2001年2月の読書日記

〜01日   遠藤周作「妖女のごとく」
05〜06日 遠藤周作「深い河」*
08〜14日 モンゴメリ「赤毛のアン」*
15〜21日 モンゴメリ「アンの青春」*
21日〜   モンゴメリ「アンの愛情」*

(*印は、もう一度読み直したい本)


2001年2月1日 木曜日 遠藤周作「妖女のごとく」講談社文庫 pp.112-279
 「妖女のごとく」読了。
 「真昼の悪魔」同様、悪女・妖女の話なんだけど、「真昼の悪魔」が「悪」自体の意味について問うものだったのに対し、この「妖女のごとく」は昨日まで読んでた「わが恋う人は」と同じく、「転生」の話になっていた。この時期の遠藤さんは、「転生」についてかなりこだわっていたんだろうな……。
 話自体はすっきりまとまってるけど、「転生」の事例は(他の遠藤さんの作品を通して)よく知ってるだけに、新しい発見があまりなかったのも事実。話はおもしろいけど、今の僕が求めている内容ではなかったんだろうな。

 明日は、帝国劇場に「レ・ミゼラブル」を観に行ってきます。ずっと楽しみにしていたこの時がついにやってきた! というわけで、明日は更新できないかもしれません。日帰りの予定なので、明日の夜には家に帰ってるはずですが、ぼーっとして他のことは何も考えられない状態になっててもおかしくないので。
2001年2月2日 金曜日
             ・・・・・・帝劇で「レ・ミゼラブル」観劇中・・・・・・                 
2001年2月3日 土曜日 特別編「レ・ミゼラブル」
 今日は読書日記ではなくて、特別に観劇日記ということで。
 日帰りで東京観劇は疲れた…。で、今日はぐっすりと14時間も眠り続けてしまいました。
 さすがに5回目となると、しだいに感激が薄れているのは否めない。以前の感激がよみがえってくるという感触はあるけど。でも、エピローグは、今までいちばん感激できましたよ。なぜだろ? S席だったからかな?
 初めて観る堀内敬子のコゼットはよかった。ちょっと大人っぽすぎるという気もするものの、声がすごくきれいで聴いててすごく心地よかった。あと、ファンテーヌは鈴木ほのかだったけど、やっぱり岩崎宏美の方がよかったかも。ちょっと演じ方が違ってるから、岩崎宏美ファンテーヌに慣れきっている僕には違和感あったな。で、ジャベール川崎麻世はやっぱりよかったし、はじめてのマリユス戸井勝海もよかった。
 いろんな問題意識をもって観劇に臨んだわけですが、それらの問題を考えるためにはもうちょっと時間がかかりそうです。とりあえずこんなところで。
2001年2月4日 日曜日 「深い河」予告編
 今日は読書せず。明日からはまたどんどん読んでいきますよ〜。何を読もうかなっと。

 …と書いてから、2時間後、明日から「深い河」を読むことに決めました。「『深い河』は手持ちの遠藤周作の本をすべて読んでから、総仕上げとして読む」と公言していたのに、まだ他に読みきれていない本がある状態で「深い河」に突入することにしました。
 つい先ほどまでは、「銃と十字架」でも読もうかなと思っていたんですが、突然「深い河」を読みたくなってしまったのです。今は、魂を揺さぶるような本を読みたい精神状態だし、自分の出発点を再確認するにはうってつけの時期だし。…ということで、「深い河」しかないだろう、と。まだ遠藤さんの本を全部読み切れてないとはいえ、重要な本はほとんど読み返したはずだし(「『悲しみの歌』が抜けてるだろ!」というつっこみがありそうですが、実はあの本はこのホームページを開設する少し前に読み返してるし、それ以前にも何度も読んでるからとりあえず許してください)。
 自分の精神状態を鑑みると、「時は熟した」というかんじです。今、「深い河」を読まないで、何時読むんだ!
 ということで、明日から「深い河」に突入します。
2001年2月5日 月曜日 遠藤周作「深い河」講談社文庫 pp.1-133
 さて、予告通り今日から「深い河」です。ついにこの日がやってきた…。で、最初に断りですが、この本に関しての感想は、自分に語りかける形式でお送りします。これまでは読んでくれる人のことを多少は考慮した書き方をしてきたつもりですが、この本に関してはその書き方では感想を十分に述べられないと思うので。この本を読み進めていく間の自分の心の動きをどれだけ的確に把握し、どれだけ正確に文章にできるか、というのは、僕の今後の人生を左右しかねないほど僕にとっては大きな意味を持っているように思えます。この本の読み方は、そのまま自分との戦いかもしれませんね。さあ、ではいきます。

 今日読んだのは、一章「磯辺の場合」、 二章「説明会」、三章「美津子の場合」、四章「沼田の場合」。

 この本の扉には、「深い河、神よ、わたしは河を渡って、集いの地に行きたい」という黒人霊歌からの引用が載せられてる。前読んだときもみたはずだけど、いつしか忘れていたな。遠藤さんと黒人霊歌というのは少し意外な組み合わせのような気がしたけど、ヨーロッパ流のキリスト教解釈にとらわれない遠藤さんのスタンスを考えるとちっとも不思議じゃないな。

