2001年1月の読書日記

01〜12日 ユゴー「レミゼラブル(三)(四)(五)」*
12〜15日 遠藤周作「協奏曲」
15〜16日 遠藤周作「王国への道」*
17〜25日 遠藤周作「ただいま浪人」
   23日 福田和也「『作家の値うち』の使い方」*
25〜28日 エンデ「はてしない物語」*
25〜30日 遠藤周作「わが恋う人は(上)(下)」
29〜31日 エンデ「モモ」*
   31日 遠藤周作「妖女のごとく」

(*印は、もう一度読み直したい本)

2001年1月1日 月曜日
今年もどんどん本を読んでいくつもりなので、
こんな読書日記を見に来ていただいている奇特な皆様方、今年もよろしくお願いします。

月が変わったので、12月分の読書日記はいつもどおり「過去の読書日記」コーナーににまとめました。
2001年1月2日 火曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(三)」新潮文庫 pp.200-212
 今日は少しだけ。第七章「パトロン・ミネット」。
 パトロン・ミネットという悪党組織についてだけど、おもしろかったのは2つ。
 1.p.205「人類は平等である。すべての人間は同じ粘土からつくられている。少なくともこの世では、神の摂理にどんな差別もない。(中略)。だが、人間の練り粉に無知がまじると黒くなる。この不治の黒さが人間の内部に達すると、そこで『悪』となる」。悪をもたらすのは無知か。「無知」をどのようにイメージするかによると思うけど、一理あるかも。
 2.p.212「これらの怨霊ども(*悪党のこと)を消滅させるには、何が必要か? 光である。あふれるばかりの光である。コウモリは夜明けに抵抗することはできない。社会の下層を照らすべきである」。これも「光」が何を意味するかにもよると思うけど、ユゴーの根底にある思想ってこれなんだろうな、と思ったので、抜き出してみました。
2001年1月3日 水曜日
 今日は読書せず。明日からまた電車に乗って職場まで行くので、明日からはいつもどおりのペースで読書するつもりです。……初詣客で車内が混雑していなければ。
2001年1月4日 木曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(三)」新潮文庫 pp.213-346
                   「レ・ミゼラブル(四)」新潮文庫 pp.1-51
 今日は、三巻の八章「腹黒い貧乏人」と、四巻の一章「歴史の数ページ」。
 三巻八章の分量はこれまでと比べて長い。でも、おもしろすぎるほどおもしろいから、一気に読めてしまった。内容は、テナルディエの策略と罠にはまったヴァルジャンの脱出劇。息をも付かせぬ展開で、はらはらどきどきおもしろすぎる。効果的に、マリユスとジャヴェールも絡めているし。このシーンは、ミュージカルではかなりあっさりした状況に省略されてるけど、歌で効果的にはらはらどきどきさせるシーン。文章でも歌でも、使う手法は違っても、はらはらどきどき感を味あわせるという効果は同じなんだな、となかなか興味深かった。
 で、四巻突入。この巻の副題は「プリュメ通りの牧歌とサン・ドニ通りの叙事詩」。…長いタイトルだ。でも、これまで副題は、一巻「ファンチーヌ」、二巻「コゼット」、三巻「マリユス」と人の名前だったから、あれってかんじ。ちなみに五巻は「ジャン・ヴァルジャン」とまた人がタイトルになってます。この四巻は、一人の人名で語れないほど、様々な人々が絡み合って展開していくってことかな?
 さて、巻の最初はおきまりの寄り道。第一章は、七月革命を中心にした歴史分析。これは個人的に興味ある内容だから、慎重に読んでいる最中です。読むのはそれなりにつらいけど、いろいろなことがかなり納得できる内容で書かれているから、読む価値はあると思う。知の宝庫ってかんじかな。
 ここ読んでて思ったけど、ユゴーの視点で好きなのは、わりとバランスとれた考え方を持ってるところ。例えば、王政復古を批判した後で、「それは崩壊するのが当然であった。しかしながら、断っておくが、王政復古も、あらゆる進歩の形成にたいして、絶対的に敵対したわけではなかった。それが間接的な力になって、幾つもの大事業がなしとげられたのであった」と、批判だけで終わるんじゃなくて、歴史上の意味も見いだしているところなんか良いかんじ。基本的に、この人の歴史分析は信頼して良いなと思った。それだけに、また思想上のネタに困ったときに、読み返したい部分。そのときには、きっと何か新たな視点が見いだせるような気がする。
2001年1月5日 金曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(四)」新潮文庫 pp.52-189
 今日は第一章「歴史の数ページ」の残りと、第二章「エポニーヌ」、第三章「プリュメ通りの家」、第四章「下からの救いは上からの救いになりうる」、第五章「結末が初めと違っていること」、第六章「プチ・ガヴローシュ」一部。
 p.65「ある程度の夢想は、適量の麻酔剤と同じで、有効である。それは活動する知性の、ときにはつらい熱を鎮め、柔らかで、すがすがしい潤いを精神に与え、純粋な思考のするどすぎる輪郭をぼかし、そここの空白や間隙をみたし、全体を結びつけて、観念の角を和らげる。しかし過度の夢想は人を沈め、溺れさせる。思考から夢想へ引きずりこまれてしまう精神労働者は不幸である!」。この表現はうまいよ。そうなんだよな〜。
 この巻に入ってから、ガヴローシュ少年の登場回数が増えてきた。この少年は、親に捨てられ、家もない浮浪児だけど、義侠心にあふれている。おそらく、この小説の登場人物のなかで最も魅力的な人物。この少年の両親は実は悪党のテナルディエ夫婦。悪党夫婦の子どもを最も魅力的に描いているところに、ユゴーの信念を感じるな。
2001年1月6日 土曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(四)」新潮文庫 pp.190-328
 今日は第六章の続きと、第七章「隠語」、第八章「喜びと悲しみ」、第九章「彼らはどこへ行く?」です。
 第七章は例によって寄り道だけど、この寄り道はつらかった……。
 マリユスとコゼットはすっかりあつあつ状態。そのかげで、エポニーヌのいじらしさにはやはり胸打たれる。彼女もテナルディエの娘。テナルディエの子どもはいいやつばっかだな……。
 マリユスと彼の祖父の断絶も、なんか物悲しい。両者ともに悪くないのに断絶しちゃう、っていうどうしようもないことが起きちゃうのはしかたないのかな。
 そして、役者は一人ずつバリケードに吸い込まれていく。
2001年1月7日 日曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(四)」新潮文庫 pp.329-500
 今日は、第10章「1832年6月5日」、第11章「原子が大風に協力する」、第12章「コラント」、第13章「マリユス闇に入る」、第14章「絶望の偉大さ」、第15章「ロマルメ通り」で、第四巻読了。
 今日は、ガヴローシュの大活躍も痛快だったけど、なんといっても、マリユスをかばって、エポニーヌが死ぬ場面でしょ。
