2001年9月の読書日記

  〜04日 三浦綾子「積木の箱」
05〜10日 三浦綾子「ひつじが丘」
12〜15日 三浦綾子「帰りこぬ風」
17〜20日 梨木香歩「裏庭」
25日〜   梨木香歩「からくりからくさ」



2001年9月3日 月曜日 三浦綾子「積木の箱(下)」新潮文庫pp.123-224

もう9月ですぅ。早い早い。
で、「積木の箱」の続きですが、最近読書日記でよくやってた、気に入った文章を抜き出す、という形式では、この作品はやりにくいですね。←抜き出したいと思う文章があまりない。といっても、つまらないというわけじゃなくて、おもしろさ、という点では三浦作品の中でも上位だと思う。

関係ないけど、気に入った箇所を抜き出しておくと、意外に後で役に立つものですよ。人に本を紹介するときとか、自分で振り返ってみるときとか、ね。こんな形で役に立つとは自分でも思ってなかった。



2001年9月4日 火曜日 三浦綾子「積木の箱(下)」新潮文庫pp.225-333

「積木の箱」読了。

p.296
「小さな崩れなら、ある程度教育で防ぐこともできるだろう。しかし、人間の心の奥底から、なだれるように崩れ落ちてくるものを、果たして教育だけでくいとめることができるだろうか。できるわけはないと悠二は思った」
仮にも教育に携わる者のはしくれとして、教職経験のある三浦さんのこの言葉は重く受け止めたいと思います。

p.316
「悠二はいま初めて、真に自分を支えるものが、自分自身の中には何ひとつないことに気づいた」
僕は今、このことに気づきつつある段階かな。



2001年9月5日 水曜日 三浦綾子「ひつじが丘」講談社文庫pp.1-150

今日から「ひつじが丘」。三浦作品の中でもかなり好きな部類に入る本。

p.117「愛するとは、相手を生かすことであり、またゆるすということである」

良い言葉。だけど、人が人をゆるすことができるのだろうか?←「氷点」のテーマの一つはこれだった。人が「ゆるす」というのは、尊大な感じがしてあまりよろしくないような……。

そして、相手を生かす、ってどういうことだろう?



2001年9月6日 木曜日 三浦綾子「ひつじが丘」講談社文庫pp.151-190

p.169「『人生とは選択である』という言葉が奈緒美は好きだった。日々、刻々、選択を迫られているのが、自分たちの人生ではないか」

この言葉を実感として感じることってあるなぁ。平凡な一日のように見えても、実は人生に大きな影響を与えているみたいな実感。人生の厳しさを表している言葉だと思う。

p.170辺りの、良一に対する怒りを自分を省みることで新たな気持ちになる、という奈緒美の心境の変化にはすごく共感できた。



2001年9月10日 月曜日 三浦綾子「ひつじが丘」講談社文庫pp.191-355

「ひつじが丘」読了。

p.327「神の最もきらいたもうのは、自分を善人とすることであります。そして、他を責め、自分を正しとすることであります」

ほんと、僕もなんでこんなに他人を責めちゃうんだろう、と思うことしばしば(特に最近)。しかも無意識のうちに。ま、最近、そのことを自覚できるようになったのは、全然気づかなかったときよりもマシだとも思うんだけど……。

「ひつじが丘」は、やっぱり僕は好き。なんとも言えないものが心に残る。
最初から読んでると、竹山や奈緒美と同じく、良一のことを軽蔑してしまうんだけど、最後に良一の方が高いところに行っていることを知らされて、頭をガツンとやられた気分になるんだもん。ほんと、竹山や奈緒美の気持ちと同じ気持ちを味わわされている、みたいなもんですね。やっぱこのあたりは、うまいんだよなあ>三浦綾子



2001年9月12日 水曜日 三浦綾子「帰りこぬ風」新潮文庫pp.1-74

これまたお気に入りの三浦作品、「帰りこぬ風」。

若さと純粋さが溢れる、日記形式の作品。読みながら、こっちまで照れてくるような箇所もたくさんある。



2001年9月13日 木曜日 三浦綾子「帰りこぬ風」新潮文庫pp.75-150

千香子と同じように、広川さんが出てくると読んでいるこっちまでほっとする。

p.103
「自分の過失は、自分が忘れれば、それで消えるというものではない、ということを知っていてくださいよ」

「氷点」にも何度も出てきたテーマ。こういう風に考えるからこそ、自分に厳しくなれるのだろう。



2001年9月14日・15日 三浦綾子「帰りこぬ風」新潮文庫pp.151-262

「帰りこぬ風」読了。

ほんとに杉井田ってのはひどいやつ。僕は広川さんみたいに生きていこう。

……なんて、以前読んだときは思ってたんだけど(たぶん)、今はそう単純に言い切れない。だって、自分の中にも杉井田みたいな部分があるもん(←きゃつみたいに露骨に表にでないだけで)。そして、広川さんの境地には遠く及ばないことも自分で知っている。

