
「あれ」
掃除機のホースをちょい、と引っ張って本体の向きを変えたら、喧しい作動音がひゅううんとディクレッシェンドして消えてしまった。勿論ゴミを吸い込む機能もストップ。うっかりスイッチに触れてしまったのかと改めて「吸い込み・強」のボタンを押したのにうんともすんともいわない。
「接触不良だな」
本体とホースとの継ぎ目をいじるとたまに電源が入るのを見て、ダンナがそう断言した。文系だけれど私よりは詳しいだろう。
「保証書は?」
「保証期限は切れてんの。三年くらい使ってるんじゃなかったっけ」
とはいえ買い替えるより修理の方が安く済むだろう、と次の日ダンナに車を出させ、私は“電気器具なんでも修理、みんなの修理屋さん”チェーン店へ向かった。
「はいいらっしゃいませ! どうなさいましたか?」
掃除機を車から降ろす時、ドアにぶつけたとダンナが大袈裟に騒いだので胸に生えてきたムカムカの虫は、カウンターの向こうからの気持ちの良い声と笑顔のおかげで引っ込んだ。
「あのう、掃除機が多分接触不良で動かなくなっちゃって」
「はい、じゃあちょっとこちらへ……ああ、電源入りませんねえ」
カウンターに立っていたのは白髪混じりの、恰幅の良いおじさまだったのだけれど動作がきびきびとしていていかにも頼りになりそうだ。しどろもどろの私の説明も真摯に聞いて、手元の預かり証にメモしているようだ。
「うん、中を一通り調べてみますね。では今現在での見積もりですが」
手品師のような手さばきをもって目の前に料金表のファイルが開かれた。
「税込みで七千三百五十円、うち前金内金として千五十円本日いただくシステムとなっております」
「あ、はい……ん?」
「はいっ何でしょうか!」
私は店の中に大きく掲げられている料金表を指差してしまった。
「あそこには、掃除機は五千円って書いてません?」
「申し訳ありません、あの料金表は古いとも言えるものでして……紙パックタイプですとあのお値段になるのですがお客様の掃除機は新しいタイプですので」
それまで快活に輝いているようだったおじさまの顔がくもり、ぴんと張った一文字眉毛が八の字に下がって声も心底すまなそうなものになってしまったものだから、私は己のケチ臭さを呪いたくなった。
「どうしても機能が複雑になる分、料金を上げざるを得ないものですから」
「はい、はい、そうですよね。すみません」
「いえ申し訳無いのはこちらの方です。それと……もし調べてみて、現時点での見積もりよりも料金がかかってしまいそうだ、という場合お電話で連絡し、お客様のご許可をいただいてから修理する形になるのですが」
「はい、構いません!」
レジスターの扱いもおじさまは手馴れていた。いかにも旧式を大事に使っています、といわんばかりの青紫色で印字された前金のレシートと、預かり証の控えを手に私はダンナの待つ車へ戻った。預かり証にはきっちりした文字で「電源入らない」と簡単明瞭に書かれてあった。
電話ごしの声も誠実そうだった。きっと、向こうには見えないのに頭を下げてしまう人なのだ。
「大変申し訳ありません、モーターを交換するためメーカーに問い合わせましたらもう同じモーターは製造していないという事でして、本当に申し訳ありません」
「ええ? そうなると修理出来ないんですか」
「いえ、新型の『ハイパワーなのに作動音は四分の三モーター』が今は同系器に使用されていますので、そちらへの交換は可能なのですよ。ただ……」
「ただ?」
休憩時間が終わりかけていたので私はつい、せかすような声を出してしまった。
「そうなりますと修理代金がですね、割り増しになってしまうのです。申し訳ありません千円ほど見積もりよりも高く……」
「はいはい、大丈夫です交換でお願いします」
何て事だろう。たった三年前に買った製品の部品がもう製造されていないなんて。私は携帯を勢い良く閉じてパート仲間とのお喋りに戻った。
「日本のメーカーはすぐ新商品ばかり出して、フォローがなってないよねえ」
