このルートの開拓は、2001年に瑞牆山の麓で行われた「植樹祭」のPRポスターから始まった。僕の部屋の机に座ると、正面にはこのポスターが貼られている。2003年に開拓した「アウトサイダー・ズルムケチムニールート」を、この写真で確認していた時、そのラインの左に心が躍るようなクラックを見つけてしまったのだ。大きな一枚岩に伸びる一本の筋。その時から「このクラックを登りたい」という気持ちに、僕の心は支配されてしまったのだ。
「ルート開拓」にもよりよいスタイルというものがある。もちろん「オンサイト、フリーソロ」に勝るスタイルはない。しかし現実的には《ボルトやハーケンなどの残置物や、登った痕跡を残さず、すべてのピッチをオンサイト、ワンプッシュで登り切る》スタイルが目標となる。
 このルートに手をつけた時点では「ルート開拓」という意識はなく、ただ単に「あのクラックを登りたい」という一念だった。ところが通い始めると「このピッチの前後をつなげて、ロングルートに・・・」「残置物のない良いルートに・・・」「できる限りよいスタイルで・・・」と、意識は変わっていった。

2003年10月27日

 張替とともに「錦秋カナトコルート」(2001年に開拓)を登りに行った際、登攀後にこのクラックを偵察。

2003年11月4日

 張替、永井、亀井とともに出かける。例のクラックの下を1ピッチ登り、例のクラックの取り付きに至る。しかしこの1ピッチ目はあまり好ましいラインではなかったので、この日1日だけのラインとした。本題のクラックに取りつく。ハンドサイズから始まるが、上部はフレーク状のワイドなサイズになっているようだ。上部でどれだけのプロテクションが必要になるのか分からないが、とりあえず登り始める。下部は快適なハンドジャムで15mほど登る。しかしその上は体が入ってしまうほどのサイズになる。しかもクラックが曲線を描いているため、被ったフレークのレイバックになりそうだ。半身をクラックに入れ、さらに登るがプロテクションデバイスが底をついた。あっけなくオンサイトをあきらめロワーダウンして、下部にセットしたプロテクションデバイスを回収し、登りなおす。しかしそもそも大きなサイズのプロテクションデバイスの手持ちがないため、無駄な努力だった。そうなると、この壁の真ん中からどうやって敗退するのかが問題になる。「高価なキャメロットを残置して帰るか?」「プロテクションデバイスを掛け替えながらクライムダウンするか?」。しかし、今シーズンは再びここを訪れる機会がないし、疲れ果ててもいた。ザックからボルトキットを出して登り直し、敗退ボルトを打ってしまった。(のちに回収したものの、後悔は残った) 

2005年10月24日

 このルートのことは、頭の中から消えることはなかったが、パートナー(興味を持ってくれるクライマー)が見つからず、2年もたってしまった。しかし、やっとパートナーが見つかり、再びここに戻ってくることができた。パートナーは澤田実(チーム84)。
 前回に登った1ピッチ目は登らずに、岩峰の左から巻いてバンドを辿り取り付いた。自分でリードしたい気持ちはあったが、この時には「開拓モード」になっていたので、オンサイトの可能性がある澤田が先にトライすることになった。まだ岩にイワタケが多く、核心では時間を浪費したが、粘ってオンサイトした。(5・10b 30m) 

 さらにブッシュからやさしいコーナークラックを登り、テラスに出てチムニーの中を歩いて下る。途中のテラスからは上部の岩壁が一望できる。(5.6 40m)

 のんびりくつろげるテラスからは、汚いガリーを登れるが、その左の傾斜の弱いチムニーから取りつく。チムニーは25mで垂壁に突き当たり、右に折れる。つまりカギ型をしたチムニーなのだ。右折して5mでガリーに出る。(5.6 30m)

 ガリーの左岸の壁には複数のクラックが走っているが、一番右のコーナークラックを登る。いったんテラスに立ち左のフェースを2〜3手登り、右のクラックに入る。出口はチムニーになる。(5,10a 25m)

