|
暗闇に熔ける様に二つの影が夜陰を舞う
可憐なる影一つ
敏捷なる影一つ
今宵もまた、主君が為影達は闇に身を沈める
半蔵と最後に逢って半月が過ぎた
特別寂しい等と思った訳では無い、ただ安否を知る術が無い為憂慮なだけ
がそう言い聞かせる様に呟けば遠くでねねの呼ぶ声が聞こえ、
頬を撫でる風と共にその場から掻き消える
ふわりと音も無くねねの元へ行けば足元に跪き、何時もの様に顔を俯かせ命を待つ
と、何処か違和感を感じそろりと顔を上げる
視界に入った人物には僅か眼を見開いた
「半蔵…?」
ねねの後ろには何時もの様に秀吉の姿が在る
その横には家康と忠勝、そして半蔵の姿が在った
とくん、と胸が高鳴る
視線が合えば聞きたい事が山程と湧いて来る
しかし主君達の手前傍に寄る事すら出来ず、もどかしさには僅か表情を曇らせた
半蔵との仲は内密なものであり、決して許される事では無い
もまた、周りの者達にその仲を認めて欲しい訳では無い
ただ、普通なら出来る事が出来ない、其れが酷く歯痒いのだ
「おねね様、此れは…」
己が置かれた状況が今一理解出来ず、小声で傍に居るねねに問いやる
と、どうやら此度の任務は徳川が影、半蔵との物らしい
つい、と
眼の前に奇怪な武具が並べられる
新しい武器の瀬踏みを兼ねて、真田が居城である上田城へ潜入せよとの命だ
しかし、この任務は真田方にも伝えられていると言う
あくまで武器の瀬踏み、故にその鍛錬場として上田城を租借したのだ
「その武器を使いつつ、上田城に在る密書を奪還して来て欲しいんじゃ
勿論、何時もの武器は使わんでな?」
主の命なればどんな任務でも全うする
はただこくりと頷いた
物音一つ立てず、二つの影は城の屋根裏に潜んでいた
半蔵はちらりと隣で下の部屋を覗くに視線をやる
普段身に纏う其れとは違い、忍らしく黒を基調とした装束が眼に付く
此度の任務では此の装束の機能性も試すらしい
只、今はまだの分しか有らず、半蔵は何時もの其れでだが
そして武具に関しても同じく、半蔵の持つ其れは普段愛用している鎖鎌の儘だった
半蔵はの胸元に視線をずらす
さらしで胸を潰し全身を包み隠す様な其の姿はが女で在る事を忘れさせる様で
黒から覗く新雪の如く白い肌に暫し見入る
を知らぬ者が見れば、少し小柄な男忍かと思っても可笑しくはないだろう
ふと、此方の視線に気付いたと眼が合う
口当てをしている為表情は読めないが、恐らくは柔く微笑んでいるのだろう
最後に逢ってから今日までの事も聞きたい、何より其の柔らかな肌に触れたい
思案するも気配を感じ半蔵は視線を落とす
「真田の忍…」
小さく呟きを漏らす
その忍と半蔵は前に幾度か刃を交えた事がある
名も素性も明かさず、ただ真田に仕える“くのいち”と称していた
と、そんな敵忍の姿には何処か嬉しそうに身を乗り出す
「可愛らしいなぁ、装束も華やかだし…」
にこにこと話す相手に半蔵は気付かれない様に不機嫌そうな顔をする
くのいちが天守へ向かったのを確認すれば、二人は音も無く屋根裏から降り立った
密書を所持するは恐らくあのくのいち
そう睨んだ半蔵は目途の影を追い天守閣へと足を進める
無論、も其の背を追った
「にゃは〜ん、やっぱり来たねん♪」
天守の中央に佇む一つの影が楽しそうに笑う
その人、くのいちは己が武器である苦無を片手に弄ぶ
じりじりと間合いを詰め隙を見て密書を奪おうとしていた半蔵の動きが不意に止まる
背後に殺気を感じ、即座に苦無を投げつけた
ひらり
身を翻しかわすは眼前に対峙していた影と同じ姿形の其れ
どちらが分身か
其処は腐っても忍、見分けが付かぬ出来栄えだった
苦無を投げ付けられた方のくのいちはにんまり笑い、天守とは逆、城内へと駆け出して行く
その腰に密書が挿されているのを見逃すはずも無く
隣に立ち尽くして居たが、主に手渡された真新しい武器を構える
「私は天守の影を、半蔵は其の影を頼む」
ちらと見れば、の前に在る影の手にも密書らしき巻物
どちらかが囮か、と
なればの言うとおり己が逃げたくのいちを追うべきと判断した
此度半蔵が付いて来たのは言うまでも無く、
この上田城に潜入した事の無いの助勢の為で
声無く承引すれば半蔵は掻き消える様に姿を消しその影を追った
残された二つの影はただじっと睨み合っていた
基、睨み付けているのはだけで、くのいちは相も変らぬ暢気な様子なのだが
が手にするは巨大手裏剣の一つ