だけど、やっぱり広川さんのようにありたい。とてもとても難しいことだけど。



2001年9月17日 月曜日 梨木香歩「裏庭」新潮文庫pp.1-37

今日から「裏庭」。初めてこの本を読んだのが5月。2度目に読み返したのが7月。そして3度目。こんな短い期間に3回も読む本も珍しい。←時間が余ったら、今週の講義の雑談に使う予定なので、読み返しておいた方がいいかな、と思ったので。

今日は、ほとんど時間がとれなかったので、少しだけ。

p.9「もしかすると、おじいちゃんの方でも、いつも照美に話しかけたかったのかもしれない。人の誤解ってよくそんなふうに起きる」
p.13「でも、その日はしとしとと、音もなく小雨の降る日で、ほら、そんあ日は人と人との距離がとても短くなるのだ。気を付けなければならない」

こんなふうに、さりげなく織り込まれている言葉がなんともいえない風情を醸し出す。梨木作品を初めて読んだとき、梨木香歩に親しみを覚えたのは、こういう表現がきっかけだったような気がする。

照美と純って双子だったんだねえ(←今更、何を言う)。照美が保護者代わりをしてたから、年の離れた姉弟、という印象が刷り込まれていた。ひょっとして、テナシが双子の片割れということと関係あるのかな?



2001年9月18日 火曜日 梨木香歩「裏庭」新潮文庫pp.38-124

今日はけっこうありますよ。今回は勢いで読むんじゃなくて、ゆっくり見落としのないように読もうというコンセプトなので。

p.41「なぜ、こんなことがわからなかったのだろう。いや、本当はわかっていたのかもしれない
p.51「『どうも普通ではなさそうな人』を相手にしなければならないって、なんて気疲れのすることだろう。相手がどういう対応をするのか全く見当がつかないし、どういうことが相手に失礼に当たるかも想像がつかないのだから
↑この2点は、昨日抜き出したのと同じで、「あー、梨木香歩やるなあ」って思える表現。

p.62「私には、ある時期、確かに鎧が必要だった。けれど、鎧を着ているっていう自覚がないときは、私ではなく、鎧の方が人生を生きているようなものだったのね
ここを読んだとき、けっこう考え込んじゃった。鎧を着てはいけないのか? いや、そんなことはない。「鎧を着ているっていう自覚がないときは」だろう。確か、後半、テルミィの服が鎧に変化することがあったと思うんだけど、あれは照美が経験しなくちゃならなかったことで、避けられなかったことだ。ただし、テルミィの鎧は目に見える形だった。だから、鎧を着ているということは自覚できていたはず。

p.68「僕は服のことはよくわからないけど、どうもその服は君にあってないように思うよ。あってない服を着ているときは、人はその本来の力を出せないものなんだ
今まで読んだときは、テルミィの服の意味がよくわからなかったけど、鎧の話と絡めると、なんとなくわかってきたような気がする。

p.87「普通の、さりげない服を選ぶんだ。着ていて疲れない、人目をひかない、何の変哲もない実用的な服
きれいな服を着たときは、「今まで味わったことのない、心が弾むような満足感に包まれた」(p78)けど、「脱ぐときに初めて、その服が実はとても重いもので、体のあちこちが堅くなってしまっているということがわかった」(p.81)ということになるんでしょう。なんてこと考えると、自分にあった服の重要性ってのがよくわかるんだけど、どうしたら自分にあった服を選べるんでしょうね? これってすごく難しいような気がする。無理をしないってことでもないし、無理をするってことでもないんでしょう。

p.88「うわべだけの服は、存外便利で役に立つこともあるんだ。うわべがしっかりしていれば、その中に隠れて休むこともできる。−本人に分別があればの話だが
なんだよね。

p.116「それは、レイチェル、眺めるってことなんです。草木に愛情をもって、応援し、その隆盛も衰退も積極的に見つめてあげるんです。そうすると、不思議なもので、あの駆逐艦のようなセイタカアワダチソウが入り込んだときも、それほどひどいことにはなりませんでしたね
この言葉、前に読んだ後もしっかり記憶に残っていた。印象的な言葉だったんでしょう。「積極的に見つめてあげる」か……。



