2001年8月の読書日記

〜7日   三浦綾子「氷点」
7〜18日  三浦綾子「続 氷点」
20〜24日 三浦綾子「塩狩峠」
27日〜   三浦綾子「積木の箱」



2001年8月1日 水曜日 三浦綾子「氷点(上)」角川文庫pp.245-368

読むスピードがどんどん加速してる……。
にしても、三浦さんの描く子どもたちはなぜこんなに生き生きしてるんだろう。どうやったら、こんなに子どもらしい子どもを描写できるんだろう。←三浦作品を読むたびに思うこと。



2001年8月3日 金曜日 三浦綾子「氷点(下)」朝日文庫pp.1-88

自分に都合よく物事を解釈する夏枝を見てると、なんだか自分も反省。けっこう夏枝みたいなところあるから。僕も。

p.63「汗と涙は人のために流しなさい」
この言葉って重いよね。「人のため」に流してるつもりでも、よくよく考えてみると、「自分のため」の汗と涙だったりすることよくあるし。僕は本当に「人のため」に汗と涙を流したことがあるのだろうか……。



2001年8月5日 日曜日 三浦綾子「氷点(下)」朝日文庫pp.89-144

p.134卒業式の陽子の答辞
「雲の上には、いつも太陽が輝いているという言葉を、先生に教えていただいたことがございます。わたくしは少し困難なことにあいますと、すぐにおろおろしたり、あわてたり、べそをかいたりします。けれども、それはちょっと雲がかかっただけで、その雲が去ると、太陽がふたたび輝くのだと知っておれば、わたくしたちはどんなに落ちついて行動できることでしょうか」



2001年8月6日 月曜日 三浦綾子「氷点(下)」朝日文庫pp.145-214

p.199「このごろ、啓造は『時がすべてを解決する」という言葉を思い出すことがある。(今の陽子に対するこの愛情は、時が与えたものではないか。すると、それはおれの人格とは何のかかわりもなしに与えられたものなのだ)。時が解決するものは、本当の解決にはならないと啓造は思った。」

そうなんだよね。時間が解決したことを、自分が解決したかのように思ってしまってはいけない。それは「たまたま」時間が解決してくれただけなんだから。結果よければすべて良し、なんて考えない方が自分のためなのかも。

今回、読み直してて、啓造や徹の気持ちの揺れ動きに共感できる。2人とも、一度は何かを決意するんだけど、すぐまたその決意が鈍る。僕もこういう弱さを持っている。…それだけの話。



2001年8月7日 火曜日 三浦綾子「氷点(下)」朝日文庫pp.215-348
                     「続 氷点(上)」朝日文庫pp.1-49


「氷点」読了。

p.298「とにかく夏枝は陽子がうとましかった。それはルリ子の母として当然な感情だと、夏枝は思っていた」
以前読んだ時は、夏枝の身勝手さにあきれて憤ってたけど、今回はそう単純には思えなかった。なんかね〜、自分もこういう身勝手さを「かなり」持ってることを知ってしまったから。「こうするのが当然だ。こうする権利がある。etc, etc」みたいな感じで、自分を正当化しているうちに、どんどん物事の本質を見失ってしまう。あーあ、こういうとこなんとかしないとね。

この作品のポイントは、やはりラストの陽子の遺書。
p.319「今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした」

客観的に見ても、陽子はこれ以上ないほど正しくて無垢な人間だったけど、どんな人間でも生きている限り罪を犯す可能性はある。だから、「自分が正しい、自分は汚れていない」という思いを、強さの拠り所にすることはできない(残念だけど……)。

じゃあ、どうすりゃいいの? 人間が強くなるためには、何を拠り所にすればいいの? 自分ではだめだ。そしておそらく、他人でもだめだ(←どんなに大切な人でも。このあたりはまだ自分が漠然と感じていることがまとまっていない)。やはり、大いなる神?

……というようなことは、「続 氷点」を読んだ後にしましょう。



2001年8月8日 水曜日 三浦綾子「続 氷点(上)」朝日文庫pp.50-168

まだ序盤戦なので、今日は特になし、かな。



2001年8月9日 木曜日 三浦綾子「続 氷点(上)」朝日文庫pp.169-278

うーん、今日も特にないね〜。←2日続けてこれだと手抜きと言われてもしかたないかも……。でもぉ、ホントにないんだもん。なんでだろ?



