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闇に熔け、闇に生き、主が影として幾度と無く人を斬った
それが己の生きる意味だと、主が命のみが総てだと
大湖に身を沈め返り血を流す
身体にこびり付くどす黒いそれはまるで自身を侵食するかの様で
天に耀く月の光輝すら覆い尽くす
いっそ漆黒に呑み込まれてしまえば
ふとそこまで考え瞳を伏せる
暫し冷たい湖水に感覚を失った手を見つめ、ぎゅっときつく握り締めた
主、豊臣秀吉の命により、はとある大名の暗殺が為闇夜へ身を潜めて居た
ひらひらと蝶の如く舞い難無く主命を遂行する
は任務の際極力人命を奪わぬ様行動してきた、無論此度もそのつもりだった
しかし想定外の事態により、城から脱離する最中多勢の兵に囲まれる
姿を見られたからには捨て置く事は出来ない
それはも理解して居たし、人を手に掛ける事に其処までの罪悪を感じた事は無かった
声を上げ倒れ行く敵兵達をどこか冷めた眼差して見下ろす
ふと、腹を押さえ声無きままにこちらを睨む一人の兵に気付く
肺をやられたのだろうか、口からは止め処無く鮮血が流れ落ちる
もう助かりはしないだろう、一目で解るのに、何故かその場から離れる事が出来ない
刹那、その男の姿に半蔵の姿が重なり僅かに身が揺れる
(何故、)
半蔵なのか
今までも戦場で此れに似た事があった
しかしそれは己が主やねねの姿であり、それ以外の者等一度も無く
追って込み上げる感覚に表情を歪める
臆している、半蔵を失う事に
今まで誤謬と思い込ませて来た想いが脳裏を過ぎる
はっと己が置かれた状況を思い出し、抜刀したままの其れを鞘に収めた
返り血が肌にこびり付き嫌悪感に眉根を寄せる
と、本城へと戻るまでの道中に大湖があるのを思い出す
主が元へ帰還する前に汚れを落としておこうと、強く地を蹴り上げその場を後にした
城から離れた場所にある大湖にの姿は在った
刀等の武器は畔の茂みに残し、護身用の苦無を一本だけ手に湖の中央へと足を進める
装束は纏ったままの為布が肌に張り付き、あっという間に体温を奪っていく
透けるような白い肌に乾いた血が黒く映え、
まるで己が身体を侵食する闇のような様にはぞくりと背筋が凍る
太平の世が訪れてからも、未だ己の刀は血に飢える事は無く
心の奥深く追い遣っていた疑念が胸中を覆い尽くす
主命こそが総てであり絶対
なれば、主に仇なす者を全て討ち尽くした後、己はどうなるのだろうか
他の大名に従えていた忍衆は戦で捨て駒として使われ、
生き残った者達は己等の詳報を秘する為抹殺されたとの風評を耳にした
(主に限って、そんな事は…)
秀吉の顔を思い浮かべ、ふるりと首を横に振るう
しかし、例え命を取り留めたとしても生きる意味があるのだろうか
考える程に答えは遠ざかる様で、考えを振り払うように一度湖に身体を沈める
どれ程そうしていただろう
不意に気配を感じ素早く苦無を構える
と、畔に佇む一つの影に気付きは警戒を解いた
その人、服部半蔵は無言のまま湖中に進み寄る
は気まずさに僅か視線が泳ぐ
先の見舞い以来、と半蔵は顔を合わせる事が無かった
逢わぬ時が長引く程に、次逢った時どう接すれば良いか解らなくなり、
ましてやこうやって不意に姿を現す相手に胸中穏やかでは居られない
水音を立て傍まで近付き、半蔵はと向き合う
互い何を言うでも無く、ただじっと視線を交える
僅か揺れるの瞳に気付き、半蔵は手を伸ばしそっとその頬に触れる
「…何故其方なんだ…何で、いつも!」
震える声が静寂を破り、次第に怒声とも取れる声に変わる
半蔵は表情変えぬままに頬に添えた手を退けた
その態度には更に憤懣が込み上げキッときつく相手を睨みつける
自分でも最早収拾がつかなくなっていた
「いつもそうやって、いい加減な行動を取って…!」
私が苦しむのを見て楽しんで、と
胸の内に留めていた不満が、嵩から溢れる水の如く流れ出して行く
そんな事が言いたいのでは無いのに
