天下は豊臣の手に渡った
そして秀吉が望んだ、皆が笑って暮らせる世が訪れた
主の望みは私の望み
主の幸せは私の幸せ
それだけで充分なはずだった















「何故今更、徳川が城へ」

は不満に満ちた声色で己が主へ問う
太平の世が訪れ、皆平和に暮らしている
あの日、東軍に勝利した戦で、秀吉は家康を討たなかった
それが秀吉の本懐だと、も解っていた
だが、乱世が終わった今もまだ、以前の様に諜報任務を課せられている
何故その必要があるのか、には理解し難かった

「これも太平の世を護る為なんさ」

秀吉は困ったように頭を掻きねねに視線をやる
むっと頬を膨らませ顔を背けるに、ねねはそっと手を伸ばした
優しく頬を撫でられ、ピクリと身を揺らしはねねを見る
いつもの優しげな笑顔が、どこか切なげに見え少し表情を歪める

、あたしからもお願いするよ…」

は皆々が認める出来た忍だ
諜報任務を主にしているが、戦闘能力もそこらの忍に比べれば格が違う
任務であれば感情を殺し、主命を全うして来た
しかし一つだけ欠点があるとすれば、目の前にいるねねだろう
叱られるからと言う理由では無く、純粋にはねねに好意を抱いている
時には主である秀吉を押し退けてでもねねが近くへ在ろうとした
そのねねからの頼みとあれば、一蹴する事など出来るはずも無く
未だ納得いかないと言った表情ではあるが、こくりと頷くしか無かった










宵闇の中、目の前に浮かび上がるは徳川が城
はその城の正門前に佇んで居た



「豊臣が影、と申す
此度家康殿に御用が有り参上致した」



そう門番に名乗ったのが半刻前
突然のそれに驚いた兵達は、それからずっと奇怪そうにこちらを見つめている
周りには番兵達が集まり始めていた
このままでは埒が明かない
額を押さえ再び兵へ話しかけようとした時、不意に後ろから凛とした声が掛けられた

「貴方は、秀吉様の」

振り返れば、黒髪を靡かせ驚いたようにこちらを見やる一人の女性
先の戦で悔しげに俯いていた姿を思い出し、は一人頷く

「このような処で、何をなさっているのです?」

明らかに不信そうに問う稲姫にはへらりと笑って見せた
その表情に稲姫は一瞬眼を見開く
あの戦場で見た影と、今目の前に居る人物が余りにも別人に見えたからだ

「用が有り参ったのだが、中々先へ進めず」

困った困ったと苦笑するに対し、稲姫もまた窮した様に小首を捻っていた
何故豊臣の影が徳川が城へ来たのか
ましてや、隠密にでも無く堂々と正面から入ろうとしているではないか
このまま門を潜らせて良いものか、悩みに悩み唸り声すら漏れている
そんな稲姫の様子に気づきはそっと頬に触れる
突然触れられた稲姫は再び驚くも、ひんやりとした指先に微か瞳を細めた
其方を困らせるつもりは無かったんだ、と
そう言いクスクスと笑いを漏らすに稲姫はほんのりと頬を染める

真っ直ぐに見つめる綺麗な菫色の瞳
ふっくりとした唇からは少し低い、それで居て聞き入るような声が零れ
忍だからなのだろうか、晒された肌は自分よりも幾分白く、傷一つ無い
短めの黄金色をした髪は風が吹けばさらさらと揺れ、
何よりも以前戦場で幾度か見た、凛々しいその姿に無意識に溜息が漏れた

「如何した?」

きょとと首を傾げるに、稲姫は慌てて首を横に振る
悪い人では無いのでは
未だ少し警戒しつつも、胸中のどこかで憧れていた相手に出会えた事に感奮し、
ギュウとの手を両手で包み胸先まで持ち上げた

「殿に御用が有ると仰りましたよね、でしたらこの稲がご案内致しましょう!」

嬉しげに笑顔を向ける稲姫に返事をする間も無く、
は半ば無理矢理に腕を引かれ門を潜り城内へと足を進めた





ふかふかとした座布団の上、
目の前には豪勢な料理に様々な種類の酒が並べられている
そしての向かいには宴を楽しむ家康の姿
稲姫に連れられ城内に入ったは今、家康と宴に興じていた

事の成り行きはこうだ
稲姫は己が父、本多忠勝にが此処へ来た経緯を話した
自ら正面より堂々と訪ねて来た態度に、忠勝はを気に入った
そして忠勝より主である徳川家康へ謁見を頼んだ
その話を聞いた家康もまたを大層気に入り、無礼講だと宴を開いたのだ



「さあ、遠慮なく寛がれよ」

にこにこと笑顔を向ける家康にもまた笑顔で返す
隣に座る稲姫に酌され、一口だけ酒を口にする
ちらと前を見れば、家康の傍に座る忠勝と、その反対に座る半蔵の姿が眼に入る
決して完全に気を許している訳では無いらしい
もしかすると、この酒にも毒でも盛られているのでは
そんな考えもあったが、口にしたそれに違和感は無く、
どうやら純粋に自身を歓迎してくれているらしい
そんな事を考えている間も家康は楽しげに話を進める