 一章「磯辺の場合」。ここは長年連れ添った妻の死に直面した、磯辺の話。磯辺の悲しみがじかに伝わってくる。この書き方からも、この本に対する遠藤さんの意気込みが伝わってくる。一文一文に無駄がないというか、一文一文がしっかりと組み合わされて「立っている」という感じがした。この夫婦のいじらしい心情に感情移入してすぐに話に導かれる。「『深い河』創作日記」のp.100に、「この書き出しで読者を一挙につかむことができる。この書き出しで、この小説に叙情的な甘美さを与えることができる」と遠藤さん自身が書いていたが、まさしくその通りの効果を発揮している。
 で、この章で語られる「磯辺の場合」のテーマは何かと、「転生」だな。妻の臨終の言葉、「わたくし……必ず……生まれかわるから、この世界の何処かに。探して……わたくしを見つけて……約束よ、約束よ」がそれをはっきり示している。「転生」がテーマなのはわかるけど、この「転生」の位置づけが、これまで「深い河」を読んだときにいまいち釈然としなかった部分。これは、磯辺がインドに行ってからの話も合わせて考えないとわかんないだろ。ということで、一章で出された宿題は、「『転生』の位置づけはどうなってるのか。遠藤さんはこれをどう考えたのか」だな。

 この一章を読み始めると、「あーついにまた『深い河』に帰ってくることができた」ということだけで胸がいっぱいになった。思えば、この本は僕の人生の節目節目に登場してきたもんだ。最初読んだのは、センター試験の1週間ほど前だったな。1年間かなり一生懸命受験勉強してきて本を読むこともなかったのに、たしかセンター試験を目前にしたある日、参考書の字が全く頭に入らなくなったんだよな。これは気分転換が必要だということで、頭に浮かんだのが、なぜかそれまで一度も読んだことがなかった、この本。たしかその時、半年ほど前に「沈黙」をしのぐ久々の遠藤周作の長編小説といううたい文句で、新聞広告が出てたのを思い出しちゃったんだ。それまで、小説を読むのは文庫本だけで、ハードカバーには手を出したことのなかった僕が、はじめて買った新刊のハードカバー小説がこの本だったな。書店に自転車走らして、「置いてあるかな?」とせっぱ詰まった気持ちでこの本を探していた時の気分は今でもはっきり憶えてる。なかなか見つからなかったんだ、これが。
 こたつのなかにもぐって一気に読破したのは憶えてるんだけど、その時どう感じたかははっきり憶えてないな。たしか、結末が尻切れだったような不満を抱いたのは憶えてるけど。「あれ、これで終わり?って」。でも、久しぶりに本を夢中になって読む楽しみを味わえたのは憶えてる。どっちかというと、あのとき置かれていた状況で求めていたのは、「受験のことをしばし忘れて没頭できること」だから。「深い河」の内容を深く考えることもなかったし、高校生のときは「頭で考えて本を読む」ということができてなかったからな。
 その次、この本が大きな意味をもって僕の人生に登場するのは、大学の修士1年の終わり頃(この間にも何度か読んだはずなんだけど、何時読んだかは憶えてない)。自分の卒論には、「何かを人に伝えたいという意志」が何よりも欠けていると痛感していた時期。書く者の「明確な意志」がないと、文系の研究は成立しないんじゃないかと考え始めていたあのころ。じゃあ、自分の論文に「魂を吹き込む」ためには、どんな「意志」が必要なんだろ、と途方に暮れていたときに、思いがけず答えを与えてくれたのがこの本だったな。「そうだ、この本で語られている遠藤さんの宗教に対する思想を、僕が論文を書くときの下地にしたらいいんだ。これだ!」って。
 そして、今。おそらく、新たな出発地点に立っている僕をこの本はどこに導いてくれるんだろう。
 というようなことを一章を読みつつ、電車の外を流れる風景を見ながら思い出してしまった。

 二章「説明会」。この章は大きな意味のない、つなぎの章だな。この章を通して、磯辺から美津子へバトンが渡される。

 そして三章「美津子の場合」。「深い河」では「〜〜の場合」として様々な人物の「場合」が語られそれぞれの話の集合体として、「深い河」という小説が成立してるんだろうけど、その話の集合体の中でも最も中心的な軸をなすのが、「美津子と大津」の話だろう。
 野暮で不器用な学生「大津」と、彼を退屈しのぎに誘惑してあっさり棄てる「美津子」。連絡の途絶えた後、フランスで出会う二人。大津はリヨンで神学生になっている。pp.100-107で大津の言う言葉は、全部引用しておきたいほど、隙がない。大津の口を借りているが、この部分ほど遠藤さんのキリスト教に対する考え方が端的に結集している部分はあまりないんじゃないかと思わせるほど、すごみがある。
 p.104「神は存在というより、働きです。玉ねぎ(*神のこと)は愛の働く塊りなんです」
 p.106「ぼくはここの人たちのように善と悪とを、あまりにはっきり区別できません。善のなかにも悪がひそみ、悪のなかにも良いことが潜在していると思います。だからこそ神は手品を使えるんです。ぼくの罪さえ活用して、救いに向けてくださった」
 p.107「それに、ぼくは玉ねぎを信頼しています。信仰じゃないんです。」
 p.107「でもぼくは自分に嘘をつくことができないし、やがて日本に戻ったら……日本人の心にあう基督教を考えたいんです」
 「リヨンに留学している」という設定自体が、大津に遠藤さん自身が投影されていることを示している。遠藤さんもリヨンで留学生してたもんな(神学生ではないけど)。さらに美津子にも遠藤さん自身が投影されてる。だって、遠藤さんに大きな影響を与えた「テレーズ・デスケルウ」を美津子が卒論のテーマにしてて、美津子は「テレーズ・デスケルウ」の舞台になった地方を巡ってるんだよ。さらに、美津子はテレーズとそっくりな状況に置かれてる。遠藤さんが自分の生涯の最後を締める小説のなかに、自分の留学体験や自分の愛した「テレーズ・デスケルウ」を織り込みたかった気持ちが痛いほど伝わってくる。
 これまで、この章を読んだときは、「美津子の場合」とタイトルが付けられていながら大津の生き方にばかり目がいって美津子のことはそれほど頭が向かなかったけど、今回この章の最後の「一体、何がほしいのだろう、わたしは……」という部分を読んだとき、はっとした。この章で語られていたのは、「消そうとしても決して消えない空虚感を抱いている女・美津子」だもんな。「美津子が何かを求めている」という点を見逃したら、この本のことを理解するのは不可能だろうが。なぜ今までこのことに気づかなかったんだろう?よかった、今回は見逃さなくて。