2001年9月19日 水曜日 梨木香歩「裏庭」新潮文庫pp.125-261

今日もたくさん。

p.153「自分より他のものに関心がもてなくなってきたのだ。傷を負うことを恐れたのがそもそものことじゃ」「他との接触が、触れ合うことが出来ないということじゃな
傷を負うことを恐れて、他人と触れ合うことを避けるようになり、自分だけに関心を向けるようになる。こういうことってあるよね。それはそれでいいのかもしれないけど、やっぱり「逃げ」の匂いがぷんぷんする。

p.173「君は今まで自分がそうしたいと思ったことはなんでもそうしてきたじゃないか。なんで今度ばかりは僕にそんなこときくんだい。〜それは、あのおばさんのところへ戻るということが、本来の君のありかたと違うものだからなんじゃないか。だから自分でも自信がもてないでいるんだろう。君は心からその服の傷を癒したいと望んでないんだよ。だって、そんな傷、何もそれほど君を脅かしているわけではないもの
傷を癒してもらう、ということは心地よいもの。だから、本当に傷を負っているわけじゃないときでも、傷を負っていると自分に思いこませて、人に癒してもらうことを求める。こんなこともよくしちゃいがち。だけどそれは「本来の自分のありかた」じゃない。

p.180「癒し手の皆さん、自信をお持ちになって下さい。たいていの場合、どんな患者さんのそれより、みなさんの傷は、大きく、深く、堂々としていて立派です。にもかかわらず、ご自分の傷は後回しにしても、人々の救済に回ろうとする、皆さんのお心がけは、げに貴いものと申せましょう」。
うん、確かに、自分の傷を癒すのを後回しにして、自分より先に他人を助けるというのは自己犠牲の精神でいいのかもしれない。だけど、これに対して、スナッフは言う。「へっ。自分の傷と真正面から向き合うよりは、似たような他人の傷を品評する方が遙かに楽だもんな」。うん、確かに。自分の傷と真正面から向き合うことは、他人の傷を癒すよりも難しいものかもしれない。というよりむしろ自分の傷と向き合わないまま、他人の傷を癒そうとすることは、無理なんじゃないか?そんな気がした。

p.186「あらわになった傷は、その人間の関心を独り占めする。傷が、その人間を支配してしまうのだ。本当に、癒そうと思うなら、決して傷に自分自身を支配させてはならぬ
うーむ、言ってることはたぶん正しいことだと思う。だけど、「傷に自分自身を支配させない」というのはどういう状態なんだろう?わかるようなわからないような……。

p.189「真の癒しは鋭い痛みを伴うものだ。さほどに簡便に心地よいはずがない。傷は生きておる。それ自体が自己保存の本能をもっておる。大変な知恵者じゃ。真の癒しなど望んでおらぬ。ただ同じ傷の匂いをかぎわけて、集いあい、その温床を増殖させて、自分に心地よい環境を整えていくのだ」 p.190「癒しという言葉は、傷を持つ人間には麻薬のようなものだ。刺激も適度なら快に感じるのだ。そしてその周辺から抜け出せなくなる。癒しということにかかわってしか生きていけなくなる
これは180ページの引用箇所と関連してるよね。「鋭い痛みを伴う真の癒し」っていうのは、自分の傷と真正面から向き合い(←鋭い痛みを伴う行為)、その後でやってくる癒しのことでしょう。

p.206「テルミィは、その『抵抗もしないで』自ら犠牲になっていったハシヒメたちの気持ちがなんとなくわかるような気がした。その、『なんとなくわかる』ことが何故かなんとなく後ろめたかった
これはどういうことなんだろう?ちょっと考えてみたけど見当もつかなった。

p.237「皆が他を思いやり、皆が一つの考えにまとまるようになり、自他の境などないも同然になった」「もう、ほとんどみんな溶けおうて、自分というものはなくなってしもうた。結局、最後に残ったのは、それぞれの傷の色じゃった。傷の色だけが微妙に違うた」「どんな心の傷でも、どんなひどい体験でも、もはやこうなると、それをもっていることは宝になった。なぜなら、それがなければもう自他の区別もつかんようになってしもうたから」「傷は育てていかねばならん
傷が宝? 傷は育てていくべきもの? わかるようなわからないようなことだけど、かなり大切なことのように感じる。

p.239「え? これは私の傷なの? 服が勝手につけた傷じゃないの?」「自覚のないうちは、自分のものにはできまいぞ
これは昨日のp.62の引用箇所と同じことを言ってるんだね。

