そっと空を仰げば、一面に夕空が広がる
しんと静まり返った辺りは一面屍の海
虚しさにも似た感覚に、は少しの間瞳を伏せた















世は乱世
天下は織田信長の手に渡ると誰もが思っていた
しかし今、天下は豊臣秀吉と徳川家康が間で揺れていた
正しくは、豊臣が前にある天下餅を徳川が奪い取らんとしている最中だ



「徳川の忍を足止めして欲しい」



一刻程前
主が口にした言葉には少し表情を曇らせ、すぐにまた表情を消した
徳川の懐刀である伊賀忍を思い浮かべ、小さく溜息を一つ
跪いたままに伏せた顔を上げ主を見上げれば、いつものおちゃらけた表情は無い
傍に居るねねを見やれば、いつもの様に優しく微笑みこくりと頷いた
その微笑を見ると一度瞳を伏せ、深く頭を下げる

「御意に」

そう一言だけ残し、はその場から掻き消えた
すまんな
ぽつりと呟いた夫の言葉に、ねねは苦笑を漏らす
が主、秀吉はただじっとその場を見つめていた










木々の枝から枝に飛び移りつつ、は敵本陣に向かっていた
己が目的である忍は本陣付近を護衛しているとの情報を掴んだのだ
ふと、気付かぬ内にぼんやりしていたらしい
不意に足元に苦無が飛んで来て、バランスを崩し仕方なくひらりと地面へ降り立った
周りを囲む敵の忍達を見渡せば腰に在る双の刀を鞘から抜く
短めの其れは光華を放ち、の胸先で構えられる


忍同士の戦いは他のそれよりずっと静かだ
互い声も出さず、ただ辺りには布の摩れる音と武器同士のぶつかる鈍い音が響くだけ
そしてどちらかが敗れた時も、ただ屍が倒れるのみ



どさり、と
最後の敵忍が地面に倒れるのを見つめ小さく吐息を漏らす
流石に数が多かった
額に滲む汗を腕で拭えばゆるりと空を見上げる
夕闇の迫る黄昏色の空
自身を取り巻くように転がる屍が、まるで血溜まりに浮かぶが如く紅く照らされる

「いつ見ても、嫌な光景だ…」

誰に向けるでも無く独りぼやく
ただただ、静寂がを包む
その静寂を破る様に、遠くから敵か味方か解らない歎声が上がる

(これだから男とは)

何をしても豪快と言うか、何と言うか
呆れた様に溜息を吐き真っ直ぐに前を見つめる
本陣は間近
ピリピリとした殺気が漂っている
握ったままだった短刀を一振りすれば刃に滴る鮮血が地に落ちた
それを合図に、は再び走り出す















「………」

本陣界隈を警戒していた一人の忍がふと足を止めた
何かが近付いて来る
味方の気勢とも違うそれに、瞳を細める
そう言えば、敵地に送った諜報が帰って来ない
思い返した瞬間、涼風と共に刃が鼻先を掠めた
何とかそれを躱(かわ)すと鎖鎌を構える

「服部半蔵」

双の刀を構え、は目の前に居る忍の名を呟いた
自身の名を呼ばれ、半蔵は微か殺気を放つ
二つの影は表情無く、一定の距離を保ちながら睨み合う


…』


不意に耳元でねねの声が聞こえ小さく眼を見開く
瞬間、半蔵は鎖分銅をの右腕に向け投げ付ける
油断していた為か意図も容易く鎖が腕に絡みつく
ギリリ、ときつく締め付けるそれにも眉一つ動かさず、
先程の声はこの男の物かと、心のどこかで安堵していた

「…愚かなり」

眼に見えて動揺したに低い声で吐き捨てる
豊臣の忍
名だけは聞いていた
が、まさか目の前の女がそれだとは思わなかった
忍らしくない、胸の膨らみを隠すだけの肌の露出した上半身
下半身も、腰から垂れた布がひらりと舞えば腿が見えてしまう様な格好
極めつけは身に着けた布だ
普通、忍ならば紺や黒等の目立たぬ色を選ぶだろう
なのに目の前の忍は菫色の布を身に着けているのだ
腿までを隠す長い足袋は美しい菊の花が刺繍されている