 四章「沼田の場合」。ここで語られているのは、動物好きの童話作家沼田のこと。この沼田も、遠藤さん自身の分身だな。だって、「満州で子ども時代を送り、クロという名の犬を飼い、両親が離婚する」という設定って、遠藤さんの体験そのままだもん。そして、動物好きという点でも遠藤さんと一緒。ここまでの登場人物に大なり小なり遠藤さん自身の投影が見られるってことは、この本は遠藤さんの人生をそのまま語ったものと考えていいんじゃないか。遠藤さんの人生で最も大きなテーマだった「キリスト教と日本人」は、美津子と大津によってこの本のなかでも最も大きなテーマとして語られる。でも、それだけのテーマで遠藤さんの人生が動いていたわけじゃなくて、磯辺夫婦のような長年連れ添った夫婦愛とか、沼田のような少年時代の出来事・動物好きっていうのも遠藤さんの人生になくてはならないものだったはず。遠藤さんの人生すべてをぶつけたのがこの本なんだろうな。この本で語られているようなそれぞれの話がすべて遠藤さんの人生の構成要素であって、「キリスト教と日本人」という一番広い河を中心に、いくつもの支流が合わさって、「深い河」=「遠藤さんの人生」が構成されているというようなイメージが湧いてきた。
 沼田が飼っている動物たちに遠藤さんがイエスを重ね合わせているのは、今後この本を読んでいく上で見逃したらだめだろうな。
p.118「クロはあの頃の彼にとって哀しみの理解者であり、話を聞いてくれるただ一つの生きものであり、彼の同伴者でもあった」
p.131「神が何かわからなかったが、もし人間が本心で語るのが神とするならば、それは沼田にとって、その都度、クロだったり、犀鳥だったり、この九官鳥だった」

今日はこんなところか。この本を読んでると、やっぱり精神的にぴんとしてくるね。
2001年2月6日 火曜日 遠藤周作「深い河」講談社文庫 pp.134-362
 「深い河」読了……。明日までかけるつもりだったけど、一気に読んじゃった。では、長くなりますが、順番に。

 五章「木口の場合」。
 木口の戦友・塚田は、木口を救うため、人肉を口にする。そのことに生涯苦しむ塚田。そこに現れるのが、遠藤さんの小説の中で最も優しいキャラクターであるガストン。この章の最後の締めは、「木口には安らかなデス・マスクはガストンが塚田の心からすべての苦しみを吸いとったためだ、と思えてならなかった」。遠藤さんの小説の愛好者としては、ガストンの登場は旧友に再会した気分になってうれしい限り。でも、この「木口の場合」のテーマは最後までよくわからなかった。木口も塚田もどうしようもない人間の哀しみを背負っているということはわかったけど、それだけの理解で良いんだろうか。たぶんいいんじゃないかな。

 六章「河のほとりの町」。
 登場人物全員、インドに到着。
 pp.184-185,美津子「死ねばすべては消える、と思ったほうが楽だわ。色々な過去を背負って、次の世に生きるよりも」。「磯辺が立ちあがったあとも、ブランコは軋んだ音をたてて独りゆれた。ちょうど彼の妻が死んでもその言葉が夫の心をふり動かしているように。我々の一生では何かが終わっても、すべてが消えるのではなかった」。この最後の部分が、磯辺の場合の答えの一つなんだろうな。
 この章で出てくる、大津の手紙。この手紙にも全部抜き出したいくらい、遠藤さんの思いがいっぱいつまってる。
 p.191「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」
 p.192「少年の時から、母を通してぼくがただひとつ信じることのできたのは、母のぬくもりでした。〜〜大きくなり、母を失いましたが、その時、母のぬくもりの源にあったのは玉ねぎの一片だったと気がつきました。そして結局、ぼくが求めたものも、玉ねぎの愛だけで、いわゆる教会が口にする、多くの他の教義ではありません。(もちろんそんな考えも、ぼくが異端的と見られた原因です)この世の中心は愛で、玉ねぎは長い歴史のなかでそれだけをぼくたち人間に示したのだと思っています。
 p.195「ぼくは人がその信じる神をそれぞれに選ぶのは、生れた国の文化や伝統や各自の環境によることが多いと、当然のことながら思うのです。ヨーロッパの人たちが基督教を選ぶのはその家庭がそうだったり、その国に基督教の文化が強かったりするためでしょう。中近東の人たちがイスラムになったり、印度人の多くがヒンズー教徒になるのも、他の宗教と自分のそれとをきびしく比較して選んだとはいえないでしょう。そしてぼくの場合は母という例外的な事情の影響があるのです」
 p.196「『君がそういう家庭に生れたのは、神の恵みと神の愛と思わないか』と神学校の指導司祭にたずねられた時、『思います。でも、そうでない家に生れた者が他宗教になるのには、神の恵みがないのでしょうか」
 p.198「ぼくはむしろ、神は幾つもの顔をもたれ、それぞれの宗教にもかくれておられる、と考えるほうが本当の対話と思うのです」

