2001年4月の読書日記

〜02日   村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第2部」*
03〜06日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第3部」*
09〜11日 江國香織「流しのしたの骨」
12〜21日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」*
21〜24日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)」*
25〜26日 村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」*
26日〜   村上春樹「スプートニクの恋人」

(*印はもう一度読み直したい本)



01年4月1日 日曜日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第2部」新潮文庫pp.91-164

 今日から4月ですね。昨日に続いて「ねじまき鳥」の謎解きを続けます。

 p.124クミコの言葉「なんと言えばいいのかしら、私が現実だと思っていることと、本当の現実とのあいだに、少しズレがあるのね。私の中のどこかに、何かちょっとしたものが潜んでいるような気がすることがあるの。ちょうど空き巣が家の中に入ってきて、そのまま押入れに隠れているみたいにね。そしてそれがときどき外に出てきて、私自身のいろんな順序やら論理やらを乱すの。磁気が機械を狂わせるように」。
 クミコの中に潜んでいるものとは何?

 p.127〜p.131に出てくる札幌の歌手は何を象徴してるんだろう? 共感?

 p.132「夜明け前に井戸の底で夢を見た。でもそれは夢ではなかった。たまたま夢というかたちを取っている何かだった」。
 という出だしで、この章は、(これまでもこれからも)たびたび出てくる208号室の世界を語り出す。ということは、208号室の話は「夢というかたちを取っている何か」なんだね。そして、この「何か」は、(昨日抜き出した)間宮中尉の手紙に出てくる「何か」と同じものを指しているはず。ということは、208号室の世界は救いをもたらす「何か」。一度きりしか機会のない「何か」

 あともう一カ所。この箇所は「ねじまき鳥」の謎とは直接関係ないと思うんだけど、気に入った表現なので。
 p.162笠原メイの言葉「つまり−私は思うんだけれど、自分がいつか死んでしまうんだとわかっているからこそ、人は自分がここにこうして生きていることの意味について真剣に考えないわけにはいかないんじゃないかな。だってそうじゃない。いつまでもいつまでも同じようにずるずると生きていけるのなら、誰が生きることについて真剣に考えたりするかしら。そんな必要がどこにあるかしら。もしたとえ仮に真剣に考える必要がそこにあったとしてもよ、『時間はまだまだたっぷりあるんだ。またいつかそのうちに考えればいいや』ってことになるんじゃないかな。でも実際にはそうじゃない。私たちは今、ここでこの瞬間に考えなくちゃいけないのよ。明日の午後私はトラックにはねられて死ぬかもしれない。三日後の朝にねじまき鳥さんは井戸の底で飢え死にしているかもしれない。そうでしょう? 何が起こるかは誰にもわかんないのよ。だから私たちが進化するためには、死というものがどうしても必要なのよ。私はそう思うな。死というものの存在が鮮やかで巨大であればあるほど、私たちは死にもの狂いでものを考えるわけ」。



01年4月2日 月曜日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第2部」新潮文庫pp.165-361

 第2部読了。謎解きを続けます。

p.196クミコを損なわせた何かとは?
p.238綿谷ノボルが加納クレタの体内に入れたものとは?
p.298笠原メイが感じている自分の中の何かとは?
これら3点はすべて同じものを指しているはず。そして、これを一番うまく説明しているように思えるのが次の笠原メイの表現。

p.298「暗闇の中でひとりでじっとしているとね、私の中にある何かが私の中で膨らんでいくのがわかったわ。鉢植えの中の樹木の根がどんどん成長していって、最後にその鉢を割ってしまうみたいに、その何かが私のからだの中でどこまでも大きくなって最後には私そのものをばりばりと破っちゃうんじゃないかっていうような感じがしたのよ。太陽の下では私のからだの中にちゃんと収まっていたものが、その暗闇の中では特別な養分を吸い込んだみたいに、おそろしい速さで成長しはじめるのよ。私はそれを何とか抑えようとしたわ。でも抑えることができなかった。そして私はどうしようもなく怖くなったの。そんなに怖くなったのは生まれて初めてのことだった。私という人間は私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうとしているのよ。それは私を貪ろうとしているの。ねじまき鳥さん、そのぐしゃぐしゃは最初は本当に小さなものだったのよ」。

