2000年12月の読書日記

01〜02日 遠藤周作「一・二・三!」*
04〜07日 遠藤周作「男の一生(上)(下)」
11〜15日 遠藤周作「ファーストレディ(上)(下)」*
17〜31日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)(二)(三)」*

(*印は、もう一度読み直したい本)

2000年12月1日 金曜日 遠藤周作「一・二・三!」中公文庫 pp.79-117
 昨日から「一・二・三!」に入ってます。まだそれほど読んでないので、よくわからないけど、雰囲気としてはユーモアと物悲しさの漂う、遠藤流青春小説。この話は以前にも読んでるけど、僕にしては珍しく、最初何ページか読んだところで、話の結末部分だけはおぼろげに思い出した。そんなに繰り返し読んだわけではないはず(たしか2回?)なのに、よく思い出したな。
 というかんじで、この本を読んでいきます。
 12月に入ったので、11月分は過去の読書日記としてまとめました。上から順に読めるように順番は並べ替えてあります。
2000年12月2日 土曜日 遠藤周作「一・二・三!」中公文庫 pp.118-447
 「一・二・三!」読了。うん、おもしろかった。
 この本のほとんど全体を占めるのは、マレー半島にいると噂される旧日本軍の人探し。これがまたいろんなこと起こって楽しい。その意味では冒険小説。この部分だけでも十分楽しめるけど、それだけで終わらないのが遠藤さんの良いところ。日本に戻ってからの大どんでん返し(?)で、それまでのはらはらどきどきの冒険小説が一転して、物悲しさを帯びる。主人公たちの「どこかが間違っている。なにかが間違っている。この日本のなにかが、間違っている」「狂っているのは世間のほうじゃないか」という言葉がそのすべて。冒険部分とこの終盤部分の落差が激しいだけに、彼らの言葉が胸に迫る。このあたりの見せ方は、「うまいなぁ」とため息でるほど。
 この本の最後の一文、「順太郎は悲しかった。本当に悲しかった。『一・二・三、一・二・三』彼は泪を抑えるため、その言葉を強くつぶやきながら構内の人々の中に消えていった……。」を読んだとき、思わずじーんとしてしまった。
 うーん、おもしろかったな、この本。
2000年12月3日 日曜日
今日は読書せず。明日からは遠藤流歴史小説「男の一生」の予定です。遠藤周作の歴史小説はそれほど読んでいないので、この本も読むのは初めてです。
2000年12月4日 月曜日 遠藤周作「男の一生(上)」文春文庫 pp.1-136
 今日からは「男の一生」です。舞台は戦国時代、主人公は前野小右衛門。彼はおそらく秀吉に仕えた、前野長康のことでしょう。…と言っても普通の人は知らないよな、たぶん。歴史ゲームマニアの僕は、「天下統一」という戦国シミュレーションゲームをPC-98時代からやり込んでるので、戦国武将の名前はかなり覚えてます。だから、前野長康の名前も記憶にあるけど、彼は特に目立つところのない存在だったような気がする。
 で、この本は、その目立たない地味な前野長康の眼からみた戦国時代ということになります。今、桶狭間が終わったところ。知り尽くしているとはいえ、信長の鋭さと秀吉の成り上がりは、単純におもしろい。僕も日本人だな……。
 とはいえ、こういう広く知られている題材を扱うとき、作家は何を考えるのか。例えば、信長にしろ秀吉にしろ名前を聞くだけである程度のイメージが湧く人物で、普通の小説のように読者は白紙の状態ではないです。こういう状況で考えられる手段は、読者が持っているイメージを覆すものを書くか、読者のイメージを利用しながら他のことを語るか、でしょう。この小説はおそらく後者。信長も秀吉も今のところ、よく言われるような人物として描かれています。というか、読者の持つイメージに乗っかって書く場合は、読者に白紙状態からイメージを構築させる必要はないわけで、その点は楽かもしれない。少し言葉を使うだけで、イメージは伝わるだろうから。もちろん、人によって持っているイメージは微妙に異なっているんだろうけど。
