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あの日、私が貴方の元へ来てから
ずっと、ずっと、この幸せが続く様にと願ってました
いつの日か太平の世が訪れて、
皆が笑い、愛し、想い合える日が来る事を信じ
ぶっきら棒に差し出された牡丹一華は、透き通る程に白かった
頬を撫でる風が段々と優しいものになった頃
父、徳川家康の案によりは石田三成が元へと嫁ぐ事となった
俗に言う政略結婚である
娘のが父へ異論出来る筈も無く、また自身父の為ならばと此れを承諾した
いずれは国の為になる、其れだけが己の支えだった
「しかし、何故に三成殿の元へなのですか」
家康の隣に腰かけた忠勝が何時もの顔の儘問うた
普通ならば秀吉の元へ嫁がせるのが道理では、と
其の言葉に家康は小さく頷き口を開く
「儂も初めは其のつもりで居たのだがな、秀吉殿達ての申し出だ」
家康は何度、誰が問うてもそう言うだけだった
自身、誰の元へ嫁ぐのも同じ事と
父の言葉も耳にせず、遠く空を羽ばたく二羽の鳶を眺めて居た
あの時は唯、目の前の絶望から眼を背けるのに必死だったのかも知れない
どっしりと胡坐を組み、他の殿方に負けず劣らずと胸を張りたる殿方が一人
けれど其の身体つきは周りの殿方よりも幾分華奢で、面持ちも何処か中世的で、
無理をして居る其の様をはじっと見詰めていた
ふと、此方に気付いたのだろう、
其の殿方が眉間に皺を寄せたのを見ればはさっと袖で口元を隠し視線を逸らす
嗚、嫌われてしまっただろうかと
考えれば考える程思考はどんどん消極的な方向へと向かい
そんな己に気付いた稲姫がそっと手を握ってくれた
「三成、何怖い顔してるのっ」
ぱしんと音を立て三成の頭を叩くのは、秀吉の妻のねね
まるで自分の子を叱る様な其れに周りの雰囲気も和み、
羞恥にか歯痒さにか三成はぐっと奥歯を噛み締めた
そんなお顔もされるのですねと、が小さく呟き漏らせば、
傍に控えた半蔵が視線だけ此方に向けた
「しかし、まっこと麗しい姫君じゃ!三成には勿体無いのぅ!」
親しみのある笑顔で言われは深く頭を下げる
豊臣秀吉様、初めはもっと怖い人かと思っていた
何せ己は世界を知らな過ぎる、城より外の事は何一つ解らないと言っても過言では無い
ゆっくりと顔を上げれば、未だ不機嫌そうな顔と向かい合い
懸命に優しく笑みを向けるもふいと視線を逸らされてしまった
心に影が落ちる様な感覚には瞳を伏せる
「こんなに若いんだもの、
お前さまより三成の処に嫁いで貰った方があたしは嬉しいからね」
ねねに屈託無い笑顔を向けられもまた戸惑いながら笑みを作る
此の人達となら巧くやって行けるかも知れないと、心の隅で安堵した
其の後、家康達は祝言の日取りを話し合うからと三成とは其の場を追い立てられた
仕方なしと三成を庭へ案内し、二人は言葉も無く咲き始めの桜を眺める
掠め行く風がの黒く長い髪を揺らす
まだ蕾の多い其れを見つめて居れば、三成がそっと己の肩を抱いた
見つめ合う其の刹那に、すべてを奪われた
「、は居るか…っ」
日盛りの佐和山城に、彼の人の声が響き渡った
物静かではあるが通る声故か、どんなに遠くに在っても聞こえる其の声に、
は手にした縫物を脇へと置き居住まいを正した
すっと開かれる襖の先には愛しい其の人
僅かに息を切らせながら、三成はの前まで来てやっと腰を下ろした
「お帰りなさいませ、三成様…」
先の戦より帰った三成に深々と頭を下げれば涙に視界が滲み
中々顔を上げないに耐え兼ね肩を掴めば瞳に浮かぶ雫に小さく溜息を漏らした
「毎度毎度、戦の度に泣かれては困る」