そして、この自分の中にある「何か」に乗っ取られてしまったのが、クミコなのでしょう。
これはこの巻の最後を読むとはっきりわかる。
p.359「それらはおそらくクミコという人間のどこかに潜んでいた光景だったのだ。そしておそらく、あの暗黒の部屋はクミコ自身が抱えていた暗闇の領域だったのだ」。

この暗闇からクミコを救い出すことができるのは、「僕」こと主人公のみ。p.358「何故なら僕はクミコを愛していたし、クミコも僕を愛していたからだ」。
愛は、人間の中に潜む暗闇に落ちこんだ者を救い出すことができる(かもしれない)

という風に読んでくると、この本が示したかったのは、「人間の奥底に潜む『恐ろしい何か』の存在」と「そこからの救いの可能性」ということになるでしょう。

以上がここまでのねじまき鳥の本筋のテーマだと思う。この本読むのは4度目だけど、ようやくここまで読み解くことができました。

この本筋のテーマ以外にも、この本にはたくさんの謎がある。今回、解けたように(思った)謎を列挙してみましょう。

主人公の頬にできたアザの意味は?
 クミコが救いを求めているということの証、だと考えていいのではないだろうか。

*(結果的にクレタを正しい方向に歩ませることになったにもかかわらず)
 なぜ、綿谷ノボルは加納クレタを汚したことになるのか?
 第2部p.249の加納マルタの言葉が明確な答え
「でもうまい具合に、そのときのお前の存在はたまたま本来のお前ではなかったから、それが 逆にうまく作用したのだよ」。

*井戸の底から208号室の世界へ主人公が行ったとき、
 なぜ顔のない男は「今は間違った時間だ」と言ったのか?
 おそらく答えは、第2部p.337加納クレタの言葉「そこは危険な場所だからです」。
 そう、そのとき、主人公はそこが「危険な場所だ」ということを認識していなかったから。
 「危険な場所だ」ということを認識しない時には、「間違った時間」になるということでしょう。

間宮中尉の話に出てくる「皮剥シーン」の意味は?
 答えは第2部p.331/332。主人公の夢のなかで札幌の男が自分で皮を剥いでいき、最後には「肉の塊」になる。この「肉の塊」は、おそらくクミコが飲み込まれ、笠原メイが感じている「何か」と同じもののはず。ということは、「皮剥シーン」はこの話全体のテーマを具体的な形で暗示したものだったはず。
 と、ここで思い出すのが第1部p.39/40の笠原メイの言葉。「そういうのをメスで切り開いてみたいって思うの。死体をじゃないわよ。死のかたまりみたいなものをよ」。笠原メイは、死のかたまりが人の中にあるって考えてる。このことも皮剥シーンと類似点が多く、「何か」を示していた表現なんでしょう。

*第2部の最後に主人公は啓示を見る。
 この啓示は間宮中尉が井戸の底で感じた啓示と同じもののはずだけど、
 間宮中尉は「その存在を感じただけ」だけど、主人公は「啓示」を「見つめる」ことができてる。それなら、この主人公と間宮中尉の違いはどこから生まれるのか?
 この謎は僕にはまだはっきりと解けない。ただ、主人公の方が支えてくれる人が多かったことは確かでしょう。

*最後に
 今回読んできて、この小説における笠原メイの重要性をつくづくと感じた。
 彼女は主人公の周りにいる人々のなかで最も核心をついた考えを持っている。
 そして、彼女の役割はこれにとどまらない。
 彼女は「共感」ということを身をもって語りかけてくる。
 例えば、第2部p.350「私まで一緒になってだらだら汗をかいちゃうのよね」。
 この他にも確か、主人公を井戸に閉じこめたとき、彼女は主人公の恐怖を共に感じていたはず。この笠原メイの研ぎ澄まされた「共感」の思いはこの物語の重要な側面のような気がする。