じっとりとした視線に気付いたのであろう、
は微か不満そうな顔をし自由の利く左手で半蔵に向け刀を振るう
再びその刃を躱せば、半蔵はぐいとの髪を鷲掴みにした

「痛っ…」

小さく悲鳴が漏れる
髪を引かれ痛みに歪む顔を見ると、ぞくりと背筋が震える
のその表情に、奥底から湧く得体の知れぬ感覚に半蔵はごくりと唾を飲む
支配欲
今まで感じた事の無い感情に僅か躊躇いつつ、更に髪を引き顔を近付ける
さらりとした黄金色の髪が、指を撫でる様に一束零れ落ちる
後ろから抱きすくめる様に自由を奪い、半蔵は己の口許を覆う覆面をずらす
白い首筋に唇を寄せれば、の身体が大きく揺れる

「…、ぁ…」

甘く漏れる吐息には眼を見開いた
自分の声に驚いたのだろう、段々と顔が赤くなって行く
その姿に口許を歪め再び唇を触れさせようとした時、視界の隅にきらりと光る刃先が見えた

刹那、

半蔵の手に握られた髪が何本か、さらりと地に落ちる
の刀が、その金色の髪を切ったと直ぐに理解した
相手の拘束から開放されたは素早く半蔵から離れ、
短くなった髪に一度触れ、そのまま首筋に指を滑らせる
熱い唇の感触
微か眉間に皺が寄る
黙ったままに、直ぐに目の前の忍に眼を向けた

「忍がこんなにもあっさりと顔を晒すとは」

くっと皮肉を込めてが笑う
が、半蔵は眉一つ動かさず、手の中の髪を地に落とし覆面を戻した
その態度に少し不満そうな顔をするも、は再び刀を構える

「仕切り直し、だ」

相変わらず冷たい眼差しのままそう言えば、半蔵も鎖鎌を構える
二人が地を蹴り刃が交えるその時、東軍本陣から大声が轟いた

「…主」

その声の主が自身の主君と解ると、は表情を緩めた
西軍が勝ったのだ
嬉しさと安堵に無意識に口許が歪む
本陣に向かおうとしたの腕を、今まで黙っていた半蔵が掴む
不意を衝かれたはそのまま半蔵の胸に倒れこみ、抗う間もなく唇に暖かな物が当てられた
布越しに伝わる暖かな温もり
眩暈がする
はぼんやりと、そんな事を考えていた
ゆっくりと離れて行くそれに、寂しくさえ感じてしまう

「先程の言葉、そのまま返す」

低い声でそれだけ言えば、半蔵はその場から掻き消えた
暫しの間動けずに居たが、はっと我に返り両手で頬を押さえる
目の前がぐるぐると回るかの如く混乱する

「あっ……あ、ぅ…」

文句の一つでも吐いてやろうと口を開くが、巧く言葉に出来ない
居た堪れず一度刀で空を斬り、大きく息を吐き出す
くしゃ、と短くなった髪を掻き、敵本陣を見やる
未だ顔は熱いままだ
何と言い訳しようかと考えながら、は主が元へと走り出した










本陣にはいつもの笑顔をした主君と、その姿を微笑ましく見守るねね、
そんな二人を嬉しいやら恥ずかしいやらと言った風に見つめる三成が居た
駆け寄ろうとしてふと、その前に在る人影に眼をやった
傷を押さえ悔しそうに俯く稲姫、項垂れ地に膝を付いた家康、
そして先程までと刃を交えていた半蔵の姿があった

一瞬、眼が合う

気まずくなり視線を逸らし、ねね達の元へ急ぐ
その間も半蔵の視線を感じ、何故か胸が高鳴りきつく瞳を伏せた

、貴方その頭どうしたの!」

ぐいと腕を引かれねねの胸に抱き寄せられる
心地良い、落ち着く香りが鼻を掠める

(嗚呼、終わったんだ…)

いつもこうして抱きしめられて、初めて戦が終わったのだと実感する
ふにゃりと、冷たい表情は形無く崩れる
甘える様に抱きついてくるに構わずねねは眉を寄せ叱り付ける

「全く!せっかく伸ばしてたのにこんなにして!」

叱られながらもは離れようとはせず、寧ろより甘える様に擦り寄る
ねねの指が、杜撰に切られた髪先を優しく撫でる
帰ったら綺麗にしないとねぇ
小さく呟いた言葉に、はこくりと頷く
その様子を見て秀吉は、笑みを一層深め嬉しげに頷いた










08.8.18