飽きれた様に言うものの其の表情には困惑の色が見え、
申し訳有りませんとは慌てて涙を拭った
そろり、と
見れば懐から何かを取り出そうとしては躊躇いすぐさま引っ込める
何度か其れを繰り返す相手に無言の儘やんわりと手を重ねた
ぐっと口を真一文字に結び、勢い良く何かを突き出す
眼の前へ現れたるは真っ白は牡丹一華
きょとと相手を見るも顔を真っ赤にし横向いた三成は黙ったままで
ずいずいと押しつけられればはそっと其の花を受け取った
「綺麗な花…に、くださるのですか…?」
愛しげに華を見つめれば上擦った声で嗚、とだけ返された
微かに香る甘い香に瞳を伏せつつそっと頬を寄せる
不器用な優しさが堪らなく嬉しいと、は胸を熱くする
「名も解らぬが、唯一つぽつりと咲いていた…
土産を買いに行く暇も無かった、此度は此れで許せ」
やっと顔を合わせた三成に、此れが良いですとが微笑む
本当ならば着物や簪、櫛に紅にと彼是買い与えたかったのだが
春の日差しの様な其の笑顔に疲れも忘れ、三成は相手の身体を抱き寄せた
「此の華は牡丹一華と言うのです…花言葉は真心、でしたでしょうか…」
きゅうと、潰れてしまわぬ様に受け取った花を抱き締める
そんな様子を見つめ、三成は躊躇いがちに口を開いた
「…此度の戦で暫くは暇を持てる、何処か見て廻るか」
が嫁いで来て以来三成はずっと執務に追われていた
城に閉じ込めた儘だった事を思えば申し訳無く思い提案する
始めは困った様な、不安げな様子だっただが、
三成が外の話を幾つか聞かせれば先の表情は何処へやら
僅かにだが瞳を輝かせ、外へ出る日を心待ちにした様子で
ふっと、脇に置かれた縫物が眼に入りひょいと持ち上げる
「ぁ…、其れは…っ」
慌てて奪い返そうとする手を躱せば眼に飛び込んで来た其れに三成は眼を丸くした
綺麗な字で縫い込まれた見知らぬ名前がずらりと並んで居り、
女の名と男の名が交互に綴られている
ばっと其れを奪い返せば僅か涙を浮かべ、はしゅんと顔を俯けた
「…や、稚児の名を、考えて居りました故…」
相手の口から出た言葉に更に眼を丸くし、思わず強く肩を掴む
びくりと震えるにはっと我に返り、すまぬと詫びれば漆黒の髪を優しく撫でた
稚児が出来る筈等無いのだ
三成は仕事が多く、今まで褥は疎か御膳を共にした事も無い
ぐるぐると良からぬ事ばかり頭に浮かぶ三成に対し、は愁嘆の面持ちで口を開く
「三成様は…を愛して居りませぬか…
だから、稚児も欲しくはありませぬか…」
小さな声で、まるで己に言い聞かせる様に呟くが痛々しげで、
三成は思い切り首を横に振り白く小さな其の手を握った
いらぬ訳が無い、お前を愛して無い訳が無いだろうと
額に掛かる前髪を払ってやればそっと額へ唇を落としてやる
「…では、きっともう直、達の処へも鸛が来て下さりますよね」
仲睦まじい夫婦の元へ鸛がやって来ては二人へ稚児を授けてくれるのだと、
父に聞いたと言う話を嬉しそうに話す相手に、三成は盛大な溜息を吐いた
さて何から教えて行こうかと
抱き寄せる華奢な身体が余りにも温かくて
(嗚、こんな俺でも、こんなにも幸せになれるのだな)
互いに願うは、此の幸せが永久である様にと言う事で
静かに流れ行く刻に今だけは身を委ねようと
さらさらと流れるの髪に顔を埋め、三成はゆっくりと瞳を伏せた
何も知らない私に、貴方はすべてを教えてくれた
今もまだ、私は何も知らない儘だけど
貴方はどんな時だって答えてくれる
何時までも、私の傍で答えてくれる、そう信じて止まなかった
08.12.13
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