 p.466「『わたしが死んだら、額に接吻するって約束して−わたしにはそれがわかるわ』 彼女は、マリユスの膝の上に頭を落として、瞼を閉じた。彼はこの哀れな魂は、去ったと思った。エポニーヌは動かなかったが、マリユスが、彼女は永遠の眠りについたと思ったそのとき、突然、彼女はゆっくりと、死の深い影のさした目をひらいて、すでにあの世からのものと思えるような静かな口調で言った。『それから、ねえ、マリユスさん、わたし、あなたをいくらか恋してたんだわ』 彼女はまたほほえもうとして、こときれた」
 …………。美しい、美しすぎる描写。
2001年1月8日 月曜日
今日は読書せず。明日からは、ついに「レ・ミゼラブル」最終巻、第五巻に突入予定。
2001年1月9日 火曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(五)」新潮文庫 pp.1-53
 今日は第一章「壁に囲まれた戦争」。いよいよ佳境に入ってきたバリケード攻防戦。
 今回、レ・ミゼラブルを読み返すにあたって、いちばん問題意識を持ってたのは、「なぜ彼らは死なねばならなかったのか? 彼らの死の意味は?」ということ。この問題意識を持つようになったのは、ミュージカル版レ・ミゼラブルを見て以来。なんとなく、わかるような気がするけど、はっきり「これだ!」っていう答えは持てていないんだよね、今まで。彼らの死は決して無駄なものじゃなくて、なんらかの崇高な役割を果たしたことは間違いないと確信できるんだけど、その「役割」ってなんなんだろう? わかるような、わからないような……。はっきりさせようとしても無理なことで、はっきりさせようとする必要もないことかもしれないけれど、答えを探していきたい気持ちは絶えず持ってるんだよね。だから、今回この本を読み返しながら、ユゴーは彼らの死の意味をどう語っているんだろうって考えちゃう。もちろん、これまで読んできたなかでも、いろいろな理由は述べられてるけど、まだ「これだ!」と感じられる理由には出会えていません。果たして、これから読み進めていくと出会えるのか、どうか……。
 ということでまた明日。
2001年1月10日 水曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(五)」新潮文庫 pp.54-138
 今日は、第一章の続きと、第二章「巨獣のはらわた」。
 バリケードついに陥落。彼らの死の意味について、ユゴーは、p.102「何はともあれ、倒れるにせよ、いや倒れればこそ、世界のどこよりもフランスを見つめ、理想の不屈の理論から、大事業のために戦うこれらの人たちは、尊いのである。彼らは進歩のために、純粋の贈物として生命をささげ、神の意志を果たし、宗教的な行為を行う」と言ってる。うーん、これはわかるし、自分自身でもこういう考え方を持ってるんだけど、でも、それだけじゃないような気がするんだよな。なにが足りないのか? その答えはまだでない。
 あとおもしろかったのは、p.107「それは、社会的断罪を受けた一人の男を軸とするドラマの、進行中でもあり、幕間でもある、宿命的な段階である。そのドラマの真の題名は『進歩』である」とユゴー自身がレ・ミゼラブルという小説を語っているところ。たしかに、この小説のテーマは「進歩」なんだよな、ってのはここまで読んできたなかでもたびたび感じた。これについて考えるのは、全部読み終わった後の方がよさそう。
 第二章は、例によって寄り道。パリの下水道について、延々と続く。
2001年1月11日 木曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(五)」新潮文庫 pp.138-345
 今日は、第二章の続きと、第三章「泥で、しかも魂」、第四章「脱線したジャヴェール」、第五章「孫と祖父」、第六章「眠れない夜」、第七章「苦杯の最後の一口」、第八章「黄昏の薄れる光」。
 今日はけっこう進んだから、見せ場はいっぱいあったけど、やっぱり一番大きかったのは、ジャヴェールの自殺かな。ヴァルジャンの存在によって、善と悪を単純に分けて考えることができなくなったジャベールは、その悩みに耐えきれず死をえらぶわけだけど、そこまでしなくても〜と思うものの……。それじゃ、善悪の混沌とした曖昧な状態でいいかというとそうではないような。ただ何も考えずに曖昧に生きているより、ジャヴェールのように、つきつめて考えることのできる人の方が立派だと思う。だからといって、現実は決して善悪を区別して生きていけるほど単純でもなくて、混沌とした状態を受け入れなきゃ、というより受け入れて初めて人生の意味がわかるもんなんだろう。だから、ジャーヴェールは世の中が単純に割り切れるもんじゃないって気づいたときに、一歩階段を上がって、覚醒してるんだよな。大事なのは、覚醒した上で、その現実を受け入れつつも、なおかつ戦いを止めず葛藤を続けることを継続できるかどうか、ということかな。苦悶のない、悩みのない生き方は、本当の生き方じゃない、ってことを改めて感じさせてくれる一場面。
 この点に関しては、この物語すべてを通してヴァルジャンが身をもって示してくれてるんだけどね。ヴァルジャンは、こっちが「そこまでしなくても」とあきれるくらい、自分の内面・良心との戦いを止めないからな。この巻の七章もそうだったけど。
 で、マリユスとコゼットは結婚して幸せ状態を満喫中。その幸せのなかでマリユスが、バリケードの戦いとそこで死んでいった友人たちのことを「みんな夢なのだろうか? 実在したのだろうか?」と思うほど現実感を持っていないことは、「自分だけ幸せなら、それでいいんかい。ひどいな」と思う反面、人間ってたぶんこうなんだろうな、自分だってマリユスと同じ状況に置かれたら、そう思うんだろうなとも思う。マリユスは誠実さと清潔感をもった十分すぎるほど立派な人間なんだけど、この物語の登場人物のなかでは、一番人間らしい人間のように思う。たぶん、マリユスという人間は、この世に生きている普通の人間の象徴なんだろうな。そのマリユスが、バリケードで倒れていった人々のことを「忘れかけている」ってのは、なにかを語っているような気がする。
 この長い物語も、明日には読み終わってしまいそう。
2001年1月12日 金曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(五)」新潮文庫 pp.346-421
                遠藤周作「協奏曲」講談社文庫 pp.1-47
 レ・ミゼラブル読了。
 ジャン・ヴァルジャンの最期はかなり感動的なシーン。
 p.403「物事が好きなようにならないからといって、神さまにたいして不当であっていい理由にはならない」
 p.404「死ぬことはなんでもない、生きていないことが恐ろしい」
 これらの言葉は、こうして抜き出すとよく言われるような言葉にも思えるかもしれませんが、ジャン・ヴァルジャンほど物事が好きにならない人生をおくってきた人間がこのようなことを言う、ということ自体が、彼の苦闘を共に感じてきた読者の胸に強く迫るのだと思います。ジャン・ヴァルジャンの生涯、最高にすてきです。
 ……と、この本についてはまだまだ言いたいことがあるので、今週の日曜日くらいに改めて「レ・ミゼラブル」の紹介文をアップしようと思っています。