以上。「第1ねじまき鳥」の謎解きでした。
↑なんでこんな表現するか、って言うと、村上春樹自身が「第2部までの作品と、第3部を加えた作品は2つの独立した作品と考えてもらってもよい」と言っているらしいから。
「第1ねじまき鳥」の謎解きがこれで十分なものだとは思わないけど、以前読んだときよりはこの物語を理解することができたように思います。
ということで、明日からは、「第2ねじまき鳥」に入ります。



01年4月3日 火曜日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第3部」新潮文庫pp.1-161

 今日から第3部。この巻になってから、話が分断されて、スケール感が大きくなってくる。
 大きな話としては、1クミコを探す主人公の話、2笠原メイの手紙、3赤坂ナツメグとシナモンの話、の3筋ということになるのかな?
 ナツメグとシナモンはかなり好きなので、彼らの登場はうれしいかぎり。
 ところで、「真夜中の出来事」で語られる少年の話は、シナモンの話なんだよね? それ以外考えられないんだけど、この本初めて読んだときはこれすらも気づかなかったので。
 ここまで読んだ中で、最大の疑問は、「ねじまき鳥はいつ鳴くのか? ねじまき鳥の声を聞く者には何か共通点あるのか?」だね。これまでねじまき鳥の鳴き声を聞いたのは、(クミコがいた頃の)主人公とクミコ、少年の頃のシナモン、動物園での若い兵隊、だと思うんだけど、彼らの共通点とは?
 あと一つわかんないのは、主人公のバットの意味。ギターケースの男が主人公に殴りかかってきたバットは、なぜ今主人公に落ち着きを与える道具となってるんだろう?



01年4月4日 水曜日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第3部」新潮文庫pp.162-239

 笠原メイの手紙の中には、はっとさせられるような視点がたくさんつまってる。
例えば、p.194のあたりで、彼女は「人間がこうして毎日朝から晩までせっせと働くというのはちょっと変なものですね」と言いつつも、「でもそれにもかかわらず、それにもかかわらずです、自分がこんな風に仕事の一部になっていることにたいして、私はぜんぜん悪い気持ちを持っていません。イワ感みたになものもべつに感じない。というよりもむしろ、私はそうやってアリさん的にわきめもふらず働くことによって、だんだん『ほんとうの自分』に近づいているような気さえしちゃうのです。自分について考えないことでぎゃくに自分の中心に近づいていくというみたいなところがあるのね」と言ってます。
 これはすごい表現だ。ここ読んでしばらくたってから(何ページか読み進めてからあっそうかという感じで)、はっと息をのんだもん。
 笠原メイはそれまで人間社会の歯車からこぼれ落ちた個性的な生活を送っていたんだけど、そんな個性的な生活を送っているときよりも社会の歯車に組み込まれたときに、「『ほんとうの自分』に近づいているような気がした」っていうのは、すごいリアリティをもって迫ってきます。だって僕だって社会の歯車に組み込まれたくないって気持ちもあるけど、歯車に組み込まれることによってしか得られない充足感を感じるときあるもん。歯車に組み込まれることで、社会とか他の人とのつながりとか連帯感とか一体感とか感じられるから。
 今思い返してみれば、この小説では他の箇所でも一貫して「何かこの世界とつながっているという具体的な証拠が欲しい」みたいな感じの表現が何度も登場してたもんな。そうしないと、自分がどこにいくかわからないみたいな感じで。そっか、「他人や社会とのつながりを持つことが今の自分を確認するのに必要なことだ」ってのも、この小説の重大なテーマだったんだ。「自我」の形成は、自分だけでできることだけじゃなくて他人の存在に大きく左右されるっていうのは最近社会学で勉強したけど、それと同じようなことだろうね。たぶん、無批判に「個性化」「個性尊重」とかが叫ばれるようになってきた最近の風潮に対して、村上春樹なりの疑問を呈するっていうのもこの小説の目的だったのかもしれない(とこの箇所読んで思いました)。