 ピークまではあと1〜2ピッチと見込んだが、この日、澤田が東京に用事があり、早く帰らなければならないというので、ここから下ることになった。 

 次に訪れたのは、年を越して2006年。澤田と僕に張替を加えた3人で登ったが、この日はあまり成果は期待できなかった。この日も張替が早く帰らなければならない都合があったからだ。僕と澤田は「下に1ピッチ拓いて岩の基部から登ろう」と、意見が一致し、取り付きを捜した。岩壁の基部の低いところには適当なところがなく、少し右に回り込む。するとバンドをたどりテラスに立つことができた。正面にクラックがあり、簡単に登れそうなので、ここから取りつくことにした。澤田がリード。クラックを抜けると外傾したレッヂに至り、さらに正面の短いクラックを登るとスラブに出る。スラブの正面は例のクラックを持つフェースだ。少し下って次のピッチの取り付きとなる。(5,9 25m)
 さらに3人で登ったが、上部に残された部分は今回も時間切れとなり登れなかった。

 2006年9月、なかなか澤田との日程が合わず、間があいてしまったが、この日は大所帯である。僕と澤田のほかに、チーム84の石田、渡辺、松本CMCの新井が加わる。しかし、僕と澤田には初登≠ェかかっているので、他の3名は後続パーティーで登ってもらうことにした。この日の瑞牆は、日本の著名クライマーの数人が偶然居合わせ、そのなかの一人山野井泰氏は夫婦で「春一番ルート」を登るとのこと。我々のルートのすぐ左だ。「うーん、何としても今日登らないわけにはいかなくなった」。しかし天候は小雨。

 前回開いた1ピッチ目から取りつく。1ピッチ目は角屋がリード。それ以下つるべで5ピッチ登る。いよいよ残された岩壁に取りつく。僕がトライする。出だしはフィンガーサイズのクラックとその左のカンテを使って、7〜8m上のコーナークラックを目指すが、かなり悪い。3mほど登ったが先に進めない。右手でクラックにジャミングするが次の左手の出しどころが見つからない。後続のパーティーから声援を受ける。隣の岩では山野井夫妻がカッパを着こんで撤退の準備をしている。霧雨の雨粒がはっきりしてきたからだ。みんなの視線を感じながらがんばってみたが、力尽きてフォール。残念だ。ここまで全ピッチ、僕か澤田がオンサイトで登って来たのに・・・。気を取り直してもう一度チャレンジ。しかし今度はさっきのセクションに入る前で、アンダーホールドがかけてフォール。いったん降りて3度目のトライ。今度は1回目に詰まったところで、カンテの向こう側に見えないホールドを発見し、コーナークラックに手が届くところまですすんだ。しかしコーナークラックの入り口はブッシュで覆われている。かなりジムナスティックなムーブでブッシュを掴みに行く。左手で細いブッシュを束にして掴む。これで体を引き上げて右手をコーナークラックの中に突っ込めれば、核心は抜けられる。ところが体を引き上げようとした瞬間、バリっ!とブッシュが折れた。またまたフォール。3回のフォールでさらに気持に火がついたが、フラッシングの可能性のある澤田にリードを変わることにした。しかし澤田はプロテクションにテンションをかけ、ブッシュを整理して隠れたクラックを掘り起こす。そしてそのクラックを使ってそのまま抜けた。フラッシングはならずピンクポイント。コーナークラックは立派な、そして美しいもので、2ピッチ目と並んで三ツ星ピッチだ。しかもピークにダイレクトに飛び出す。(5,10d 30m) 僕はノーテンションでフォローした。後続パーティ−の石田はフラッシングでリード。

 こうして一つの新しいルートを完登した。ルート上には何も残置物はない理想的なルートだ。しかし、言わなければ気がつかないだろう敗退ボルト≠フ穴や、実質3回のトライ、オンサイトを逃したことなど、開拓のスタイルとしては、残念ながら理想には届かなかった。そういう意味を込めて、アンドレ・ジッドの小説「一粒の麦もし死なずば」から、「一粒の麦」とルート名をつけた。

テクニカルノート

1p:クラックの走るフェース(5.7)〜短いシンハンドクラック(5.9)〜スラブを少し下る 25m

2p:ハンドクラック〜ワイドサイズのフレーク〜オフウィドゥス(5.10b) 30m

3p:ブッシュ〜2〜3手のコーナークラック(5.6)〜チムニーを歩いて下る 40m、またはバントV級をトラバース 15m

4p:傾斜の緩いカギ型チムニー(5.7) 25m

5p:ハンドサイズのコーナークラック〜2〜3mのフェース〜ダブルのハンドクラック(5.10a)〜オフウィドゥス 25m

6p:カンテ&フィンガークラック(5.10d)〜コーナークラック 35m