 七章「女神」
 この章で添乗員の江波がチャームンダー像を紹介するシーンは、この本を初めて読んだとき以来、かなり強烈なイメージとして頭に焼き付いている。
 p.226「でも彼女は聖母マリアのように清純でも優雅でもない、美しい衣裳もまとっていません。逆に醜く老い果て、苦しみに喘ぎ、それに耐えています。このつりあがった苦痛に充ちた眼をみてやってください。彼女は印度人と共に苦しんでいる。像が作られたのは12世紀ですが、その苦しみは現在でも変わっていません。ヨーロッパの聖母マリアとちがった印度の母なるチャームンダーなんです」

 八章「失いしものを求めて」
 p.253.磯辺の言葉。「妻が生きている間は思い出しもしなかったありきたりな夫婦の会話、幸福でもなければ不幸でもなかった場面。そんな場面が遠い国に来て、午後のホテルの一室で、なぜ急に痛いほど胸をしめつけ甦るのだろう。妻はごく普通の主婦で、磯辺もありきたりの夫だった。生きている間は、感情を抑える性格の妻が、死ぬ直前にはじめて意外な面をみせた」
 p.254「信じられるのは心のなかにかくれていた妻への愛着だった。そして今、ここに誰かから、もし来世があってふたたび結婚するかと問われれば、今の磯辺は即座に妻の名を口にしたにちがいなかった」
 この辺りも「磯辺の場合」の答えだろうな。

 九章「河」
 p.286「思えば美津子は知らず知らずに大津のあとから何かを追いかけていたようだ。むかし、彼女が侮り棄てた『醜く威厳もない』ピエロという渾名の男。彼女の自尊心の玩具となったくせに、その自尊心を深く傷つけた男を」
 美津子が「大津のあとを追いかけている」と思うようになったのは、画期的な変化だな。

 十章「大津の場合」
 p.302「たしかに大津の言葉は大津の苦しいであろう生き方に裏うちされていた。それは滑らかな口先だけの、ポンチのような味のする結婚式の青年の言葉とは違っていた」
 耳に痛い言葉。僕はいつになったら、大津のような思いのこもった言葉を言えるようになるんだろう。それとも、いつまでたっても、口先だけの実感の伴わない文章しか書けないのかな……。今の僕には何かがやはり決定的に足りないような気がする。
 p.303「大津が冗談を言うのを美津子ははじめて聞いた。それは大津が心の余裕を持っていることを示していた」
 この文章は、大津が何かを得たことを如実に示してる。僕が好きな表現。
 p.305磯辺「結局は宗教でさえ憎みあい、対立して人を殺しあうのだ。そんなものを信頼することはできなかった。今の彼にはこの世のなかで妻への思い出だけが最も価値あるものに思えた」
 p.306「だが臨終の時、妻が発した譫言を耳にしてから、磯辺は人間にとってかけがえのない結びつきが何であったかを知った」
 ここで、「磯辺の場合」の意味が、なんとなくわかったような気がする。人間が普段の生活のなかで大切なものを見過ごしているけど、それは何かのきっかけで気づくことができる。そのきっかけが、磯辺の場合、「転生を願う妻の言葉」だった、という感じかな??とりあえず現状ではこんな感じの理解にとどめとこう。

 十一章「まことに彼は我々の病を負い」
 p.310「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ」
 「さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異った道をたどろうとかまわないではないか」
 僕の人生に大きな影響を与えた、思い出の言葉。生涯忘れ得ぬ言葉。生涯の課題にしている言葉。
 p.311「ぼくは…異端的でしょうか。あの方に異端的な宗教って本当にあったのでしょうか。あの方は違った宗教を信じるサマリヤ人さえ認め愛された」
 p.314「あなたは、背に人々の哀しみを背負い、死の丘までのぼった。その真似を今やってます」
 大津の生き方はまさしく「イエスの真似」だと思うし、この言葉はそれを示したもの。でも、この箇所を読むたびに、「その真似を今やってます」という大津の言葉は、僕の耳には遠藤さん自身の言葉として聞こえてくる。遠藤さんは小説という形で、イエスの真似をし、「愛を伝え」てきたんだから。この部分を読むと、遠藤さんに心から「ごくろうさまでした」と声をかけたくなる。

