闇夜に紛れ、一つの影が華麗に舞う
太平の世が訪れた今も、忍達は闇に生きている
今まで以上に肩身の狭くなった事に不平不満を囁く者が多い中、
その影はただ主が為に天命を尽くしていた
ある一点を除いては















とある城の屋根裏
忍の路に半蔵は潜んでいた
主、家康の命により密書の奪取が為忍び込んだのだ
音も無く屋根裏から降り立ち移動する内、目的地である天守閣に着く
と、部屋の隅、黒塗りの箱が眼に入る
恐らくあの中に目途の密書があるのだろう
辺りに何者の気配が無いのを確認し、半蔵は箱に手を伸ばす

「それには触れない方が良い」

不意に声を掛けられ、半蔵は咄嗟に鎖鎌を構える
声のした方向を見れば、月を背に手摺の上に立つ一つの人影が在った
逆光の為姿は良く見えない
が、その凛とした声を間違えるはずも無く
構えた鎖鎌を下ろし人影へと近付いた

「箱に触れた途端からくりが作動する仕組みになっている」

ぼんやりと輪郭が浮かび上がり、ようやく相手の表情が読めるようになる
はいつにも増して鋭い目付きの半蔵に小さく笑いを漏らし、
すとん、と手摺から降り立った

「何故、此処に」

静かな声で問えば、は口許を緩めちらりと帯に挿した巻物をひけらかす
半蔵がチッと小さく舌打ちをする、己が探す密書だったからだ
にこにこと表情緩める相手が今は面憎いとさえ思う
半蔵は一度眉間を押さえ、溜息を漏らしてはすっと手を差し出す
巻物を寄越せ、と
どうやら意味が伝わったらしい
はにんまり笑い巻物を帯へ深く挿し直した
やはりと言うべきか、素直に渡す気は無いらしい

「已むを得ぬ」

月光を浴びギラリと閃く鎌の刃先をに向ける
そんな半蔵に、もまた愛刀を鞘から抜き胸先まで持ち上げ構えた
先までとは違い、二人の間に僅か殺気が漂う
じりじりと間合いを詰め、同時に床を蹴る
刃が交じり鈍い音が部屋に響いた
素早く身を覆し半蔵の首を目掛け再び短刀を振り下ろす
その刃を鎖鎌で受ければ空いた手で苦無を構え、切っ先をの腹部に向け振るう
しかしその攻撃もひらりとかわし、は半蔵と距離を置く

「もう一度だけ問う、渡すか、渡さないか」

少し怒気を含んだ声にびくりと身を揺らす
射るような視線が自身に向けられる
体の芯が熱くなるのを感じ、はきゅうと唇を噛み締めた
畏怖からか、それとも別の感情からか
考えを振り切るように再び短刀を構え直す
半蔵もまたそれを構え、へ斬りかかろうとした時
冷たい風が一陣
じんわりと目の前が歪み、人の形が浮かび上がる
否、人と言うには余りにも訝しいその風姿に、はただじっと見つめるしか無かった

「…風魔」

そう呼ばれた男はくつくつと咽の奥で笑い、ゆっくりとに近付く
手を伸ばし触れようとする小太郎に、間髪を入れず半蔵が割って入った
を背にし、暫し二人は睨み合う
そんな二人を見比べては、は何処か困却した様子で口を開く

「取り込み中申し訳ないが、早く主の元へ戻らねば…」

言葉の途中
ぎろりと睨む半蔵と視線が合い、思わず黙り込む
睨み付けたまま腕を掴み部屋の隅まで連れて行き、座らせる
大人しく従いちょこんと正座をするを見れば、
半蔵は納得したように一度頷き再び小太郎と向き合った





あれからどれ位経ったのだろう
外を見れば、月が少しだけ傾いている
此処で半蔵と逢ってからそれ程経ってはいないらしい
が、目の前の男達は未だ干戈を交えている

(本当にそろそろ帰らねばならないのだが)

憤怒し声を荒げるねねを想像し、は思わず溜息を吐く
そんな自身の事を気にも留めぬ二人に、とうとうは立ち上がった
今まで付き合っていた事すら馬鹿らしく思う
恐らくこの巻物の事も忘れているのだろう、
小太郎と対峙する半蔵を横目に盗み見て、ひょいと手摺に飛び乗る

、もう行くのか?」

半蔵とはまた違った低い声で背後から問われる
一度肩を震わせるも、にこりと笑みを作り首だけそちらを見やる

「おねね様に叱られます故」

律儀に頭を下げて強く手摺を蹴る
天守閣の上、屋根に上りはその場を後にした
残された半蔵は暫し呆然とし、はっと思い出したかの様に小太郎を睨む
が、小太郎は既に打ち合う気は無く、口許に笑みすら浮かべている
じっと見つめる先
先程までが居た場所を見つめる相手に、半蔵は不機嫌そうに表情を歪めた