 レ・ミゼラブル読了ということで、これからはまたしばらく遠藤周作に戻ります。
 ということで今日から、「協奏曲」。読み返した回数はすくない本なので、あまり内容憶えていません。今日、読んだところでは、遠藤周作にしては気取ったかんじの小説だなって思いました。それほど長い小説ではないのですぐ読み終わるでしょう。
2001年1月13日 土曜日 遠藤周作「協奏曲」講談社文庫 pp.48-131
 この本は、今日中に読み終えるつもりだったけど……。少し(かなり?)くやしいことがあって、帰りの電車のなかでずーっと考え込んでて読書できなかったので、あまり進みませんでした。
 中年男女と青年男女のシーンが交互に入れ替わりながら話が展開して、その雰囲気の違いを楽しむことはできます。青年男女は遠藤さんのユーモアがきいたおきまりの雰囲気。中年男女は昨日書いたように、かなり気取った雰囲気は漂っています。
 とりあえず、このぐらいで。
2001年1月14日 日曜日
 今日は読書せず。明日からは「協奏曲」の続き。そのあとは、同じく遠藤周作の「王国への道」を読もうかと思っています。
 読書できる精神状態に戻ってればいいけど。
2001年1月15日 月曜日 遠藤周作「協奏曲」講談社文庫 pp.132-250
                      「王国への道」新潮文庫 pp.1-75
 「協奏曲」読了。
 この本のテーマは、世代間の考え方・生き方のちがいだな。遠藤さんがよく書いたテーマだと思うけど、それを恋愛を通して直視してる。きっちりまとめたな〜という感じの読後感。遠藤さんの小説にしては、特に何も言うところもない出来だと思う。悪くない小説だけど。