 十二章「転生」
 p.316「人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能になる。どの国もどの宗教もながい間、そうやって持続してきた。そのなかで大津のようなピエロが玉ねぎの猿真似をやり、結局は放り出される」
 この言葉は鋭い言葉だと思う。放り出されても放り出されても、玉ねぎの猿真似をやる人間が絶えないという事実を見ると、人間を信じたくなる。
 この章では、「木口の場合」と「沼田の場合」にも決着がつけられる。この二人の位置づけは結局、はっきりとはわからなかったな。p.325の「その男の中に美津子の想像の及ばぬ人生がある」っていう文章に見られるように、「人それぞれの人生がある」っていうのを伝えるために、「木口の場合」がこの本に存在してたのかな。
 「沼田の場合」はちょっと複雑な終わり方。「そして彼はその矛盾から逃げるため童話の世界を作り、帰国後もまた鳥や動物を主人公にした物語を書くだろう」が沼田の場合の最後だもん。この文章の意図するところはちょっとまだわかんないな。

 十三章「彼は醜く威厳もなく」
p.342「でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ。その河の流れる向こうに何があるか、まだ知らないけど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何を欲しかったのか、少しだけわかったような気もする」
 「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」
 これで「美津子の場合」決着……。「河が流れていることを信じる」ことが美津子の求めていたことか……。論理的には完全にわかったような気がしないけど、心に訴えかけてくるものがいっぱいある言葉。この言葉はまた宿題として残しておかないと。暗記しておきたい言葉。
 ……そして「大津の場合」を決着させるのは、瀕死状態の大津に対する美津子の言葉。p.345「『馬鹿ね、本当に馬鹿ね、あなたは』と運ばれていく担架を見送りながら美津子は叫んだ。『本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変わる筈はないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、揚句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。あなたは結局は無力だったじゃないの』しゃがみこんだ彼女は拳で石段をむなしく叩いた」
 美津子は「大津が無力だった」と言うけど、もちろんそうじゃない。あの空虚感でいっぱいだった美津子に、「叫び」「石段を叩く」ほどの感情を甦らせたのは、他ならぬ「大津の生き方それ自体」だもんな。