「面白い犬だな」

ククク…と、楽しげに笑いを漏らし、現れた時と同じように輪郭が歪む
そんな相手を逃がさんと鎖鎌を振るうも、既にそれは形無く
虚しく空を切るそれを嘲笑うように冷たい風が頬を撫でる
良い暇潰しが見付かった、と
直接響くその言葉に眉根を寄せ、半蔵は外を見た
雲に翳る月が蒼白く輝き、己の姿を闇夜に照らす
そろそろこの場を後にせねば
人の気配を微かに感じ、半蔵もまた城を後にする
そんな彼が本来の目途を思い出すのは、帰路を半分程過ぎた頃だった










「お帰り、

あれから早急に主が元へ帰ったは、秀吉との謁見後、不運にもねねと鉢合わせした
が、思いがけずにこにこと笑顔で迎えるねねにほっと胸を撫で下ろす
いつものようにねねに頭を撫でられれば嬉しさに破顔する
ふと、ねねの視線が手元にあるのに気付き、ああ…と手を持ち上げる
握られたるは、先程持ち帰った密書
不思議そうにするねねに、はにっと笑って口を開く

「秀吉様にお願いしたんです、もし良ければ譲って頂きたいと」

勿論眼を通した後でですがね、と付けたしが言った
その言葉にねねは、目尻を下げ頷く夫の姿を思い浮かべ苦笑する
本当に、には皆甘すぎる、自分も含めてだけれど
そう胸中で呟けば再び微笑みを向けた

「では、そろそろ此れを取りに影が来ると思うので」

そう言う声はいつもより僅か明るく、
どこか嬉しげなの後ろ姿を見送り、ねねは一人複雑な心境になる
本人は気付いていないのだろう、その待ち人を自分はどう思っているのか
そして恐らくは相手も…
そこまで思案してふるふると首を横に振る
自分が悩んだところでどうしようもない

「全く、心配ばっかり掛ける子だねぇ」

嬉しげに、そして僅か寂しげに、ねねはぽつりと言葉を零した





自室に戻ったは、窓を開け放ち空を見上げていた
窓枠に肘を乗せ、頬杖を付くその姿は傍から見れば恋する乙女そのものだろう
尤も、当の本人は全くの無自覚なのだが
なかなか来ない待ち人に溜息を漏らし、
此度の任務の報告書でも片付けようと筆を手に取る
が、その手は窓からの来訪者によって止められた

「半蔵…」

じっと此方を見つめる相手には柔く微笑み掛ける
外は暗闇、長時間風に当たればまだ寒さを感じる季節
筆を置けば己の腕を掴むそれに触れ、そっと両手で包み込む
こんなに冷たくなって、と
呟くに半蔵は慈しむ様に眼を細める
そんな半蔵の表情を見つめ返し、ふと机上に置いた巻物を思い出す

「これ、半蔵も必要なのだろう?」

そう言い密書を半蔵へと手渡す
思いもよらない相手の行動に不信感を抱きながらも、
半蔵は渡されたそれを受け取り懐へと仕舞い込む
を見返せば相変わらず微笑を向けている

「秀吉様に頂いたのだ
もう眼を通されたし、家康殿に渡すとも伝えてあるから…」

状況を説明する相手に構わず、半蔵は一つ吐息を漏らし背を向ける
すとんと座りと背を合わせれば温もりが心地よい
思えばこの女は何を考えているのか解らない事が多過ぎる
突然主の元へ来たと思えば刹那の内に仲睦まじくなり、
またこうして己の顔を立てんと秀吉に頭を下げ密書を返してきた

「解せぬ…」

呟けば、後ろで首を傾げる気配がした
静寂が二人を包む
元々寡黙ではあるが、それを抜いてもこの沈黙は不快では無かった
ゆっくりと瞳を閉じる
もう少しだけこのままで居たい
甘くなったものだ、自分にも、他人にも
ふんと鼻で笑いを漏らせば、もまたコロコロと笑い出す
今はまだこのままで良い
ちらりと窓に眼を向ければ、翳っていた月はいつの間にか姿を見せ
暖かな背部とは裏腹、冷たげに輝いていた















数刻後
半蔵は無事主へ密書を届けていた
遅くなった事に家康は咎めるでも無く、半蔵の無事を喜んだ
無論、此度の秀吉との振る舞いも報告をしたが、
家康はそれにもただただ嬉しげに頷き表情を緩めて居るだけだった
そして後にこの話は稲姫とその父、忠勝の耳に入る
しかもそれには、尾鰭背鰭が付き挙句との恋仲説まで流れる始末
尋問にも似た質問攻めが行われる事になるとは、この時誰も想像しなかっただろう










08.8.25