p.253「傷を、大事に育んでいくことじゃ。そこからしか自分というものは生まれはせんぞ
これで3人の音読みの婆の傷に対するコメントが出そろった。
ここらで列挙してみましょう。
「傷を恐れるな」「傷に支配されるな」「傷を育てろ」
どれもこれも意味深い内容。近いうちに別項で整理しなおしてみるつもりです。

p.239「もちろん、わしは自分の『好み』でものをいうとるのじゃ。人はみなそうじゃろう。それでなくては一語も発せられんわ
この言葉、好き。自分の好みでものを言っているということを常に自覚しておくことは大切なこと。

p.259「あれは自分のやったことではない。底知れないこの服の魔力がすべて行ったことだ。−いや、あの瞬間的な怒りは確かに自分のものだった。服はそれに反応しただけなのだ
人は瞬間的にすごく恐ろしいこと、卑しいこと、醜いことを考えてしまうことがある。すぐに、消し去るから、あたかもその感情を自分のものじゃないと感じたり、「魔が差したんだ」で片づけちゃうけど、そんな感情も「確かに自分のもの」なんだよねえ。

p.260「テルミィははっきりと自分の胸の中からあの小さな子が飛び出したのがわかった
この「胸の中の小さな子」は、序盤の貸衣装屋でも登場してるけど、この「小さな子」は何を意味しているのだろう? 未だわかんないことの一つ。

今日はここまで。



2001年9月20日 木曜日 梨木香歩「裏庭」新潮文庫pp.262-412

「裏庭」読了。読むのは3度目だけど、今回が読み終えた時の感動が一番大きかった。読むたびに奥の深さを感じさせられる。まったくなんて本だ。

p.278「傷をもってるってことは、飛躍のチャンスなの。だから、充分傷ついている時間をとったらいいわ。薬や鎧で無理にごまかそうなんてしないほうがいい」

p.279「鎧をまとってまで、あなたが守ろうとしていたのは何かしら。傷つく前の、無垢のあなた? でも、そうやって鎧にエネルギーをとられていたら、鎧の内側のあなたは永久に変わらないわ。確かにあなたの今までの生活や心持ちとは相容れない異質のものが、傷つけるのよね、あなたを。でも、それは、その異質なものを取り入れてなお生きようとするときの、あなた自身の変化への準備ともいえるんじゃないかしら、『傷つき』って」

p.280「ちょっとはこたえることもあったけどね。でも、そういうことが、私を変化させる唯一のものだとある日気づいたのよ」

昨日、「傷を恐れるな」「傷に支配されるな」「傷を育てろ」の3点を挙げたけど、3人の音読み婆の言葉は抽象的ではっきりとは意味がわからなかった。だけど、今日、読み進めるうちに、「ひょっとして、この3点を具体的に物語っているのが、テルミィの裏庭での出来事や、表の世界のすべての登場人物を巡る傷、だったりするのかもしれない、と思った。この観点から、後ほど、まとめなおしてみようっと。

p.284「傷って、鎧って、結局、何だろう。鎧をまとう前の自分って?」

p.284「さっちゃんは、胸の中にごろごろと転がっている胸の痛む思い出を取り出そうとして、でも、自分が本当に伝えたかったことは、もっと別にあるような気がした。それで、そのごろごろたちを押し退けて、もっと奥にあるものを取りだそうと手を伸ばして、さっちゃんはすくんでしまった。そこには何もなかったのだ。何もなかった。真っ暗な底無しの穴のようだった。向き合うと真空の穴のように自分が吸い込まれていきそうだった」

このさっちゃんの言葉は、昨日抜き出した「もう、ほとんどみんな溶けおうて、自分というものはなくなってしもうた。結局、最後に残ったのは、それぞれの傷の色じゃった。傷の色だけが微妙に違うた」という箇所とリンクしてるね。

p.285「あんな恐ろしい穴を相手にしなければならないのなら、誰にも理解されずに一人でいた方がずっとましだ」

この箇所は、「傷を恐れて、他との接触が出来なくなる」という状態だよね。

p.307「私がなりたいもの? 私が…… なりたいのは、私しかない」
「テルミィ、勇気と真実だけが、あんたをあんたにする」
p.308「真実が、確実な一つのものでないということは、真実の価値を少しも損ないはしない。もし、真実が一つしかないとしたら、この世界が、こんなに変容することもないだろう」

p.310で、テルミィは、カラダとソレデに「おじいちゃん」と呼びかけて、カラダとソレデの笑顔を「見覚えのある静かな優しい笑顔」と感じている。なぜだろう? カラダとソレデは誰? 照美がおじいちゃんと呼べる人は、綾子のおじいちゃんだけだけど……。