と申したか、其方は面白いな」

大きな体を揺すり笑う家康に、は居住まいを正し頭を下げた
突然のそれに家康は訳が解らず首を捻る
傍に居る半蔵と忠勝も同じように不思議そうにを見つめた

「此度は突然の拝趨、失礼仕る」

ゆっくりと顔を上げれば先程の表情は無く、傍から見ればどこか冷たささえ感じる
その表情に家康は困ったように笑う

「その様に畏まらずとも、有りの儘のを見たいのだがな?」

言いながら杯に口を付ける家康には多少表情を緩めた
そんな家康とが打ち解けるのにそう時間はかからず、
数刻の内に駄弁を交わし笑い合う仲になっていた
ふと、外を見やれば月が煌々と輝いている
随分時間が経ってしまった
そろそろ辞そうと家康に頭を下げ立ち上がろうとする
が、眼前がぐにゃりと歪みその場に座り込んでしまう
酔いが回ったのだろうか
下戸な訳ではない、寧ろ上戸と言っても可笑しくない程に酒には強いのだが
一人ぶつぶつと呟き悩んでいるとふと影が落ちる
目の前に半蔵が膝を付いていた

、今宵は休んで行かれよ、良いな?」

半蔵の背から家康が声を掛ける
そんな訳にも行かない
本来ならば一刻も早く主が元へ帰らねばならないのだ、と
口を開こうとするに半蔵は腕を掴み、横抱きにすれば足早にその場を辞した





半蔵は城内にある自室の襖を音も無く開ける
途中暴れた為は何度か落ち掛け、挙句疲れ果てぐったりとして半蔵に担がれていた
力なく凭れるをそっと己の布団へ降ろし、額に掛かる前髪を払ってやる
ふと、が眼を開き半蔵を見上げた
酔いのせいか頬は赤らみ、見つめる瞳は微かに潤んでいる
トクン、と
胸が高鳴るのを感じ、それでもから視線を外す事が出来ず黙りこくる
すっとの手が伸びて半蔵の頬に触れた
ぼんやりとした表情からして恐らくは何の気無しに触れたのだろう
まるで存在を確かめる様に、布越しに鼻先や唇に触れて行く
その間も止まぬズキズキとした胸の痛みに微か眉を顰め、
口許を覆う覆面をずらし少しだけ冷えた空気をゆっくりと吸い込む
そしての手を掴めば、露になった唇をそっと指先に押し当てる
僅かに温もりを持ったそれに半蔵は瞳を伏せた

(愛い、か)

初めて出逢ってからずっと、己が心を放さないに自嘲気味に笑いを漏らす
ふと眼を開ければ、何処か不思議そうに此方を見つめる視線とぶつかる
自身の笑い顔が珍しかったのだろうか
声には出さず思案していると、コロコロと笑い声が溢れ出す

「鬼の半蔵も、そんな顔をするのだなぁ…!」

目まぐるしく変わる半蔵の表情に思わずは口を開く
どうやらツボにはまったらしい
最初は必死に堪えていただが堪らず腹を抱え笑い転げて居る
そんなに暫く黙って居たが一向に笑い止む気配が無い
いい加減に堪えかね、半蔵はぐいとを引き寄せ腕の中に閉じ込めた
柔らかな感触に少しだけ力を弱めてやる
すると、モゾモゾと腕の中で動いていたと向かい合う形になり、
ちょこんと半蔵の上に座る
戦で見た時はそれ程気にならなかったが、少しばかり半蔵の方が大きいようだ
包み込む様にそっと抱き締めるも、は逃げる様子も無く
そろりと頬に触れ、ゆっくりと顔を近づける

(流石に抗するだろう)

そんな半蔵の考えとは裏腹に、は顔を真っ赤にし狼狽え視線を泳がせている
胸の動悸が激しさを増す
こんなにも情感を抑えられないなど初めてだ
今更に引き返す事も出来ず、
またそれでは余りにも納得行かない等と考えては、再びゆっくりと顔を近づける
そんな半蔵には耐え切れずきつく瞳を伏せた
唇が触れる、その瞬間

「…何用」

微か唇が掠れる程の距離、半蔵の低い声が部屋に響く
ゆっくりと体が離れ、は布団の上に座らされる
スッと襖が開くとそこには、稲姫と忠勝が咎められた子供の様な表情で此方を見ていた
ぽかん、と
訳が解らずが見つめる中、半蔵が二人の顔を見比べる
傍から見ればいつもと変わらぬ表情だが、どうやら憤懣に満ちているらしい
怯えたように身を竦める稲姫と忠勝に、
未だ酔っているはふらふらとしながらもにこりと微笑んだ

「忠勝殿の手にあるは薬、だろうか?」

ぽんぽんと布団の傍を叩き近くに座るよう促す
そう言えば、と
忠勝はの近くに座り、大きな手の中に握られた小さなそれを手渡した
静かにその隣に稲姫が座り手に持った盆から水を手渡す
恐らく吞み過ぎた自分を気遣い持ってきてくれたのだろう
はそれを受け取ると包みを開け、一気に薬を飲み下した

「大事ないか?」

優しげな声で問う忠勝には再び笑顔になり、小さく頷いて見せる
その様子に忠勝と稲姫はやっと強張った顔を緩ませた










あれから少し話しを交わして居たが、気付かぬ内に眠ってしまったらしい
眼が覚めた時には朝日が昇り、微か辺りが明るくなり始めていた
慌てて飛び帰ったはそれから夕日が沈むまで、
眼の下にクマを作ったねねにこっ酷く叱られて居たと後に秀吉は語ったと言う










08.8.22