 ついで、「王国への道」にとりかかる。実は「協奏曲」を読んでるとき、読みたくなったのは「ただいま浪人」なんだけど、鞄に入っていたのは「王国への道」だったので、しかたなくこれを読み始める。
 でも、読み始めると、やっぱおもしろい。この本はわりあい好きな本なので、これまで読み返した回数も多いです。遠藤さんもだいぶ力をいれて書いたような気もするし。でも、戦国時代末期の切支丹迫害時代という設定だけで、力の入ったもののような気がしてくるのは不思議なところ。
 主人公はタイに渡った山田長政。歴史の教科書のはしっこに出てくる名前ですよね?彼の現世の出世欲はどういった結末を迎えるのか、というのがテーマですね。これだけで、結末はだいたいわかるけど、そこに至る道のりの描き方はさすがに遠藤周作。読ませ、考えさせる見せ場は、きっと多いことでしょう。
 明日、一気に読んじゃうぞ。…たぶん。
2001年1月16日 火曜日 遠藤周作「王国への道」新潮文庫 pp.76-357
 「王国への道」いっきに読了。
 山田長政の奇策と成り上がりはおもしろかったな。秀吉の成り上がりと同じ感じの痛快さがある。この本のテーマは何度も作中で繰り返されてるけど、富とか権力とかいった現世の利益だけを追い求めるむなしさ。
 でも、この本の最後で遠藤さんが「今の我々さえ驚嘆するような冒険と行動に生きた山田長政とペドロ岐部は私が長い間、関心を持っていた人物だった」と書いてあるのを読んだとき、「あ、そうか!遠藤さんは何よりもこの山田長政という人物の『冒険と行動』を書いてみたかったんだな」と気づいた。そして、たぶんこの波瀾万丈の人生をおくった山田長政の人生を描くときの視点を、「現世欲のむなしさ」に絞ったんでしょう。それでもって、ペドロ岐部という同時代の「現世欲を捨てて生きた」人物をスパイスとして加えることで、「現世欲のむなしさ」をよりいっそう際立たせている。
 山田長政という人物を題材として書くときに、現世欲のむなしさというテーマを選んだ遠藤さんはさすがだな、と思った。やっぱ、うまいよな。これによって、冒険と成り上がりの痛快さだけじゃなくて、人生の真の意味を感じさせることに成功してるもん。
 現実的な欲だけを追求して生きることのむなしさを描いた本は、今の僕にとってタイムリーだったかも。現実的に報いられなくても、僕は僕のすべきことをするのみ。現実的な結果を求めることが目的じゃないもんな。……という読み方をしてしまうな、どうしても。
 明日からはもっと露骨にタイムリーな「ただいま浪人」を読むつもり。分厚いんだこの本。←776ページって辞書じゃないんだから……。上巻・下巻に分けてくれよな。持ち歩くのは大変だし、愛用のブックカバーに収まるかな……。
2001年1月17日 水曜日 遠藤周作「ただいま浪人」講談社文庫 pp.1-105
 今日からしばらく「ただいま浪人」です。なんて、今の気分にぴったりのタイトルなんでしょ。
 今日読んだ部分はまだ導入部分でなんとも言えませんね。以前読んだ記憶のなかで思ってたよりも、こみ入った設定だな、って思いました。まだ話の中に入れてません。入ったら一気にいきそうだけど。
2001年1月18日 木曜日 遠藤周作「ただいま浪人」講談社文庫 pp.106-157
 今日はあまり進んでませんね。といっても、この本がつまらないというわけじゃなくて、今日は愛読誌「月刊アスキー」の発売日だったから(笑)。どうしても、雑誌の方を優先してしまう傾向がありますね。
 p.142「どんなに自己弁解を繰り返したところで自分が臆病でエゴイスチックな男にすぎないような嫌悪感に捉えられる。口ではうまいこと言えても結局は小心で自分の保身しか頭にない現代青年の一人のように思える」。
 こんなふうに思うこと、自分でもよくあるな……。それに、みんな多かれ少なかれそうですよね?
2001年1月19日 金曜日 遠藤周作「ただいま浪人」講談社文庫 pp.158-222
 そろそろ、話がおもしろくなってきた。ようやく話に入れたような感触。
 p.221「黄昏の砂浜は歩きづらいが、振り返ると波うちぎわに自分の足跡が…自分だけの足跡が…一つ一つ残っている。アスファルトの道は歩きやすいが、そこには足跡など残りはしない」。
 生き方のたとえとして出てくる文章です。主人公は、アスファルトを歩くような人生はイヤだといってます。確かにそりゃそうだろうけど、主人公ほど若くない僕は、他人から見たらアスファルトの道を歩いているように見える人生でも、自分だけの足跡を残さない人生なんてないってことは知っているつもりです。平凡に見える人を「平凡だ」と決めつけれるのが若さの強みでもあるんでしょうけど。
 なんて言いつつ、この文章を読んだ直後、電車が下車駅についた時、いつもと違う行動をとってしまった。人混みの大っきらいな僕はいつも、多少遠回りになっても人のいないところを歩くんだけど、なんか今日は人混みのなかを前を歩く人と同じスピードで歩きたくなってしまった。なんか列からはみ出すのがおっくうに感じちゃったんだよね。ま、たまにはこういうこともありかな…。
2001年1月20日 土曜日
 今日は家でごろごろしてたので、読書せず(笑)。たまには、頭のなか、からっぽにしないとね。
 本を読む代わりに、このページのメインコーナー(のはず?)の遠藤周作・三浦綾子の紹介文、多少手直ししました。「である」調と「ですます」調がまざってたのをできる範囲内で統一しました。あと、改行位置を多少変えたり、誤字をチェックしたりしました。基本的な内容はほとんど変わっていません。
 あんな字ばっかのページでも、読んでくれてる人いるみたいだし(ごく少数のようだけど)、書きっぱなしのまま、推敲一度もしてないのは気になっていたので。これからもよろしくお願いします。
2001年1月21日 日曜日
 今日も読書せず。2日続けて本を読まなかったのは、久しぶりのような……。良い気分転換になったんじゃないかな。ということで、明日から「ただいま浪人」再開。一気に行きますよぉ。
2001年1月22日 月曜日 遠藤周作「ただいま浪人」講談社文庫 pp.223-442
 今日は久しぶりにページ数は進みましたね。この本になってから、3日間で222ページしか読んでなかったから、今日1日で3日分ということで。これは単純な理由で、今日は電車の行き帰りフルに読書に当てられたから。ここんとこ、電車の中で小説以外に読まなきゃいけないもの(読まされるもの?)があったので、それがなくなったらこれぐらい進んで当然なんだい。これからはこの調子で読書続けていくぞい。……とはいっても、電車の中でやらなきゃいけないことは、これからもたくさんあるんだよね。……トルコ語の単語覚えたり(笑)。