2001年8月10日 金曜日 三浦綾子「続 氷点(上)」朝日文庫pp.279-328
                     「続 氷点(下)」朝日文庫pp.1-82


p.314「北原は陽子の変心を許すという。しかし、陽子は許された気がしなかった。自分が裏切ったという事実は、たとえ北原が許してくれても、厳然としてこの世にとどまっているような気がした。」
こう思う陽子に、北原は「僕はもう責めていないのに、自分で自分を責めてはいけませんよ」と言う。

北原の言葉と似たようなことは僕もよく言う。でも、この箇所を読んだとき、北原の言葉がすごく虚しく響いた。陽子が言うように、相手が許してくれたとしても自分のしたことは帳消しにはならないんじゃないか。自分がそういうことをしたということを忘れないことが大切なんじゃないか。…と思った。



2001年8月15日 水曜日 三浦綾子「続 氷点(下)」朝日文庫pp.83-163

久しぶりの読書。抜き出したい箇所がたくさんある。

p.129「生れて来て悪かった人間なら、生れて来てよかったとみんなにいわれる人間になりたいって」

p.141「子供にめぐまれない親と、親にめぐまれない子供です。似合いの親子ではありませんか」

p.149「順子さんには許し得て、わたしには許し得ないということは、わたしには順子さんほどの寛容さを持ち得ていないということなのだろう。それでいて、母にわびることは何ひとつないと思っている。わたしは人間として、大きな過ちを犯しつつあるのだろうか。」
 ……この箇所はこの作品のポイント。何も痛みを感じないことが大きな罪なのかもしれない。罪悪感にさいなまれているときは、少なくとも罪を犯したという自覚があるから。罪を犯しているのに、それに気づかないことが一番こわい。

p.151「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」



2001年8月16日 木曜日 三浦綾子「続 氷点(下)」朝日文庫pp.164-259

話は終盤に。あと1日で読み終わりそう。

p.212「……自分は正しいと思いたい思い、人間にとってこれほど根強い思いはないと思います」



2001年8月18日 土曜日 三浦綾子「続 氷点(下)」朝日文庫pp.260-352

「続 氷点」読了。

p.308「愛とは感情ではなく、意志である」
この言葉、これまで読んだときは気にもとめなかったけど、今回は「確かにそうかも」とうなずけた。

p.315「なぜ許し得たのか。それは、妻を責める資格が自分にはないという、罪の自覚によるものではないか」
この箇所は、この作品のポイントでしょう。でも僕には、まだ完全には納得できないような気がする。他人の罪を許すということは、どういうことだろう。罪を許すと、許された人はどうなるのか。罪を許されないからこそ、人は許されるために努力するのではないか。
……とここまで考えて、はっとした。確か、陽子が「北原さんは許すというけど、許された気がしなかった。自分の罪は残っているような気がした」という箇所があったよね。そうか、人には、本当に罪を許すことはできない。他人の罪をとやかくいうことはできない。だけど、自分の罪を認めることで、他人の罪を責めることはなくなる。
たぶん、この箇所は、「人に人は裁く資格はない。そのことを受け入れて、犯した罪の裁きは、他人自身と神にゆだねるべき」という感じなんだろうね。ある意味、人and神を信じていなければ、できない行為なのかもしれない。そして、信じるという行為の難しさを考えると、こう考えられるようになるにはなかなか時間がかかりそう。

p.338「なぜイエスはゆるしたのだろう。罪は、たとえ人間の命をもってしても、根本的につぐない得ないものだからでもあろうか。確かに罪とは、ゆるされる以外にどうしようもないものなのかも知れない」

p.338「人間同士のゆるしには、恐らく完全を求めることはできないであろう。許したつもりが、いつまた憎しみが頭をもたげてくるかわからない。〜そのような不完全なゆるしに、真の解決があるとは思えなかった」

p.339「やはり、感情だけが自分とは思われなかった。知性も意志もまた自分なのだ」

p.342「自分がこの世で最も罪深いと心から感じた時、ふしぎな安らかさを与えられることの、ふしぎさも告げたかった。<一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである>」