この後、テルミィはタムとともに、根の国に降りていく。そこで、いくつかの試練に出会うわけだけど、この試練の意味は? 最初は、傷に対する3つの考え方のそれぞれにリンクしてるのかな、と思ったんだけど、どうなんだろう? この点も後で整理しながら、考えてみます。

今回は、(エピローグをのぞいた)ラストシーンで、照美がパパとママの心臓の鼓動を、「礼砲の音」と感じ、「これは礼砲の音。新しい国を造り出す、力強いエネルギーの、確実な響き。忘れないでおこう」と思う場面で、かなりじーんと来た。

これから、裏庭全体のまとめに入ります。
↑今回は、読書日記という形ではまとめきれないので。



2001年9月21日 金曜日

今日は読書せず。ですが、宣言通り「裏庭」をまとめてみました。書くのに時間がかかったから、書きっぱなしでまだ一度も推敲してません。えっへん。←って、いばるな。



2001年9月25日 火曜日

梨木香歩の「からくりからくさ」を読み始めたんだけど、今日はほとんど時間とれなくて、10ページも進んでないから、明日からにします。(←だったら書くな、と言われそうだけど、金曜日から更新してないのが気になっていたので、いちおう。



2001年9月26日 水曜日 梨木香歩「からくりからくさ」新潮社pp.1-75

「裏庭」に続いて、講義の下準備シリーズ第2弾は「からくりからくさ」。
でもあまり時間のとれないのが残念なところ。

この「からくりからくさ」は梨木香歩作品の中でも、独特のテンポがあるよね。透明感があるというかなんというか。

今日はひとまず1箇所だけ。
p.59
「『そうね、人は何かを探すために生まれてきたのかも。そう考えたら、死ぬまでにその捜し物を見つけだしたいわね』
 でも、本当にそうだろうか。それなら死ぬまでに捜し物が見つからなかった人々はどうなるのだろう。例えば、祖母の捜し物は何で、祖母はそれを探し当てたのだろうか。
 ……私が探しているのは、隠れているりかさんなのだろうか。その死の実感が、未だ湧かぬ祖母なのだろうか。それとも、草木の、まだ見ぬ本当の色なのだろうか。
 ……でも、これは探してるっていうのとは、ちょっと違う……」

この本の大事なテーマの一つ。



2001年9月27日 木曜日 梨木香歩「からくりからくさ」新潮社pp.76-140

今日は「ひとりごと」でエネルギーを使い果たしちゃったかも。

p.85「やっぱり、織物の経糸のように、受け継いでいく何かがあるのよ。蓉子さんの、おっとりした感じは、おかあさんから受け継いでいる。それは、私なんかがいくらいいなあと思っても、付け焼き刃じゃどうしても身に付かないものよ。きっと、それは母から娘へ、代々目に見えない遺産として渡されてきたものなんだわ」

p.90
「そのものの、本質から照射される色ってどんなんだろう」
「色って、結局、物がそのとき受けている光のどれを反射したり吸収したりするかで決まるわけでしょ」
「そのものの色ってほんとは何なんだろう。逆に媒染次第で変わる色って何なんだろう」

p.122
「私はそこの土地で採れる作物のような、そこの土から湧いてきたような織物が好きなの。取り立てて、作り手が自分を主張することのない、その土地の紬ってことでくくられてしまう、でも見る人が見れば、ああ、これはだれだれの作品、っていうようにわかってしまう、出そうとしなくても、どうしても出てしまう個性、みたいなのが好きなの。自分を、はなっから念頭にいれず、それでもどうしてもこぼれ落ちる、個性のようなものが、私には尊い」

今日は抜き出すだけにしておきます。



2001年9月28日 金曜日 梨木香歩「からくりからくさ」新潮社pp.141-171

p.154「伏線はいつでもいくらでも張られているが、それがわかるのは思い出になってからだ」

p.159「つくつくほうしは鳴き始めは落ち着いていても、最後は必ずリズムがとれなくなって、ごまかして終わりにする。鳥のほととぎすにもそういうところがある。でも最後まで崩れないつくつくほうしもほととぎすも聞いたことがないのっで、それが彼らの正調というものなのかもしれない」

p.170「あの龍はさ、続いていた流れが変わることの象徴なんじゃないかなあ。今まで自然に受け継がれてきたものを意志して変えるときが一番しんどいんだ。織物でいえば糸の絡みも複雑になって、一番危ない場所でもあるんだ。それをやりおおせるための、まじないみたいな意味があるんじゃないかなあ」

p171「流れが変わることの記号か、流れを変えることの記号か」

神崎の言葉はあまり抜き出したくないんだけど(←きらい)、ここは抜き出さざるを得なかった。




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