 …と、今日はページ数は進んだのは確かだけど、読書に没頭するという状態でもなかった。幾度も本から頭を上げて、車外を見ながらいろんなこと考えちゃった。本の内容について沈思黙考したというよりも、本のなかで語られてることからいろんな思い出が引き出されたという感じ。つらかったことや、思い出したくなくて普段考えないでいることとか……。こういうふうに、自分を振り返る機会を与えてくれるってのも読書の魅力だね。もちろん、本自体の中に没頭できるってのも読書の魅力だけど(←僕は、どっちかというと後者の魅力の方が好きだけどね)。この本はどうやら前者の魅力をもった本みたい。
 ということでまた明日。←おい、本の内容は!
2001年1月23日 火曜日 遠藤周作「ただいま浪人」講談社文庫 pp.443-520
                福田和也「『作家の値うち』の使い方」飛鳥新社 pp.1-267
 今日は「ただいま浪人」を一時中断して、昨夜から読み始めた「作家の値うちの使い方」を一気に読んでしまった。「ただいま浪人」がおもしろくないわけじゃないですよ(無茶苦茶おもしろいというわけでもないけど…)。「作家の値うちの使い方」が読め読め光線を発していただけです。念のため。
 ということで、今日は「作家の値うちの使い方」について。この本は「作家の値うち」に関係した講演とか対談を集めたもの。だから、内容面ではけっこう重複してる。でも、おもしろかった。いろいろおもしろかったけど、個人的におもしろかったのは、福田和也という評論家が作家に求めているもの。
 p.115「わかる人にだけわかればいい、と云う人もいるけれど、それはやはり怠慢でしかない」。
 p.116「作品の質や構成はいろいろあったけど、『沈黙』や『楡家の人びと』『海辺の光景』など、普通の人が読んで『いい』と思える作品がありました。書き手の側にも一般に通用し、かつ第一級の文学を書こうという気がまえがあった。それが『内向きの世代』以降になると、普通の人が読んでもわけがわからないものばかり」。
 そうなんですよね。文章を書く者の務めは、わかる人にだけわかるものではなくて、レベルが高くてなおかつ普通の人にもわかるものを書こうとすること、ですよね? レベルが高いことを考える能力のある人は、それを普通の人がわかるように伝えてはじめて、その人の義務・使命が果たされることになるんだと思う。これは自分の信念でもありますが、それを再確認できてよかった。
 これとは別に、あちこちで「作家には緊張感が必要だ」と言われてるのは「なるほどな」と印象的だった。近年の作家は、デビュー作ですばらしい輝きを放っていても、時がたつにつれて、その輝きが増すどころかなくなってしまう人が多いそうです(僕は現役作家の作品をそのデビュー作から追い続けた経験がないので実感はないんですが)。確かに、「作家の値うち」で高橋源一郎は『さよなら、ギャングたち』で91点という高得点を獲得していながら、あとは尻すぼみで、『ゴーストバスターズ冒険小説』に至っては21点だもんな…。p.71「彼らにあるのは、澱んだ自己撞着と自己模倣だけではないか」。
 うーむ。言われてみれば、これは確かにそうかもしれない。一度成功しちゃうと、その方法に執着しちゃうだろうな。そして、知らず知らずのうちに、安全性を求めてしまう。そして、本人は気づかないまま、どんどん落ちていく。これはよくありそう。自分もよっぽど注意しておかないと、こういう危険に陥ってしまうな、と用心しよっという気にさせてもらいました。遠藤周作なんかは、いくら世間で評価されようが、自分の求める神とは何かをはっきりさせるという目的があったから、自己満足に陥らなかったのかもしれないね。と考えると、やっぱ、神を中心に置くことは、自己を相対化するという意味で、とっても人間にとって役に立つことなのかもしれない…。
 ほかにもいろいろとおもしろかったことはあったけど、とりあえずこのへんで。明日からは再び「ただいま浪人」。
2001年1月24日 水曜日 遠藤周作「ただいま浪人」pp.521-690
 今日はまずまず進みましたか。でも今日中にこの本読み終えるつもりだったのに……。昨夜、眠りが浅かったため、眠気に負けて帰りの電車のなかは熟睡しちゃったからな……。
 というわけで、ここへきてはじめて話の内容に少し触れておきますか。この本の主人公は、浪人をして大学受験に失敗し自分らしい生き方を求めて(家出して)バーで働く信也と、その姉真理子、彼らとは直接関係のないアメリカ人ロバート、の3人。この3人のなかで一番ひかれるのは、ロバートの生き方。彼の存在によってこの小説が締まっている。あとの2人の生き方は、残念ながら、僕にはあまり魅力的じゃないです。
 ロバートは、進駐軍として日本にいるとき日本人の女性との間に、娘ができるのですが、彼は娘を捨ててアメリカに帰国します。その彼が20年以上経った後、日本に娘を捜しにくる、という筋です。このロバートの物悲しさの描き方は遠藤さんならでは。さすがです。
 今日はこんなところで。
2001年1月25日 木曜日 遠藤周作「ただいま浪人」講談社文庫 pp.691-776
                ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店 pp.1-44
                遠藤周作「わが恋う人は(上)」講談社文庫 pp.1-51
 今日はいっぱいありますよ〜(笑)。
 まず「ただいま浪人」読了。今日読んだ最後の部分は、よかった。正直、昨日までの部分は遠藤さんの小説にしては、間延びした感じがしてたけど、最後で一気にまとめきってる。だから、読後感はすごくよかったです。
 この本のテーマは、「生きること」と「生活すること」。「生きる」とは、自分らしく充実した日々を送ることで、「生活する」とは、自分を押し殺しても他人を気遣って、日々を送っていくこと。できるなら、誰でも「生きること」を願うに決まってるけど、それはそう簡単な問題じゃない。だって、自分らしく生きるためには、時と場合によって他人を悲しませたり傷つけたりすることがあるから。これが、この本のもう一つのテーマにつながる。p.763「お前の行為はお前だけにはね返ってくるのではない。お前がその弱さで行っただんな行為でも、相手にその人生をゆがめるだけの痕跡を与える時があるのだ」。
 こんな感じで「生きること」と「生活すること」の違いと、その難しさを語っているのがこの本です。三億円事件をモデルにした(?)事件に主人公・信也が加わるというのも、興味深く感じる人もいるかもしれませんね。僕は、ロバートの人生が一番好きだけど。全体として、遠藤さんの小説としては出来が良いとは思えないけど、読後感はかなり良かったです。以上。