順番に話を追っていくのは、ひとまず以上で終わり。

以下では、全体を通して、感想を。
 最初の読後感は、「あれ? もう終わり?」だった。奇しくもはじめてこの本を読んだときに思ったのと同じこと。でも、はじめて読んだときは話が十分にわからなかったような気がして、多少不満を抱きつつ「もう終わり?」だったけど、今度は違う。この本の読後感は、「もう終わり?」で良いんだ、というような気がする。だって、遠藤さん自身の人生をすべて凝縮して詰め込んだようなこの本は、遠藤さん自身の人生そのものと言っても良いと思うから。一人の人間の人生は(どんな充実したものでも)、「これで十分・完璧」って思わせるもんじゃなくて、「もう終わり?」と思わせるものでしょ。遠藤さんだって本当はもっともっと考えたいこと書きたいことやりたいことがあったはずだから。だから、この本の読後感は「もう終わり?」で良いんだと思う。
 とは言っても、遠藤さんのように自分の人生の総決算となるようなものを作り上げられた人は幸せな人だと思うな。僕も、「これが自分の人生だ」って言えるようなものを残して死にたいな。
 遠藤さんが生涯をかけてできたのは、「愛の宗教としてのキリスト教に行き着き、それを小説という形で多くの人に理解できる形で示すこと」までだったはず。これだけでも十分ですごいことだと思うけど、遠藤さんだって、本当は、「もっともっと多くの人に自分の考えに共鳴してもらいたい、宗教間の争いをなくしたい、この世のなかにもっと愛を増やしたい」って思いがあったはず。遠藤さんにはそこまでできなかったけど(というか一人の人間の短い人生では誰にもそこまではできない)、遠藤さんがまいた種は確実に僕らを始めとする多くの人々の心の中に間違いなく根を下ろしている(と思う)。その遠藤さんの根付かせた種を実らせるのが(あるいは実らせる努力をするのが)、残された僕らの仕事かな、とそんな風に思う。僕には遠藤さんのように小説という形では表現できないけど、自分でできる形で精一杯の努力はしていきたい。
 以上、僕の読んだ「深い河」でした(かなり時間と気合いをかけたので、一言だけでも感想いただけるとうれしいです。みなさま、お願いします)。
2001年2月7日 水曜日
 今日はなんと読書せず!電車には長時間乗ってたにもかかわらず、読書しないのはほんと久しぶり。
 とは言っても、「火の鳥」読んだり、都合上読まなきゃいけないものは読んだりしたんだけどね。それ以外にも、時間をかけて考えなきゃいけないことがあったもので、幸か不幸か読書はできませんでした。
 で、明日からはまた読書していくつもりですが、「深い河」で一区切りはついたことだし、しばらく遠藤周作からは離れる予定です。「しばらく」ってのがどの程度の期間になるかはわかんないけど。で、明日から何を読むつもりかというと、……今日のところは内緒。かなり意表をついたところにいくつもりです。ヒントは「長編」。それも僕が今までちゃんと読んだことない本です。どうやら、「はてしない物語」と「モモ」のせいで、話の筋を知らない本を読む楽しみに取り憑かれてしまったようだ……。
2001年2月8日 木曜日 モンゴメリ「赤毛のアン」新潮文庫 pp.1-26
 今日から、「赤毛のアン」シリーズです。意表ついてました?長編好きの僕としては、前から気にはなっていたんだけど、ようやく読む機会に恵まれたので。
 今日はそれほど読書に時間を使えなかったので、ほんの少ししか読んでませんが、もう話には入ることができました。そう、僕が求めていたのは、話の筋を知らない本を読む、このわくわく感。いいね。明日からきっちり読んでいきますよ。
 …にしても、僕は本に助けられてばっかり。
2001年2月9日 金曜日 モンゴメリ「赤毛のアン」新潮文庫 pp.27-71
 今日もあんまり進まなかったけど。……あまり時間を使えなかったのです。話自体には完全に入ってて楽しみながら読んでいけるんだけど、どうもいろいろなことが浮かんできていまいち読書に集中しきれない状態かも。ま、「火の鳥」も併せて読んでるから、というのもあるんだけど。
2001年2月10日 土曜日 モンゴメリ「赤毛のアン」新潮文庫 pp.72-144
 「赤毛のアン」いいね〜。読んでると楽しい気分になってくる。わりと沈んでた僕を楽しい気分にさせるんだから、ほんものでしょう。なんせ、この本読んでて電車待ちのホームで一人大笑いをしてしまったぐらいだから……。はずかし…。人前で笑いをかみ殺せなかった小説って、宮本輝の「彗星物語」以来かもしれない。小説以外だと、三谷幸喜のエッセイ(タイトル忘れたけど…)で、絶えず大笑いしてたけど(車内なのに……)。
 なんで楽しくなるかというと、会話の間が最高なんだよね。外国文学なのに、これだけ間の良さを感じるということは、やっぱ訳者もうまいんだろう。「赤毛のアン」を僕にすすめた人が、「『赤毛のアン』は『村岡花子訳』で読め!」って言ってただけのことはあるわ。
 絶妙な間の例を挙げようかと、馬鹿笑いした箇所を抜き出そうかと思ったんですが、その箇所だけ抜き出しても全然おもしろくないような気がしたので、やめました。
 にしても、アンは、しゃべりすぎ……。1ページ以上(しかも段落変えないで)しゃべり続けるんじゃない!
 この楽しい本がシリーズで延々と続くと思うと、すごく楽しみ。しばらくの間、これで十分楽しめそうだ!
2001年2月11日 日曜日
 今日は読書せず。何かとすることが多かったもので。その代わりといってはなんですが、「遠藤周作」に「深い河」の紹介文を追加しておきました。よろしくお願いします。
 明日からは、もちろん「赤毛のアン」です。
2001年2月12日 月曜日 モンゴメリ「赤毛のアン」新潮文庫 pp.145-198
 やはりいいね〜「赤毛のアン」。微笑ましいというか何というか、これほど微笑の絶えない読書ってのも珍しい(←もっとも僕は不本意ながら「微笑」の似合わない人間らしいから、傍目にはにやついてるようにしか見えてないかもしんないけどね……)。微笑は絶えないし、たまにこらえきれなくて声に出して笑ってしまうし、なんか幸せな気持ちでいっぱいになる。
 噂のギルバートも登場してきて、これからどうなることやら楽しみ。…ギルバートのファンがいると事前に聞いてると、「どれどれ」と品定めをするような眼をギルバートに向けてしまいますね。今のところは、まだまだ判断材料に乏しいけど、どうなることやら。
