろ逃げるようにパタパタと城の中へと駆けて行った
取り残されたと言えば僅か口を開き、忍らしからぬ表情の儘暫くの間其処から動けずに居た
後、何が書いてあったのかと二人に聞けど、
くのいちは見て居ないと言い張り幸村は頑なに其の口を開こうとはしなかった
唯言えるのは、其の話を持ち掛けるとくのいちはにやにやと笑い、
幸村は顔から火が出るのではと言う程赤くなる事だけだろう
そして幸村と言えば、文が届いて以来暫くの間夜な夜な魘されたとかいないとか
無論原因は秀吉からの文な訳で、

「祝言は何時だ、だなんて…御戯れが過ぎます、秀吉殿っ」
「満更でもない癖にぃ〜」
「く、くのいち!」

未だ暫くは此の話でからかわれるだろうと、
幸村はくっきりと皺の出来た眉間に手をやり溜息を漏らしたのだった










09.5.23