 そしてこれにとどまらず、笠原メイはまだまだ冴え渡る。
p.220からの「世の中の一貫性」に対する彼女の疑問も鋭いところ突いてるなあ。
「茶碗むしのもと」を電子レンジでチンするとき、私たちの知らないところで、一回マカロニ・グラタンに変身して、それからまた茶碗むしに戻っているのかもしれない、という彼女の表現はすげぇ。この方が現実的だと思う、の理由を「自分のこれまでの人生には一貫性などない」ってことで説明してるのもすげぇ。なんだか納得させられちゃう。
 笠原メイおそるべし。彼女がいなかったら、「ねじまき鳥」の意味はさっぱりわからないところだ。彼女の不思議によくわかる的確な説明がなかったら、どうなっていたことか・・・。



01年4月5日 木曜日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第3部」新潮文庫pp.240-348

 話は佳境に入ってきた。ぐいぐい話に引き込まれていく。今日、読んだ箇所は理解できたようなできないような・・・。
 p.347「ものごとはまるで三次元のパズルのように複雑に入り組んでもつれている。そこでは真実が事実とは限らないし、事実が真実とは限らない」。なんとなくこういう感じがこの物語を読んでるとわかるような気がする。頼れると思っている記憶なり事実なりは、実はそう「思っている」だけかもしれない。ねじまき鳥を読んでると、普段日常生活を送っている世界と、ねじまき鳥の世界、どっちが本当の世界なのかよくわからなくなりそうになる。
 今日、ついにシナモンの「ねじまき鳥クロニクル#8」が語られた。このシナモンの物語1〜16まで通して読みたい、って気持ちになるのは僕だけじゃないでしょう。でも読めないんだよな・・・。



01年4月6日 金曜日 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第3部」新潮文庫pp.349-509

 「ねじまき鳥」読了。いままでにない爽快な読後感がある。4度目にして、ようやくねじまき鳥の世界をほぼ理解できたような気がする。

 p.462謎の女(あちらの世界にいるクミコ)が主人公に「あなたの確信はほんとうに確かなの?」と問いかけるシーン。ここで主人公は最終的な決断を迫られる(そしてこれが最後の機会)。主人公の考えはあくまでも「仮説にすぎない」もので、その状態のところに、決断を迫られるときの気持ちって大変だろうな。ここではっきりと「僕は君を連れて帰る」って断言できるためには相当の勇気がいるはず。何も考えないで単純に断言することは簡単だけど、それは決断でもなんでもない。決断とは「苦渋に満ちた」「迷いをもった」もので、長期間の葛藤を経た後でこそ下せるものだと思う。僕は最近(今日?)、ようやくそう思えるようになった。

 これに関連して、p.471「そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。憎しみからでもなく恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった」。そう、重大な決断には、同時に「したくないこと」が伴う。それを「やらなくてはならないこと」と判断できるまでには(主人公のように)長い時間をかけた試行錯誤、思考の葛藤が必要なんだよね。
 僕が今日この箇所を読んだという事実には、偶然以上のはたらきを感じてしまう。今日ねじまき鳥を読み終えたことは一生忘れ得ない記憶として残るような気がする。
 ・・・ごく個人的なことでした。