 しばらくの間、「はてしない物語」と「わが恋う人は」を並行して読んでいきます。理由を説明するためには、僕の読書事情をお話しなければなりませんね。僕の読書時間は主に電車の中なんですが、片道1時間10分、毎日電車に乗ってるので、だいたい1日、2時間20分ぐらいですね。片道の電車の時間のうち、25分が普通列車、45分が特急列車です。それがどうしたかというと、25分の区間はわりと混み合っているので、さっと出してさっとしまえるコンパクトな文庫本でないとなかなか読むのは苦しいのですよ。だから、今日から始める、「はてしない物語」のようなハードカバーは、25分の区間では読めないということになります。そうすると、25分の区間では違う文庫本を読むという形になって、2冊並行ということになるわけです。以上、僕の読書事情でした。

 「わが恋う人」はミステリー仕立ての小説ですね。わりと設定は僕好みかも。けっこう楽しんで読んで行けそうです。まだ話が始まったばかりなので、簡単ですが以上。明日に続く。

 さて、「はてしない物語」ですが、今僕の手元には、ハードカバー版と岩波少年文庫版の2つがあります。どうしてこうなったかというとですね…。最初、買ったのは岩波少年文庫版でした。が、「はてしない物語」が好きだという友達に「買ったよ〜」と言うと、「装丁がいいやろ?」「は?」となったわけです。どうやらハードカバー版の装丁は秀逸なものらしい。「それを早く言え!」。でも、買ってしまったものはしかたないじゃない? でも、どんな装丁なのか自分の眼で確かめたくなって、本屋でハードカバー版を手に取ってしまったのが、運の尽き。僕も気に入ってしまった……。で、どうしても欲しくなって、悩みに悩んだ末、買っちゃった……。あーあ、なんてもったいないことを……。でも、買ってよかったと思ってます。
 以前、掲示板のほうで、でくのぼうさんに「はてしない物語」は遠藤周作月間が終わったら読むって言ったような気がしますが、まだ遠藤周作月間が終わってないけど、読み始めちゃいました。岩波少年文庫版は買いはしたものの、しばらくねかせておくつもりだったのですが、今日ハードカバー版を手に取った瞬間から、すぐに読みたくてしかたなくなっちゃいました。あらゆる状況が、「今すぐこの本を読め」って言ってるような気がしたんだもん。
 で、話のほうはまだあまり進んでないから、何も言えないのですが、この本を開いた瞬間、わくわく感が押し寄せてきました。本を開いた瞬間にこういう気持ちになったのは、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」以来かな? こりゃ期待大だ!久しぶりに本を読む楽しみを心ゆくまで味わえるような気がする。ゆっくり時間をかけて大切に読んでいきたいと思います。ちなみに、僕はこの本については恥ずかしながら何の予備知識もありません。良い本を薦めてくれた友人&でくのぼうさんに感謝。
2001年1月26日金曜日 ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店 pp.45-132
               遠藤周作「わが恋う人は(上)」講談社文庫 pp.52-156
 「はてしない物語」の、本を読む少年とその本の内容を交互に描き出すという設定は、うまいね。この設定だけで、一本とられたかんじ。でも、それだけで終わらずに両者の世界が徐々に交差していくみたい。もちろん、設定だけじゃなくて、ファンタジーの世界も十分に楽しめますね。なんせ、ここのとこ読んでたのは、だいたい人間の現実世界の話ばっかだったし。
 にしても、この本読むのは初めてのはずなんだけど、どっかで読んだことのあるような気がする。なんでだろ?小さい頃に読んだことあったのかな? ま、どっちでもいっか。本を楽しめればそれでいいんだからね。こちらはまた明日。

