やっちまった。
俺の足元には刺身包丁を胸に突き立てたAの死体が転がっている。ついかっとなった時、運悪く俺は包丁を砥いでいる真っ最中だったのだ。
「ちょっと、Bさん、なんの音ですかー?」
安普請のドアがしなるほどどがどがと叩きながら叫んでいる声に俺は飛びあがった。階下に住んでいる大家だ。まずい、このおばはんは合鍵を持って怒鳴りこんでくるのだ。思ったとおりロックが外から外され、何も出来ないでいるうちに目の前でドアが大きく開いた。
「あのねえ、あたしもあんまり喧しくは……」
はじめ俺の顔を睨みつけた大家のおばはんは、ちらりと床に目をやり目と口をOの形に開いた。俺は、咄嗟に叫んだ。
「太刀魚なんです!」
「は?」
「スーパーで目にして、珍しくてつい買ってしまったんですが、さばき方が良く判らなくてまごまごしているうちに、床に落としてしまったんです。すいませんでした」
「で、でも、それ……」
「心の汚れた人には太刀魚に見えない太刀魚なんです!」
「え」
大家のおばはんの口は長方形になった。
「例えば、泥酔して帰った亭主の財布から五千円一万円と抜き出してこっそりパチスロにつぎ込んでいる主婦には太刀魚に見えない太刀魚なんです。あれ、ひょっとして……」
大家のおばはんは、俺の顔と床にでれんと転がっているAの死体とに視線をきっちり四回往復させた。
「あら、そうだったのほほほほほほ。気をつけてねえ、手なんか切らなかった?」
「あ、大丈夫です。奥さん料理上手いですよね、いい料理法知りませんか?」
「さー、あたしもこんな良い型の太刀魚丸ごと一匹なんてさばいた事無いからねえ。余っちゃったらちょっと塩して、干しといたらいいわよ」
「そうですかー。ありがとうございます」
ほほほほほ、と笑いながら大家のおばはんは自分の部屋に戻っていった。
俺は暗くなるのを待って、Aの死体を外に引きずり出した。Aが痩せ型なのが幸いだ。両足を脇に抱えて、なるべく人通りの少ない脇道を選んで文字通り引き摺って歩く。しかし暫く行った所でカップルと行き当たってしまった。まあ覚悟はしていたが。
カップルの男の方がアヒルのような口になり、女の方が盛大な悲鳴を上げようと息を吸いこんだ瞬間、俺は先手を打って早口で言った。
「太刀魚なんです!」
「「え?」」
いかにも軽そうなカップルを真っ直ぐに見つめて俺は愛想良く笑ってやった。
「太刀魚なんです。スーパーで買ったんですが、心の汚れた人には太刀魚に見えない太刀魚なんです。例えば、酔っ払ってたからという言い訳で彼女の女友達にこっそり手を出した男や、合コンで彼氏いないんですぅーと偽ってお持ち帰りされている女には、ひょっとしたら太刀魚に見えないかもしれませんが」
表情を取り繕ったのは女の方が早かった。男はまだ動揺を顔に出しながら俺を睨んだ。
「な、なんだよ、そんなもん夜中に持って歩いてんじゃねーよ」
「すいません。この大きさなもんですから、さばき方が判らなくて。料理の得意な友人の所に持っていく途中なんですよー」
女はちらちらと俺の脇から道路に伸びているモノを見ながら言った。
「びっくりしたー。あの、一瞬ね、したい……に見えちゃった」
俺は一旦厳しい表情で頷いて見せてから、慈悲深い神父のように微笑んでやった。
「まったく心に汚れを持っていない人間など、生まれたばかりの赤ん坊くらいですよ。誘惑に心揺れる事は誰にでもあります」
「例えば、交際費の領収書の中に一人で遊びにいったキャバクラのものを混ぜるようなサラリーマンには太刀魚に見えない太刀魚なんです!」
「例えば、課全体で米の横流しをしていたJA職員たちには太刀魚に見えない……」
「速度違反を見逃す代わりにと言ってナンパするような警察官には……」
行き会った人々をなんとかやり過ごし、次はどのような例を出そうかと考えているうちに、俺は目的の住宅造成地にたどりついていた。どこかで死体を隠せるような基礎工事をしていないかと闇の中を見まわし、引き摺ってきたAの死体を振り返って俺は首を傾げた。
なんだかそれが太刀魚に見えるのである。
――終――
2005年10月15日 井上斑猫
コメント:風呂に浸かりながら、裸の王さま改変バカ話をやろうと思ったが
ネタが降ってこなかったので太刀魚の話を書こうと思った。
これも纏らなかったので殺人犯の話を書こうと思った。これも……
全部混ぜたらあっという間にできた。