型的には普段持つ双刀と変わらないが使い慣れない事に変わりは無い
それでも一度、ねねの持つ同じ其れを使った事がある
キッと前を見据えれば意を決し先手を打とうと強く地を蹴った
交じり合う刃を追う様に、鈍い音が木霊する
素早く次の手を繰り出すも互いの敏速さは同等
暫し攻防を繰り返して居たが、突然くのいちが身を翻し後ろに後ずさる
食えない奴だ、胸中はそう呟く
忍らしからぬ相手の様子に何処か興醒めし、早々と終わらせようと首元目掛け刃先を振るう
刹那
左の肩に感じる鈍い衝撃に僅か眼を見開く
思わず後退し地に膝を付いた
爪先から這うような痺れが駆け上がる、何処からか射られた毒矢が肩口を射抜いていた
「此処は名城、上田城だよ〜?油断大敵ってねん♪」
くのいちの言葉に、は其れがカラクリによって射られたのだと気付き動きを止める
無闇に動いてまた何か起こっては此方が不利
グイと肩に刺さる其れを引き抜き苦痛に眉を顰める
恐らくは筋肉を弛緩する類の毒、手元に解毒薬は持ち合わせていない
此のまま干戈を交えても勝機は無い
が、見す見す背を向け逃げる事等出来る筈も無く
自由の利く右手に手裏剣を握りくのいちへ斬りかかるも、
力が入らないその身体は簡単に捩じ伏せられ、その上にくのいちが跨り被さる
にっと、歯を見せて笑う表情は幼くも見え
其の裏に隠された残忍さに、は血の気が引くのを感じた
眼の前の其の者は紛れも無い、
「忍…」
半蔵は前を走る其れに小さく呟き漏らす
ひょうきんな仕草をするその影も元を正せば歴とした上忍で
時折、基普段の言動は問題有れども、任務となれば本来の性を現す
くのいちは素早く半蔵の追撃をかわし、時折刃を向けまた逃げるを繰り返していた
いい加減埒が明かない
思うや否や半蔵は鎖鎌の分銅をくのいちの足首目掛けて投げ付ける
そんな相手の策に掛かる筈も無く、くのいちはひらりと余裕にかわす
と、不意に足へ鎖が絡まりくのいちは反応する間も無く地に身体を叩き付ける
あの程度でくのいちを捕らえられる等と思う半蔵では無い
空いた手でもう一つの分銅を操り、相手の足首目掛け投げ付けていたのだ
体勢を崩しその場に膝を付くくのいちに半蔵は鎖鎌を構える
眼前のくのいちを追って随分経ってしまった
今までくのいちと干戈を交えた事の無いが気に掛かる
半蔵は躊躇う事無く前に屈したくのいちを切り裂く
すると其れは煙の様にほわりと裂け消えて行った
半蔵自身、追っていた相手が分身だとは気付いていた
しかし腰に在る密書が本物かどうか確認の為、こうまでして此の分身を追っていたのだ
「やはり、偽物…」
くのいちの形をしたそれと共に掻き消える密書に小さく漏らした
半蔵は顔を上げ徐に走り出す
胸を満たす只一つの影、の元へと急いだ
首筋を掠め床に刺さる苦無に、はただ黙り事の成り行きを見守るしか無かった
くのいちはにんまりと笑った後、下に組み敷いた相手を逃がさんと脅しを掛けた
元より毒気に身体は自由を失ったはされるが儘で
そんな相手に楽しそうにくのいちが口を開く
「にゃはん、素敵な忍者さんだねぇ…
けどもっと鍛えないと、女のあたしより華奢だよ〜」
其の言葉には思わず硬直し、頭の中でくのいちの言葉を復唱する
己の纏う装束からしても確かに男と間違えられて仕方が無いだろう
だが問題は、くのいちの見惚れる様なその眼差しだ
まるで恋する乙女の如き熱い視線がを射抜く
これはまずい、と
己が女だとばれた時、一体どんな仕打ちが待っているのか
以前にも似た様な状況に陥った事のあるは愛想笑いを漏らしつつ思い返す
其れと同時に、己の女としての魅力の無さを酷く嫉んだ
別に濃姫の様に妖艶で在りたいとか、
お市の様に愛らしく在りたいと思って居る訳では無い
寧ろそういった事柄は無関心な方であり、男と間違えられる事は嬉しいとさえ思う
只、流石にこうも続けて間違われると女としての自信を無くしてしまう
胸中ぼやいていたが不意に口当てへ手が伸び、は驚き身を揺らす
くのいちが己の素顔を見る為其れを外そうとしていると気付き慌てて身を捩らせる
しかし抵抗虚しく、寧ろ其れはくのいちには逆効果だった様で
「あ〜ん、そんなに照れなくてもいいよぉっ!さぁさ、御顔拝見〜♪」
最早此れまでか
そうが瞳を閉じると同時、身体を抑えていた重みが消える
自身に跨っていたくのいちが退いたのに気付き眼を開けば、
覗き込むように此方を見下ろす半蔵と眼が合った