 「わが恋う人は」は、持ち主にたたる女雛をめぐる話。予知とか転生みたいな話が出てくるのは、興味深いね。やっぱ遠藤さんはこの本を書いた時期には、相当こういう話に興味持ってたんだろうな。で、「深い河」につながる、というわけか。「深い河」を再び読み返すためにも、こういう話について遠藤さんがどんな考えを持っていたのかって少しでも知りたいもんね。それに、今まで読んだ範囲内では、この本自体も完成度はかなり高いような気がします。
2001年1月27日 土曜日 ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店 pp.133-274
 今日は一日中家にいて、電車には乗っていないんですが(笑)、珍しく本を読みました。「はてしない物語」の続きが読みたかったから。今日一気に読み終えようかと思いましたが、良質の本を読むという楽しみを少しでも長く味わいたくなったので、明日に残しておくことにしました。
 今日は、バスチアンがファンタージエンに行くまで、つまり「ファンタージエン」と「バスチアン」の世界が一致するところまで。あまりにキリがいいところなので、中断するとしたらここしかなかったでしょう。
 やっぱ、ここまでのとこ、この本は設定がいいね。
 p.259「生じることすべてを、あなたは書き記すのですね」「わたしの書き記すことすべてが生じるのじゃ」
 本が好きで、本の世界にどっぷり熱中した経験のある人なら誰でも、本のなかで作り上げられている世界と自分の住んでいる現実世界の境界がだんだん曖昧になっていく、という経験はあるでしょう。その自分の中で起こっているはずの経験を、この本はうまく目に見える形で示している。まさしく「はてしない物語」。
 にしても、やっぱりハードカバー版を買ってよかったな。あかがね色の装丁のこの本でないと、感情移入半減だもの。
 急な用が入らない限り、明日一気に読み終えるつもりです。
2001年1月28日 日曜日 ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」岩波書店 pp.275-589
 「はてしない物語」たったいま読了。まず一言、「良い本だった」。
 で、何から書けばいいんだろう?…とりあえず、気に入った表現をそのまま抜き出してみます。

p.312「ぼくが望んだからそうなるんだろうか? それとも、何もかも始めからあって、ぼくはただそれをいいあてたってことなんだろうか?」

p.317「〜『汝の 欲する ことを なせ』というのは、ぼくがしたいことはなんでもしていいってことなんだろう、ね?」〜「ちがいます。」〜「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」「ぼくの真の意志だって? それはいったい何なんだ?」「それは、あなたさまがご存じないあなたさまご自身の深い秘密です。」「どうしたら、それがぼくにわかるだろう?」「いくつもの望みの道をたどってゆかれることです。一つ一つ、最後まで。それがあなたさまをご自分の真に欲すること、真の意志へと導いてくれるでしょう。」「それならそれほどむずかしいとも思えないけど。」「いや、これはあらゆる道の中で、一番危険な道なのです。」「どうしてだい? ぼくは怖れないぞ。」「怖れるとか怖れないとかではない。この道をゆくには、この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから。」

p.502「過去がなくなったものには、未来もない。」

p.530「覚えていることがなくては、もう望むこともできません。」

p.531「ぼうやはそれまで、自分とはちがう、別のものになりたいと思ってきましたが、自分を変えようとは思わなかったからです。」

p.540「ぼくはそれでもって、自分にもファンタージエンにも、わるいことばっかりしてしまったんです。」〜「いいえ、わたしはそう思わないわ。あなたは望みの道を歩いてきたの。この道は、けっしてまっすぐではないのよ。あなたもおおきなまわり道をしてけれど、それがあなたの道だったの。」〜「そこへ通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったのよ。」

p.542「自分も愛することができるようになりたい、という憧れだった。自分にはそれができなかったのだということに気がついたのだった。」

p.587「ほんとうの物語は、みんなそれぞれはてしない物語なんだ。」〜「ファンタージエンへの入口はいくらもあるんだよ、きみ。そういう魔法の本は、もっともっとある。それに気がつかない人が多いんだ。つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。」〜「それに、ファンタージエンにいってもどってくるのは、本でだけじゃなくて、もっとほかのことででもできるんだ。」

 長くなりましたが、こんなところです。誰もが「抽象的に」考えているようなことを、物語世界で「具体的に」示してしまったこの本は、すてきです。
 この本を好きだと言う人はみんなそうだろうけど、読み終わった後、とっても前向きな気分になれました。
 明日からは「モモ」を読んじゃおうかな……。
2001年1月29日 月曜日 遠藤周作「わが恋う人は(上)」講談社文庫 pp.157-239
                     「わが恋う人は(下)」講談社文庫 pp.1-100
                ミヒャエル・エンデ「モモ」岩波書店 pp.1-72
 今日から「はてしない物語」に代わって、「モモ」。「わが恋う人は」との併読状態は続く。

 「わが恋う人は」はだいぶ佳境に入ってきました。女雛が持ち主に祟りつづけるわけですが、女雛の持ち主が次々にあっさりと死んでいくのは、正直ちょっときついです。持ち主の1人ひとりは魅力的な人物として描かれていて、彼女らに感情移入できてきたときに、あっさり死んじゃうんだもん…。このタイミングの絶妙さを遠藤さんが狙ってやってるのかどうかわからないけど、狙ってるとすればけっこうひどいかも……。