感情を抑えられないのは、相手が半蔵であるからで
その事実がまた己の憤りに拍車を掛ける
半蔵は無言のまま静かにの言葉に耳を傾けていた
そんな半蔵の胸倉をは握り拳で強く叩く
相手が何を言いたいのか、何を思っているのか
今まで己と同じ様に押さえ込み、揉み消して来た感情と今、
目の前に居る己よりも蒲柳な影は闘い苦しんでいるのだと半蔵は了得していた
「何故そうして居られる…何故、そんなにも強く居られる…っ」
半蔵の胸倉を叩いていたその手から力が抜けていく
と、力なくの身体が己に寄り掛かるのを感じ、半蔵はそっとその身体を支えてやる
華奢な身体は湖水により体温を失い、まるで死人の様に冷たい
そして同時に、それを失う恐怖に駆られるのを感じ眼を細める
この感覚が、眼の前の影を此処まで追い詰めているのか、と
嬉しさと共に憎くすら感じる
ふと白いそれが視界に入り、半蔵は己の胸にあるの顔を見やる
僅か震える唇から吐き出される吐息の白さに、相手の背に腕を回し抱き寄せる
そんな半蔵には一瞬眼を見開くも、そっと瞳を伏せ身を委ねた
半蔵の体温との体温が混じり、互い変わらぬ温もりに変わる
こうして同じ何かを共有出来るものなのかと
己とは余りに掛け離れた存在と思っていた相手が今、誰より傍に在る事が堪らなく嬉しい
「…今、こうして共に在る時だけは…半蔵のものでありたい…」
何処か涙声に囁けば少し上にある相手の顔を見上げる
視線が合えば、半蔵にしては極めて不自然な表情が其処にはあった
きっと誰も見た事は無いであろうその微笑はにのみ向けられるもので
それに気付けばは僅か笑みを零す
「嗚呼、拙者も…共に在る時だけは、お前のものであろう…」
決して許されはしない誓いならばこそ
刹那でも良い、許される其の時だけは、此の愛に身を委ねようと
交える約束に今はただ酔い痴れて
一陣、冷たい風が二人に吹き付ける
寒さにふるりと身震いする相手に、半蔵は思わず苦笑を漏らした
そのままを横抱きにすれば畔に向かい歩き出す
ふっと、が自身の手元を見れば付いていた返り血は綺麗に落ちていて
しかし身体に染み付いた血の香は取れる事は無かった
ちらと半蔵を仰ぎ見る
真っ直ぐに前を見据えるその眼差しは、始めて逢った時と変わらない
只一つ変わったと言うならば、己に向けられるその情感だろうか
嬉しさと擽ったさに表情緩めれば不思議そうに半蔵が此方を見つめる
「私は戦が好きだった…」
不意に口を開き語り出す
そんなにも半蔵は相変わらず黙ってそれに聞き入る
「戦に勝てばおねね様や秀吉様が褒めてくれる、だから好きだった
…愚かだな、平和こそ望むべくものなのに」
自嘲気味に笑いを漏らしてはきゅう、と半蔵の首に抱き付く
こうして誰かに甘えるのは珍しいしとは思った
相手はいつもねねでしか無かったし、元よりそこまで愛想が良い訳でも無い
ただ自身が仲良くなった相手には多少他とは違う態度は取っているつもりだった
けれどこうやって、身を寄せ合ったり、心から許せる相手は無に等しかった
「それでも私は影
影は乱世と言う名の闇にしか生きれぬ
故に乱世が終わった今、生きる意味も消え行こう…」
そろり、と
広い胸板に頬を寄せれば瞳を伏せ、今日の自分は饒舌過ぎだと苦笑を漏らす
優しい口付けが額に落ちれば半蔵の顔を見上げる
相変わらずの表情が其処にあった
生きる意味が消えたなら、新しく意味を見出せば良い、と
言えるはずが無い、半蔵は眉一つ動かさず胸中呟く
同じ影だからこその言う事は痛い程に解る
なれば、同じ闇に身を置く己が、このか弱い影を支えて行こう
血塗られた其の手を取れるのは、同じ血に濡れた此の手しか無いのだから
美しく耀く朧月が二つの影を照らす
触れ合う肌の温もりも、身を切る様な此の風も
今は総てが愛おしいと思える
そっと、己を支える其れを見やる
其の手でなら、私の罰をも拭ってくれる
そんな気がした
08.9.8
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