はへらりと笑って見せたが、当の半蔵は鋭い眼差しで己を見つめている
当たり前だ、課された任務もまともにこなせず、剰え助けられているのだから
先の傷心に追い討ちを掛けられ地に伏せたまま項垂れるに、
半蔵は黙ったまま傍に跪き其の身体を起こしてやった
「半蔵、…すまない…」
しゅんと叱られた子犬の様な相手に半蔵は否とだけ返事をし、
眼前でにまにまと笑うくのいちと向き合う
敵対心剥き出しの半蔵に対し、打ち合う気の無いらしいくのいちがわざとらしく溜息を吐く
折角いちゃいちゃしてたのにぃ、とぼやくくのいちに今度は半蔵が固まる
そして先程の其れに負けぬ程の盛大な溜息を漏らす
言うか言うまいか迷ったが、此の儘では余りにもが可哀想だと
不本意ながらも半蔵は口を開く
「は…女、だ…」
暫しの沈黙の後、くのいちが吃驚に大声を上げた
そんな様子を見せている相手には素早く急迫し、腰に挿された密書を取り上げる
慌ててくのいちが苦無を振るうも風を切るばかりで、
はくるりと身を転がし、半蔵の近くへ戻れば口当てを外し空気を吸い込む
そして唖然としているくのいちににっと口許を歪め笑って見せた
悪かったな、女らしくなくて
麻痺により咽を鳴らすだけのか細い声で、だがしたり顔のまま言って退けた
悔しそうに地団駄を踏むくのいちを余所にはよたつきながらも天守から掻き消える
少し遅れ、くのいちを呆れた様に見ていた半蔵が其れを追う様に姿を消した
残されたくのいちはぎゅうと唇を噛み締め、天守から外を見下ろす
悔恨と沈鬱の交じり合う、不可思議なその感覚に胸を押さえる
ひらりと、視界の隅に動く黒を見つけくのいちは手を伸ばす
柔く握ればほんのりと暖かく、虚無感が膨れ上がる
ふと、先程まで間近に在った彼の人、の眼差しを思い出す
長い睫に菫色の瞳を見つめれば、吸い込まれる、と思った
「女の子かぁ…」
私は別に良いんだけどねぇ
誰に言うでも無く呟けば、を見つめる半蔵の顔が頭に浮かぶ
何時もと変わらぬ様で全く違う雰囲気だった
それは明らかに好意的で、話を聞かずとも二人の関係は手に取る様に解る
つまらない、くのいちは何と無くそう思った
そんな己を誤魔化す様に何時もの笑みを作り、くのいちもその場を後にした
上田城から抜け出した二人は帰途、人気の無い掘っ立て小屋に足を向けていた
が毒気にやられ、立つ事も儘ならない為だ
殺風景な其処はもう長く人が出入りしておらず、しんと静寂のみが満ちて
半蔵の肩を借り身体を引き摺って来たはくたりと壁に背を預け座り込んだ
申し訳無さに眼を合わせられないに、半蔵は黙ったまま鮮血流れる肩口にそっと触れる
痛みに、其の華奢な身体が僅か震えた
破れた装束から覗く傷に、半蔵は眉を顰めればその裂け目を広げ肩を露にする
「何故、今まで捨て置いた…」
普段より低い声が更に低く感じ、怒りを含んでいる事を教える
言い訳も思い浮かばずは俯いたまま黙りこくるも、
前触れ無く肩に唇を押し当てた半蔵に痛みと驚きで大きく身を揺らす
ちゅく、と
音と共に肩を這う様な痛みが襲いは背を弓形に反らす
無意識に眼の前に在る身体にしがみ付き、悲鳴を上げそうになるのを堪える
毒を吸い上げては吐き出すを繰り返しつつ半蔵は、
しがみ付いて来るを抱き締め落ち着かせようと背を撫でた
少しの間其れを続け、毒をある程度吸い出した所で半蔵は行為を止め、
竹筒を取り出せば一度口内を濯ぎ残った水での肩の傷を清める
苦しげに呼吸を繰り返す相手に居た堪れず半蔵は思わずを抱き留めた
熱い吐息が頬に掛かり、半蔵は視線をずらす
瞳を潤ませながら己を見上げるに半蔵は安心させようと柔く微笑んで見せた
隙間風がふわりと頬を撫ぜて行く
心地良い、素直にそう思い半蔵は瞳を伏せるも直ぐに瞼を上げる
外を見れば闇は段々と白み曙が迫っている事を告げる
日が昇り切る前に帰らねば
そんな事を思いに視線をやれば、表情緩め己に寄り添って居る
今少しは此の儘で
渇望を胸に、半蔵は再び瞳を閉じた
後、朝陽が昇り切る前に豊臣が城へと着いた
半蔵が主、家康も其処で待っている為二人での帰還になった
あれから暫く待ったが毒気に当てられたの身体は中々自由が利かず、
結局半蔵に抱き抱えられて戻る事になった
そんな様子を見ていたねねと家康は微笑ましそうに笑みを向け、
秀吉はがっくりと、忠勝は無表情の儘不服そうにしていた
それを二人が聞かされたのはまた後の話だが
08.9.11
|