 この物語を締めくくるのはやはり笠原メイ。主人公を救ったのは、間違いなく笠原メイの行為だ。笠原メイが主人公の助けを求める声を聞かなければ、主人公は井戸の底で死んでいたはず。遠く離れた地で、助けを求める声を聞き、実際に救いの行為(月夜に裸で涙を流す)ことの意味の大きさを感じずにはいられない。人間はつながっている。これが第3部までを含めた「第2ねじまき鳥」のメインテーマなのでしょう。これは、第2部までの主人公と共にいたときの笠原メイと、第3部に入ってからの笠原メイの変化を見ているとよくわかる。最初、社会の枠から外れ社会をバカにしながらも一人ぼっちで孤独感を味わっていた笠原メイが、第3部になって社会の歯車に組み込まれることによって自分を発見し、最終的には主人公という他者を救うことになる。笠原メイは、人間のつながりの大切さを発見することによって、自分も救われ、他者をも救っている。「第2ねじまき鳥」の主人公は笠原メイでしょう。

 その笠原メイの最も美しいシーン。p.486「涙はあとからあとから月の光の白い水たまりの中に音を立てて落ちて、光のもともとの一部みたいにそこにすうっと吸い込まれていきました。涙は落ちるときに空中で月光を浴びて、きらきらと結晶みたいに美しく輝きました。そしてふと見ると、私の影もやはり涙を流していました。涙の影だってくっきりと見えました。ねじまき鳥さんは涙の影を見たことがありますか? 涙の影はそのへんにあるただのふつうの影ではありません。ぜんぜん違います。それはどこかべつの遠くの世界から、私たちの心のためにとくべつにやってくるものなのです。いや、それとも影が流している涙が本物で、私の流している涙の方がただの影なのかもしれないな、私はそのときにそう思いました」。

だいたいこんなところか。
あと一つだけ今回初めて気づいたこと。
あっちの世界の「顔のない男」は、間宮中尉だよね? p.448で主人公の「あなたは誰ですか?」という質問に、顔のない男は「私は虚ろな人間です」と答えている。あちらの世界に飲み込まれた人間で、虚ろな人間で、唯一の主人公の味方、といえば、間宮中尉以外に考えられない。

今回はかなりこの物語を理解できたという感触があります。僕もどうやら成長しているようだね。以前ねじまき鳥を読んだときからここ何年間かの間に、人とのつながりとか、自分の成り立ちとか、自我の作られ方とか、この小説のテーマに近いことを学ぶ機会があったのが大きいような気がします。



2001年4月8日 日曜日

 昨日、今日と読書せず(←ほんとは少しだけしたけど、ほんとに少しだけなので、明日からまとめて始めます)。
 代わりと言ってはなんですが、「ねじまき鳥クロニクル」のまとめを作っておきました。自分なりには満足のいく出来、のつもり。



2001年4月9日 月曜日 江國香織「流しのしたの骨」新潮文庫 pp.1-91

 今日から、「流しのしたの骨」。江國香織、初体験なのです。
 何というか、透明感のある世界だね、っていうのが第1印象。
 それにしても変な家族。父以外は、まともな人いないんじゃないの、この家族。と思ってると、ふと、村上春樹の小説の主人公に、この作品の登場人物に会わせたいような気がしてきた。「やれやれ」から始めて、さぞユニークな表現をしてくれるだろうな。と思うと、すごく楽しくなってきた。
 とは言うものの、今のところ、作者との信頼関係はまだ築けていないね。この先、どうなるのか。



2001年4月10日 火曜日 江國香織「流しのしたの骨」新潮文庫 pp.92-154

今日もほどほどに。
徐々に好感度アップしてきたかな。独特の表現がおもしろくて良い感じ。村上春樹もそうだけど、こういう独特の表現のできる作家は、本当に天賦の才能があるんだろうね。こんな表現は、努力だけでは書けるようにはなれない。少なくとも僕には一生かかっても無理。
とは言っても、天賦の才能だけでは良い作品を作れないのも確かでしょう。どこまで自分の才能を掘り下げてるのか、じっくり読ませてもらいましょう(えらそうだ……。おまえは何様?)