 「はてしない物語」の感覚を追い求めたくて、今日から「モモ」。「はてしない物語」は最初何ページか読むと、話の流れ方に見当ついたけど、こちらの「モモ」は未だまったく見当つかないな。その分、楽しみ。
 読むのはやっぱ楽しい。最初の数ページ読んだ瞬間、心の奥底に眠っている「なつかしい気持ち」がすぅーと出てくるような気がした。実をいうと、今日は朝から何かしらイヤーな考えにとりつかれてて、少し鬱々としてたけど、この本で「なつかしい」感触に触れた瞬間、そんなものは吹き飛んじゃった。明日からも楽しみ。
 あ、そうそう。昨日、書き忘れたことを。「はてしない物語」はハードカバー版と岩波少年文庫版の2種類を買ってしまったわけですが、1人で2種類持っててももったいないので、岩波少年文庫版は不特定多数の小学生が出入りする場所に提供しました。これで、おさまるべきところにおさまったかな?
2001年1月30日 火曜日 遠藤周作「わが恋う人は(下)」講談社文庫 pp.101-229
                ミヒャエル・エンデ「モモ」岩波書店 pp.73-189
 「わが恋う人は」読了。この本のテーマは、「運命」と「転生」ですね。どちらのテーマにしても、興味深い話だしミステリー仕立てでうまく話を展開してるので、この本は読んでておもしろいです。でも、なんとなく、遠藤さんの考え自体がまだ固まっていなくて、試行錯誤してる段階かなというのが感想です。「深い河」に至る過程の遠藤さんの考えをすこし覗けた気がしました。短いですけど、この本についてはこんな感じかな。

 そして「モモ」ですが、「おもしろい!」。話に引き込まれるという点では、「はてしない物語」よりこっちの方が間違いなく上ですね。「どうなるんだろ?」と、どんどん読んでいきたくなります。…とこう書きながら、夜遅くまで時間をかけて一気に読んじゃおうかなという気持ちと格闘しています。夜遅いと明日に響くから、今日はここまでにしとくつもりですが。
 それに「時間貯蓄銀行」と「時間どろぼう」という発想には脱帽です。いつのころからか、時間を切りつめてあくせく働く現代人のことを、こんな形で象徴的に描くことができるとは……。「はてしない物語」もそうだけど、抽象的な概念を、具体的な形で描くという点に関しては、エンデは天才だな……。
 とりあえず今日はこれぐらいにしておきます。明日一気に読んじゃう予定なので、また明日くわしく。…でも明日忙しそうだから時間とれるかな……。時間どろぼうのせいだ!!!
2001年1月31日 水曜日 ミヒャエル・エンデ「モモ」岩波書店 pp.190-360
               遠藤周作「妖女のごとく」講談社文庫 pp.1-112
 「モモ」読了! 楽しいひとときをありがとう!
 この話は「はてしない物語」よりもテーマは明快で、「時間のある(=ゆとりのある)生活とは?」ですね。
 時間を惜しんであくせく働く現代人に対して、「そんなに働くのは何のため?」という問題提起を投げかけてます。時間を惜しんで働くのはなぜなんだろう? たくさんの仕事をするため? じゃ、なぜたくさんの仕事をしなければならないの? なんでだろ??? …改めて考えるとわからなくなってくる問いかけですね。
 たしかに、たくさんのことをすることは大事なことだと思いますが、それだけでいいのかって考えるとやっぱりそうじゃないような気もしてきます。エンデは「時間のある(=ゆとりのある生活)」=「人間の心のある生活」と考えてるみたいです。時間を惜しんで働くとどんな結果が待っているのか、というのはこの物語の中でイヤというほど語られています。たしかに、時間に追われる生活っていうのは、人間の心のある生活ではなさそうですね。
 でも、時間を惜しんではたらくのは(=たくさんの仕事をするのは)、そうすることによって未来・将来がきっと良くなると信じているからなんですよね。実際、作中で時間どろぼうたちの手に落ちた人々も、「今時間を惜しんで働いて、時間を節約しておけば、将来時間をたっぷり使えるようになる」と言われて、時間どろぼうの術中に落ちています。時間どろぼうは、人々が節約した時間をその人に返すつもりなんかなくて盗んだから、人々に明らかに悪い結果をもたらしました。でも、現実のこの世の中には、現在時間を惜しんで(節約して)働くと、将来楽になるということも起こり得ます。そうなると、話は少しややこしくなってきて、「今、時間を惜しんで働く」という行為が単純に悪いことだとは言い切れなくなりますね(…だからこそ面倒なんですが)。
 エンデが言いたかったのは、「将来のために時間を惜しんで働くというのは、本当に現在(今のこのとき)の生活を犠牲にするだけの理由になるのか」ってことだろうな。たしかに、「今、忙しいから」という理由で、「今、本当にしなければならないこと」を先送りにしてしまうことは自分でもよくあります。「今、忙しいから」を自分の逃げ場所にすることは避けなきゃ、と改めて思いました。
 …以上、頭で考えたことをうだうだ書いてきましたが、この本から心で感じたことは簡単です。「ゆとりのある生活を今よりもっと大切にしよう!」、これがすべてです。人は将来のために今を生きるんじゃなくて、今を生きるべきでしょ。何時死ぬかわからないのに、将来のために今を犠牲にするってバカげてますよ。今このとき世界が終わったとしても、「わが人生悔いなし。充実した人生だった」と思えるような生き方をすべきですよね>ALL。 …これがまた難しいんだろうけど。
 良い本でしたよ、この本。

 遠藤周作は「妖女のごとく」を読み始めました。この小説に登場する大河内女医って、たしか「真昼の悪魔」にも出てきました。名前だけじゃなくて、人格もまったく同じ。相変わらず、悪魔的行為で暴れまくっております……。これはすぐ読み終わるだろうし、また明日ですね。今日はなんといっても「モモ」!


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