2001年2月13日 火曜日 モンゴメリ「赤毛のアン」新潮文庫 pp.199-296
 今日も楽しかった。って、「赤毛のアン」になってから、これしか言ってないな。だってこれ以外に何も言う言葉見つからなんだもん。←これでいいのか!読書日記。
 内気で無口な僕は、マシュウが大のお気に入り。今日読んだ、マシュウがアンの服を買いに行って、照れて違うもの買ってきちゃうシーンなんてすごく好き。
 日本語訳は相変わらず無茶苦茶うまいけど、気の合う人のことを「腹心」っていうのは少し違和感あるんだけど。親友じゃだめなのかな? ま、いっか。
2001年2月14日 水曜日 モンゴメリ「赤毛のアン」新潮文庫 pp.297-425
 「赤毛のアン」読了。楽しかった。それもただ単に楽しいだけじゃなくて、安心感と信頼感のある楽しさだったな。モンゴメリの人間観は信頼できるって感じかな。もともと生きていくのが嫌になるような後ろ向きな本が嫌いな僕は、この本みたいに前向きな気分にさせてくれる本は好き。
 あえて文句を言うとすれば、最後の部分が展開が急すぎたってとこかな。クイーン学院生活が始まったと思ったらすぐに終わったり、マシュウをあっさり殺しちゃったり。急いでまとめにはいったって感じがして、「そんなにあわてなくても」とは思ったけど。
 ま、良い本だったのは間違いないです。頭で考えるってタイプではないけど、心にじかに響いてくるってタイプの良い本。
 明日からはもちろん「アンの青春」。
2001年2月15日 木曜日 モンゴメリ「アンの青春」新潮文庫 pp.1-155
 今日からアンシリーズ2冊目、「アンの青春」。
 この本に入ると、話の展開がのんびりしてて、ほっとした。ゆったりと会話を楽しめるのが、やっぱりこの本の醍醐味だからね。と、しばし楽しんだん後、今度はなんとなく時間の流れが遅すぎるような気がしてきた。……なんて移り気な読者。こりゃ、作家は大変だ……。
 と言いつつも、相変わらず十分楽しんでますよ。明るい日差しを常に浴びてるような気分で。
 p.77「僕はね、アン、この世界にある、誠実な、貴重な仕事に加わって自分のその一部分の使命を果たしたいんだ。世界がはじまって以来、りっぱな人たちが積みかさねてきた人間の知識にたとえわずかでもつけくわえたいんだ。僕より前の時代に生きていた人たちが、僕のために多くのことをしていってくれたんだから、僕も自分のあとからくる人たちのためになにかつくして、感謝の気持をしめしたいんと思うんだ。人類に恩を返すにはそれが唯一の方法だと思うんだよ」。いいこと言うやん、ギルバート。似たような考え方を、僕も信念としてるから、「いいぞ、もっと言え」って感じだった。何をきれい事を、と思わないこともないけど、僕はこういう考え方大好きです。
2001年2月16日 金曜日 モンゴメリ「アンの青春」新潮文庫 pp.156-192
 今日はあまり進まず。だって眠いんだもん・・・。昨日、深夜までかかった新掲示板設置作業のせいで、今日は睡眠不足。
 p.187「わたしたちは、理想をもち、たとえ成功しないとしても、それを実現するために、努力しなくてはいけないのよ。理想がなかったら、人生はみじめなものですよ。理想があればこそ人生も偉大なものとなるのですからね。自分の理想をしっかりもっていることですよ、アン」。
 こういう考え方は、改めて言われるまでもなく自分の中に染みついているけど、やっぱりこういう文章を見ると少し力づけられる。なんとなく思ってることを、言葉を使って整理するってのは大事なことなんだろうね。
2001年2月17日 土曜日
今日は読書せず、です。明日もできないかもしれません。明日、更新してなかったら、「あ、読まなかったな」と思っていてください^^;
2001年2月19日 月曜日 モンゴメリ「アンの青春」新潮文庫 pp.193-245
 今日からまた復帰。昨日は更新できなくてすいませんです。
 p.228アンの言葉。「けっきょく、一番、幸福な日というのは、すばらしいことや、驚くようなこと、胸の湧きたつようなできごとがおこる日ではなくて、真珠が一つずつ、そっと糸からすべりおちるように、単純な、小さな喜びを次々にもってくる一日一日のことだと思うわ」。
 うーむ。こんなふうに考えたことなかったけど、確かにそうかもしれない。何か強烈に喜びを感じるようなことが起こったときって、すっごくうれしくて舞い上がっちゃうけど、そんなときの喜びってどこか「非日常」的な感じがするもん。それよりも、「日常」のなかで、その「日常」そのものを落ち着きながら味わえるほうが、ほんとの「幸せ」のような気がした。
2001年2月20日 火曜日 モンゴメリ「アンの青春」新潮文庫 pp.246-337
 今日はいつになく、本を楽しめた。なぜだろう? 本の内容自体がおもしろかったのか、それともしゃれにならないほど忙しくなってきて気持ちが引き締まってきたからか。ま、なんにせよ、読書を楽しめるってことは喜ばしいことです。
 p.290「11月には感謝しなければならないと努めてするけど、5月ならほかのことはともかく、生きていられるということだけでも感謝せずにはいられないんですもの」。
 昨日、今日と春の足音が聞こえてくるような穏やかな気候で、気分的になんかうきうきしてたところだけに、このアンの言葉には、深くうなずけた。グッドタイミング。でも僕は秋の微妙な感じがする11月も好きなんですけどね。なんせ、11月生まれだし。
2001年2月21日 水曜日 モンゴメリ「アンの青春」新潮文庫 pp.338-380
                モンゴメリ「アンの愛情」新潮文庫 pp.1-36
 「アンの青春」読了。で、アンシリーズ3冊目、「アンの愛情」に突入。ここにきてさらに話に乗ってきたような気がする。これなら、シリーズ全10冊を読破できそうですね。
 「アンの青春」p.377「けっきょくロマンスはすばらしい騎士がラッパのひびきも華やかに、自分の生涯にあらわれてくるというようなものではなく、いつのまにか、昔ながらの友達が自分の傍を静かに歩いていた、というふうに、忍び寄るものかもしれなかった。〜〜、たぶん……たぶん……愛とは、黄金の芯のばらが緑の葉鞘からすべり出るように、美しい友情から自然に花開くものかもしれなかった」。