「どしたの」
それまでの話の流れを断ち切ってしまったのに、皆すぐ振り向いて反応してくれた。これこれこういう訳で、と早口に喋ったら揃ってうんうん、と頷いて。
「そうそう、要らない機能ばっかりついて」
「で、すぐ壊れるの。うちもこないだ洗濯機が壊れたばっかり。昔の家電って、もっと長持ちしたでしょ?」
「うちのテレビのリモコンも。まあチビがすぐ投げるからかもしれないけど」
「うちも前掃除機が壊れて、修理出したよ」
山谷さんが何故か同情的な目を私に向けて言った。
「すぐぽんぽん買い換える訳にもいかないのにね」
「もったいないもん。保証期限が切れてたって修理出来るなら修理するよね」
休憩時間終わりまでの五分間、私たちは消費型社会への鬱憤を愚痴る事で晴らした。このままでいいのか。環境保全は身近な所から考えていかねばならない問題なのだ。
一週間後待ちに待っていた修理終わりの連絡が入ったので、仕事から帰ってきてまだ靴も脱いでいないダンナをまた車に追いやり、掃除機を取りに行った。
「では八千四百円になります」
レジがちーん、と旧式の音を立てる。あれ、内金払わなかったっけ、と思ったけれどおじさまがにっこり笑ったので笑い返しているうちに思い違いだったような気がしてきた。
新型モーターよ、ハイパワーなのに音が静かなのよと帰宅後うきうきしながら早速スイッチを入れてみた。ひゅうん、と軽い音がした。そして消えた。
「ん?」
また間違えて電源ボタンに触れてしまったのだろうか。胸の中が灰色に染まっていく中、注意深くホースの具合を確めてもう一度スイッチを入れてみた。おそるおそる、十秒後にはぐりぐり力をこめて。掃除機に導入された新型モーターはとても静かだった。静かな上に何の働きもしていなかった。
「なんだ、どうした」
着替えてきたダンナが不機嫌な声で言ったので私はさらに不機嫌な声で言い返した。
「……ちょっと、もっかい行こう」
「おいメシは? 今日でなくてもいいだろう」
「掃除が出来ないでしょ! あそこ八時までって書いてたから、まだ間に合うから、早く!」
二人とも機嫌が悪いとお互い何も言わなくてもムカムカ虫がキャッチボールで大きくなるのが不思議。ダンナへのムカムカと“電気器具なんでも修理、みんなの修理屋さん”へのムカムカが重なって真っ黒になった胸の中を抱えて自動ドアをくぐったら、人の神経を逆撫でするような「いらっしゃいませ!」の声で迎えられた。無駄に太ったあのおっさんの口が、私を見た途端わざとらしい驚きの形になった。
「もうっっっしわけございません!」
……カウンターに何度も何度も手を付いて頭を下げられるとこちらが凄い悪者のようで、胸のもやもやがしぼんでしまう。いや、ここであっさり許してはいけない。
「修理のし直しは無料ですよね?」
「勿論ですとも! 当社での修理品にはこのとおり、半年の保証がついております!」
保証の問題では無くて故障が全く直っていなかったのだけれど。
「モーター、関係無かったんじゃないですか?」
「いえいえ、開けてみたら随分と、その、悪い状態でしたよ。奥様は綺麗好きなのでしょうねえ。毎日使う物ですから知らないうちに細かい部分に故障が出てきてしまうのです。水滴を吸わせたり、なさいませんでしたか?」
そう言われてみればちょっと酷使していたかも。玄関の砂埃をついでに吸い取ったりしていたから、その時に水気が入ったのかなあ。
「えーと、そのモーターは取り替えて、じゃあ後は何が悪いんでしょう」
「出来るだけ早く原因を調査してお直しいたします、申し訳ありませんまた修理終了の際にご連絡いたします!」
きっと今度は隅々まで点検して悪い所を全部直してくれるよね、と私は清々しい気持ちに戻ったのに不機嫌ダンナのおかげでまたイライラさせられる羽目になった。
「もう、新しいの買えよ」
「何言ってるの、もったいないでしょう?! そうやって直せばまだ使える物をどんどん捨てるからゴミ問題が起きるのよ、企業が新製品ばかりに力を入れるようになるのよ!」