「氷点」に限らず最近本を読んでると、本の内容が、今、自分のぶつかっていることを考える手がかりになることが多い。直接関係のないような言葉からでも、ふと「あ、そういうことだったんだ」と自分の抱えている問題を理解できる瞬間がたびたびある。おそらく、作品の中で繰り広げられている人間の生き方が、ヒントを与えてくれてるのだろう。

もちろん本を読んでいるときにひらめいた考えが、正しいとは限らない。本の一節を自分に都合良くこじつけているだけなのかもしれない。でも、僕は、今はこういう感覚を信じていきたいと思う。

今回、「氷点」読んでて、「あ、そろそろ僕は三浦さんの強さを真剣に身につけようと努力するべき時なのかな」というような気がした。これまでは遠藤さんの「弱さ」の方がどちらかというと主たるテーマだったし、遠藤さんのおかげで自分の弱さをかなり(他人の弱さは少し)好きになることができてきたと思う。弱さに対する優しさと並行して、それ以上に、自分に対して意志的に、強くならなければ、と痛感した。



2001年8月20日 月曜日 三浦綾子「塩狩峠」新潮文庫pp.1-70

「氷点」に続いて「塩狩峠」。
これまでも何回も読んだけど、感動的な話だと思う反面、少し出来すぎた話という印象も残っている。さて、今回読み終えたときの印象はどうなんでしょ?



2001年8月22日 水曜日 三浦綾子「塩狩峠」新潮文庫pp.71-148

p.142「日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。」
僕が今死んだら……、後悔は残る、ね。詫びるべき相手に、詫びないままだし(時間をかけて詫びていくつもりだけど……)。



2001年8月23日 木曜日 三浦綾子「塩狩峠」新潮文庫pp.149-232

p.175「自分を偉いと思う人間に、偉い人はいないのですよ」



2001年8月24日 金曜日 三浦綾子「塩狩峠」新潮文庫pp.233-389

「塩狩峠」読了。やっぱ、少し涙が滲んじゃったかも。

とはいうものの、少し違和感を持ったのも確か。史実に基づいてる作品だけに、事実を織り込もうとして、小説としてのバランスが少し崩れているのかもしれない。なんて思ったけど、よくわかんないです。

少しけちはつけたけど、やっぱ心が洗われるような作品。
扉に書いてある、ヨハネ伝の一節は大好きな言葉。
「一粒の麦、
地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、
もし死なば、
多くの果を結ぶべし」



2001年8月27日 月曜日 三浦綾子「積木の箱(上)」新潮文庫pp.1-86

今日から「積木の箱」。三浦作品の中でもわりと好きな作品。
設定は暗いけど、あまり暗さを感じないところが好きなのかも。
以前読んだときは、読後感が良かったような気がする。
ま、ぼちぼちと。



2001年8月28日 火曜日 三浦綾子「積木の箱(上)」新潮文庫pp.87-134

今日は電車の中で考え事してたし、眠かったりで、少しだけ。だから、特にないかな。



2001年8月29日 水曜日 三浦綾子「積木の箱(上)」新潮文庫pp.135-213

ついつい話に引き込まれちゃうね(←話の筋は知ってるのにもかかわらず)。
和夫君が可愛すぎる。神様の右手の話なんて、読みながらにこにこしてきちゃう。



2001年8月30日 木曜日 三浦綾子「積木の箱(上)」新潮文庫pp.214-333

p.221「父が不潔だからって、一郎のように自分まで不潔になるなんて馬鹿よ。甘ったれてるわ。そして、おれが悪くなったのは、おやじが悪いんだって、あの子は人のせいにするのよ、きっと」
この箇所を読んだとき、「自分に責任をとるとは、人のせいにするような行動はしないということ」という僕の友達の言葉を思い出した。



2001年8月31日 金曜日 三浦綾子「積木の箱(下)」新潮文庫pp.1-122

p.90「自分の欲情を巧みにすりかえて、一郎はそれを正当化しようとしていた。」

自己正当化か。どうしても人間は自分に都合の良い考えをしてしまう。だからこそ、自分で過剰だと感じるほど自分を律するぐらいでちょうどいいんだろう。「ここまでしなくても」と自分で思い始めたときには、すでに甘えが入ってるのでは?




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