 僕もこの見解に賛成。ほんとの愛ってこういうものだと、僕は思う。
2001年2月22日 木曜日 モンゴメリ「アンの愛情」新潮文庫 pp.37-100
 今日も順調に。…そのわりにはいつもよりページ数少ないやん、って思われるかもしれませんが、やむにやまれぬ事情により電車のなかで読書にとれる時間が少なくなってしまったので。しばらくはこれぐらいのペースが続くと思います。
 チャーリー・スローンっていういわゆる道化役でうっとしがられてる奴がずっと登場してるんだけど、こいつのなかに自分と重なる部分を見いだしてしまうんだよね、僕は。なんか複雑な心境……。ま、いっか。
2001年2月23日 金曜日 モンゴメリ「アンの愛情」新潮文庫 pp.101-171
 今日も話としてはいろんなこと起こって楽しんで読み進めたんだけど、特にここを抜き出そうという箇所はなかったです。いつもは読み進めながら、「あっ、ここ抜き出そう」と思う箇所があったんだけど・・・。今日はチェックした箇所なかったのです。
 なので、簡単ですが、ここまで。
2001年2月24日 土曜日
今日は読書せず。なんですが、昨日の更新終了後、「あ、あれを書いとけばよかった」ってことを思い出したので(昨日も特に何も書かなかったけど)、そのことについて簡単に。
 昨日読んだとこで、アンが小説を書いて出版社に投稿するシーンがあるんだけど、個人的にはけっこう興味あったシーン。完成した作品をダイアナやハリソンさんに読んでもらうと、アンには「理不尽な」と思われるような指摘をされちゃうんだよね。結局、自分の意思を貫いて、不採用になっちゃう。これって、よくあることなんだよね。自分で作り上げたものだから、隅から隅まで全部に愛着あって、どれ一つ自分では動かしたくないって気持ちはよくわかる。でも、それでいいか、っていうと、そうじゃない(自分ではいいんだけどね)。
 何を言ってるのかよくわかんなくなってきたけど、ごく個人的に感じたことを書いてみました。
2001年2月25日 日曜日
今日も読書せず。明日もできないかも・・・。
2001年2月26日 月曜日 <番外編>
田中克彦「国語の形成」『知の社会学/言語の社会学』(岩波講座 現代社会学 第5巻)
 今日も読書せず。…なんですが、3日続けてまともに更新しないのもどうかと思うので、小説じゃないけど、今日読んでた本について、番外編ということで。
 p.149「そうした帝国では、ラテン語、あるいは漢文のような古典語が唯一の書きことばとして絶対的権威をもって君臨しており、他の言語はことばではなかった。ところがラテン語も漢文も、厳密に言えば誰の言語でもなかった。それは特定のエリートだけが、特別の教育によって、やっと身につけることのできる超言語であって、いかなる民族とも結びつかないものであった。このように、書きことばの使用が、帝国の極めて限定された少数エリートの特殊技能にとどまっているうちは、帝国には厳密な意味での民族は存在せず、したがって民族問題も生じる余地はなかった。民族問題は、ふつうの人間が、自らの言語を書きことばとして所有したときに始まるのである」。
 ここ読んだとき、思わず「ほぉ」と感嘆してしまった。最近、ユーゴとかで民族紛争が過激になってますが、いわゆる「民族問題」が生じるようになったのって、近代になってからのことでそれ以前はそれほど問題になってなかったんですよ。これって民族問題とか近代とは何かを考えるときに必ずぶちあたる問題で、いろいろな説明がこれまでにもなされてるんだけど、これほストレートに「言語」という観点から説明したのを見たのははじめて。ちなみに、この本は「国語とは?」について書いたもので、「民族問題は?」について書いたものではないんだけど、言語学者の意地と誇りを感じて、「やるなぁ」と感心しちゃった。
2001年2月27日 火曜日 モンゴメリ「アンの愛情」新潮文庫 pp.172-255
 「アンの愛情」再開。うん、良い感じの精神状態で、読むのを思う存分楽しめた。やっぱ忙しくなればなるほど、何をするにしても充実感が出てくる。これはこれでいいこっちゃ。
 p.245「言葉というものがあたしたちの思いをかくすために与えられたのだということをいったん知ると、あたしたちは前の半分も面白味がなくなってしまうんです」。
 うーん、名言やな>アン。ただ、この文章に至るまでの流れがややつかみにくいから、アンの言おうとしたことと、僕の理解が一致してる自信はあまりないけど。言葉って本来「思いを表すために」あるはずなんだけど、アンの言うように言葉にすることによって「思いがかくされてしまう」ってことはあるんだよね。自分の言いたいことをうまく表現できないってことは誰しも一度は経験したことがあるはず。そんなときって、言葉にすることによって、自分の思いが自分の思っているのとは違う形になってしまいますよね?
 これも言葉の怖さなんだけど、もっと怖いのは、「言葉にすることによって、言ってる本人が自分の本当に言いたかったことを誤解してしまうこと」。人間って誰しも、ほんとは今存在してるような言葉では表現しきれないようなことを(本人が意識してるかどうかはともかく)いろいろと考えてるんだと僕は思ってます。でも、ほんとは表現しきれないようなことを、一度言葉にしてしまうことによって、「自分の考えてるのはこういうことだったんだ」って、自分で思いこんでしまうことってけっこう多いと思うんですよ。これが言葉の一番怖いところかな、と僕では思っています。
でも、自分の考えを言葉に代えて整理することって、自分のほんとの考えを把握するために必要な作業でもあるんだよね。この辺のバランスの取り方をどうするかってのがしんどいところ。
 今日はこんなところ。個人的には、偏屈猫のラスティ登場のエピソードもおもしろかったな。
2001年2月28日 水曜日 モンゴメリ「アンの愛情」新潮文庫 pp.256-305
 今日は特に抜き出す箇所は見あたらなかったな。これまで物語の筋を楽しむというよりも、アンの話しぶりとか、物語自体の一場面一場面を楽しみながら読んできたけど、そろそろ話の筋も楽しむ感じに変わってきたかも。アンとギルバートの動きとかなかなか楽しみ。


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