本当に申し訳ありませんでした、今度こそ修理完了しましたと電話が入ったその前の日、折悪しく私はダンナと喧嘩をしていた。
「しゃぶしゃぶだって言うから楽しみに帰って来たらなんだよ豚って。俺の稼ぎが悪いと言いたいのか」
なんで夕食時にこんな馬鹿な事を言い出す人と結婚しちゃったんだろう。いちいちそんな当てこすりを考えてメニュー決める訳がない。だいたい何食べたいか聞いても何でもいい、としか言わないくせに文句はつけるのか。考えるとまた腹が立って仕方が無いけれど、車でないと掃除機を持ってこられない。帰宅したダンナの目つきの悪さにまた怒鳴りつけたくなったのをこらえて、車を出してもらったら今度は。
「もったいないもったいないって、ケチケチすんのも当てつけか」
この人は新聞も読んでいないのか。異常気象だ地球温暖化だ、ゴミ問題だと大変なのに当てつけなんてせこい所にしか目が行かないのか。返す言葉も無い程あきれるとはこの事だ、これで、そうあんたの稼ぎが悪いからだと言われれば満足するのかしら。
イライラ虫を宥めてくれるのはおじさまの笑顔だ。本当に申し訳ありませんでしたと眉を八の字にして謝りながら、修理の終わった掃除機を綺麗に拭いてくれた。
「この部分が断線していました。しっかり直しておきましたから」
指差された部分はホースと本体の継ぎ目。あれ? 私最初にそこが断線しているんじゃないかって伝えたような気がするけど。初めの時は調べていなかったんだろうか。まあ直ったんなら文句は無い。
掃除機には前の時の物に加えて、二枚の「修理明細書兼保証書」がセロハンテープで貼り付けられている。「ホース断線部分修理しました。動作テスト確認」と書かれているのを見ながら“電気器具なんでも修理、みんなの修理屋さん”を出たら、店横の小さな倉庫から痩せた男が同時に出て来た所だった。
「あ、あの、その掃除機」
「はい?」
痩せた男はカウンターのおじさまと同じ“電気器具なんでも修理、みんなの修理屋さん”ロゴの入った作業着姿だったが、おじさまのようにネクタイを締めてはいなかった。下のワイシャツの襟がよれていて、失礼ながら鼠に似た顔の貧相さを際立てている。なんなのこの人。
「ぼ、ぼくが修理したんです」
「……はあ」
「受付担当が威張ってて、僕ら修理部は虐められてるんです」
「……はあ?!」
本日の何言ってるんだ大賞。候補にはダンナの「ケチケチすんのは当てつけか」が入っておりましたが、大賞はこの言葉に決定しました。いきなり何を。
「全然機械の事わかんないくせに、威張ってて、それで、モーター取り替えろとか言うんです、あ、あの、今度はちゃんと、断線直しましたから」
「あ、そうですか。どうも」
目をキロキロ動かしながら話す痩せ男が何だか怖くなってきたので、私は掃除機を抱え直してさっさとその場を離れた。何? 最初はちゃんと調べてなかったっていうの? それもあのおじさまに虐められてるから?
……もういい。掃除機が直ればいい。もう修理屋さんとは縁が無いものね。車の中でこの変な痩せ男の事をダンナに話そうとしたけれど、こっちの顔を見もしなかったのでまたムカムカ虫が涌いてきた。
なんだか吸いこみが悪いな、と気付いたのはたった三日後の事だった。吸いこみ口についている『ゴミを叩き出すよブラシ』が回転していない。その前の日も夕食の事でダンナと喧嘩をしていた。白菜のクリーム煮を前に、「こんな物俺は食わない」と言いくさったのだ。それでむしゃくしゃしていた所にこれか。また壊れたのか。ダンナの帰りを待つのも、車を出してと頼むのも嫌だった。物置から取り出した庭仕事用丸打ちビニールロープ、一本長く切って愛用の自転車籠に掃除機を括りつけ、座りの悪いホース部分を肩に担いで私は猛然とペダルをこいだ。学校帰りの学生を追いぬき、長い坂を越えて“電気器具なんでも修理、みんなの修理屋さん”へ。
カウンターのおっさんは顔を真っ赤にした私の形相に一瞬愛想の良い笑顔を引っ込めた。