2001年4月11日 水曜日 江國香織「流しのしたの骨」新潮文庫 pp.155-310

「流しのしたの骨」読了。うーん、どうなんだ? 悪くはない。全然悪くない。なんだか不思議な家族の日常を、妙にリアルに描いてて、それなりに楽しくは読めたけど。うーん、どうなんだ?

困ったところで、福田和也の「作家の値うち」を開いてみると、
「イノセントだけれど不気味という独特の世界を確立した作品」、とのこと。
イノセントはわかるけど、不気味っていう感触はわからなかったな。確かに「流しのしたの骨」っていうタイトルはなんだか不気味な感じはするけど。

そのうちまた同じ作者の別の本を読んでみますか。
やっぱ初めて読む本のこと書くのは難しいね。

とりあえず、明日からは・・・・・・何読もう?



2001年4月12日 木曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」新潮文庫 pp.1-28

本当なら、江國香織の別の作品をもう一つくらい続けて読んでみるつもりだったけど、うっかり買うのを忘れてしまった。そこで何を読もうかなと思って本棚を見渡して、候補に上がったのは、スタインベックの「怒りの葡萄」と、井上靖の「しろばんば」。どっちにしようかなと迷ってるうちに、なぜか村上春樹の「世界の終り」を読みたくなってきたので、これにしました。

でも、今日は集中力なく落ち着きなかったので、あまり読めなかった。この本は、最初の部分ちょっと集中力の必要な本だし。また少しずつペースを上げていきます。



2001年4月16日 月曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」新潮文庫 pp.29-93

えらく長いこと、読書日記の更新、さぼっちゃった。本を読む機会に恵まれなかったこともあるけど、この本の序盤の話の乗りにくさにも多少の原因はあるはず。
でも、もう完全に話に入ることはできたので大丈夫。がんがんいきますよ。一度話に入ってしまうことさえできれば、この作品は名作だしおもしろいし。



2001年4月17日 火曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」新潮文庫 pp.94-136

昨日がんがんいくと言っていながら、あまり進んでないです。これは時間があまりとれなかったせい。ここまで読んだ内容を書いても仕方ないので、今日は手短に以上。



2001年4月18日 水曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」新潮文庫 pp.137-187

今日もほどほどに。一角獣を通じて、「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」がつながり始める。50年以上昔に行方のわからなくなった一角獣の頭骨っていう話は、純粋にわくわくして好き。

にしても、この本のヒロインは、美人でスマートだけど胃拡張で大食漢の女の子と、若くて美人だけどむっくりと太っている女の子の2人。この2人、何か妙。現実世界ではよくいるだろうけど、小説のなかで露骨にこういうふうに描かれると、何か調子狂うな〜。

あと、やっぱ村上春樹の比喩的表現はすてき。



2001年4月19日 木曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」新潮文庫 pp.188-300

物語はしだいに佳境に。この作品の感想ってけっこう書きにくいかも。何、書いたらいいのかわかんない。ねじまき鳥のように謎解きをするって感じでもないし。

でも世界の終りの独特の雰囲気はすごく好きだし、ハードボイルド・ワンダーランドの計算士とか記号士とかシャフリングとかも何だかわくわくしてすごく好き。



2001年4月21日 土曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)」新潮文庫 pp.301-397 「同 (下)」 pp.1-50

「世界の終り」上巻読了。やっぱり感想は書きにくい。でも楽しい。「世界の終り」も「ハードボイルド・ワンダーランド」も、独特な魅力をもった世界だから。

今のところ、一つだけわからないのは、「世界の終り」の「僕の影」の意味。旧世界の象徴だということはわかるんだけど、今イチ影の意味を把握しきれていないような気がする。とりあえず読み進めよう。



2001年4月23日 月曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)」新潮文庫 pp.51-205

博士のジャンクションの説明で、だいぶ状況を把握できるようになった。p.104の図がかなりの手がかりになる。「世界の終り」の「僕の影」は、第1回路の僕だな。僕の思考が第3回路と第1回路に分裂してるのと同じように、「世界の終り」の僕は、「僕」と「影」に分裂してる。

ここでポイントは両世界に共通して登場するのがなぜ「僕」だけじゃなくて、「図書館の女の子」まで登場してるのか?じゃないかな。「世界の終わり」は、「ハードボイルド・ワンダーランド」で「僕が図書館の女の子」と出会う前に、作られていたはず。それなのに、なぜ、「世界の終わり」に図書館の女の子が登場してるんだろう。ひょっとして、第1回路と第3回路は、博士の描いた図のように存在してるんじゃなくて、どこかでクロスしてるのかも。その交差点が「図書館の女の子」?



2001年4月24日 火曜日 村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)」新潮文庫 pp.206-347

「世界の終り……」読了。

まず昨日書いたことの訂正から。
昨日は、「影は第1回路の僕」って言ったけど、これは違うわ。影は「第2回路の僕」でしょう。これで全部辻褄が合う。回路は3つで、「僕」も3つ。これは、この小説の主人公の一人称の使い分けを見たら、はっきりする。「ハードボイルド・ワンダーランドの主人公」は「私」、「世界の終りの僕」は「僕」、「僕の影」は「俺」。この小説では、「私」「僕」「俺」の3人が登場してるわけだ。そして、「僕」と「僕の影」は切り離されて、2つに分裂してる。これは、本来一つであるべき、第2回路と第3回路が博士の手によって分裂させられてしまったから。

さて、「世界の終り」で死ぬべきはずだった「影」が、もとの世界(=第2回路)に戻ってしまったということはどういうことなんだろう? これが「僕」と「僕の影」が一緒に第2回路に戻ることができたなら、めでたしめでたし、だったんだけど。この状況は、p.105の図で表すとどうなるんだろう、って考えてみたけど、わかんない。わかんねえ。
死に絶えるべきはずだった第2回路が残って、街で暮らすべきはずだった第3回路の僕は森で暮らさなければならなくなる。心を失うはずだった僕は、心を残すことができた。心の存在によって、僕は「他の回路の僕」とつながりを維持することができるはず。……うーん。わからん。降参。
今回はこれ以上先には進めない。



2001年4月25日 水曜日 村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」新潮社 pp.1-101

「スプートニクの恋人」が文庫になってたのでこれは迷わず購入。その弾みで、前から気になっていた「神の子どもたち」をついに購入してしまった。ハードカバー買うのは珍しいこと。

内容は、帯に「著者初の連作小説」って書いてあるけど、どういう「連作」なのか今のところよくわかんない。ちょっと、「あれ」と思ったのは、その雰囲気。村上春樹の作品にこれだけ「フツー」の人々が出てくるのは、ちょっと記憶にないこと。ちゃんとした漢字名を持った人々だし(オカダトオルではないんだよ)。

さらに、関西弁をしゃべる人が出てきて、「焚き火」やってるシーンなんて書かれた日にゃ、「今読んでるのは、宮本輝?」というような気がしてきちゃう。

明日には読み終わるでしょう。



01年4月26日木曜日 村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」新潮社 pp.102-201
                   「スプートニクの恋人」講談社文庫 pp.1-47


「神の子どもたち〜」読了。
やっぱり、これまでの村上春樹の作品とは異なる雰囲気を持っている本。ちょっと文体も変化してるかもしれない。この村上春樹の変化は好意的に受け止めましょう。

「かえるくん」登場には焦った&笑った。鼠男ならわかるんだけど、「かえるくん」的な存在自体がユーモア溢れてるタイプの人物(?)を村上作品の中で見たのは初めてのような気がする。そして、「みみずくん」登場に至っては、椅子からずり落ちそうな気分になった。電車の中で大笑いしてた。

にしても、相変わらず村上春樹の本は一度読んだだけではよくわからない。またそのうち読み返そう。

「スプートニクの恋人」については、また明日以降に。この本読むのは2回目です。




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