 この小説みたいに、信長や秀吉などの有名人を主人公にするんじゃなくて、歴史上の脇役を主人公にするという設定はけっこう好きかも。
 久しぶりの歴史小説ということで、どの程度楽しめるか半信半疑だったけど、かなり楽しみながら読めそうな感触はつかめました。ということでまた明日。
2000年12月5日 火曜日 遠藤周作「男の一生(上)」文春文庫 pp.137-284
 今日は、朝倉攻めの直前まで。
 さすがと思うのは、主人公が「歴史上の人物」としてじゃなくて、「一人の人間」として、ちゃんと描かれていること。このへんはさすがにうまい。で、その主人公の朴訥さは、「侍」の主人公と共通点のある雰囲気を醸し出していて良い感じ。
 すこしびっくりしたのが、秀吉の墨俣築城の話を完全にカットしてるところ。一般の歴史小説だと見所の一つなのにあえてカットしてることから、「ただの歴史小説にはしない」という遠藤さんの意気込みを感じた。
2000年12月6日 水曜日 遠藤周作「男の一生(上)」文春文庫 pp.285-376
                遠藤周作「男の一生(下)」文春文庫 pp.1-128
 下巻に入って、浅井攻めが終わった後から、この小説は歴史小説じゃなくなった。それまでは比較的時代順に合戦の模様とかを忠実に描いていたけど、浅井攻めの終わった後、話はいきなり18年も飛ぶ。本能寺の変も、朝鮮出兵も飛ばしてしまうとは…。
 で、話の流れ方も一転する。完全にいつもの遠藤周作の小説になってしまう。
 下巻p.94。「娘を失うた時、われら夫婦はその子が木曾の流れのなかで生まれかわっておると思うてござりました。そう思わねば悲しみはどうにもならぬゆえ、そう考え申した。そして今は女房も娘と共に木曾の清らかな流れでみどもを待っていると、そう信じられてなりませぬ。みどもにとって命の故郷とは……あの木曾川でござります」。この部分読んだら、「深い河」を連想せずにはいられないでしょう。
 さらに主人公の妻あゆを、彼女の死後、主人公の永遠の同伴者として描く。p.110「あゆは吉乃やお栄のように華々しい花のような痕跡を将右衛門には残さなかった。しかし、目だたぬ、平凡な日々のなかで、ひそかに彼に働きかけていた。戦に疲れた彼をいやし、休ませ、安心感を与えていた。まるで右近のいう神が人間にたいして、そうであるように」。この文なんかも、完全に遠藤ワールド。
 さあ、こうなってくると、主人公の最期をどう描くか、に対してますます興味がつのってきた。その描き方しだいでは、この本をかなり評価したくなるかも。さあ、どうでる、遠藤周作。
2000年12月7日 木曜日 遠藤周作「男の一生(下)」文春文庫 pp.129-366
 「男の一生」読了。今日は精神的にかなり動揺してて、本を落ち着いて読める状態じゃなかったのは残念。こちらの精神状態のせいで、後半部分をちゃんと味わえなかったような気がする。作者に申し訳ない。
 そんななかでの感想ですが、歴史小説として無難にまとめちゃったな、という感じ。昨日、期待していた方向には十分に進まなかったな。でも、世の中のはかなさと歴史の非情な渦に巻き込まれた男の一生はそれなりに楽しめた。歴史の脇役を描いた歴史小説の秀作という感じかな。
 一番興味深かったのは、やっぱ木曾川の描き方かも。この作品の一年後に完成する「深い河」の「河」の描き方と共通してて、「深い河」へ向けての胎動が感じられた。
2000年12月8日 金曜日
今日は読書せず。というより、読書できる精神状態じゃなかった。いちおう鞄の中には、遠藤周作「ファーストレディ」を入れておいたものの、本を開くことができなかった。ふぅ。
2000年12月9日 土曜日
今日も読書せず。明日もおそらく、できないと思います。読書再開は月曜日の予定。
2000年12月11日 月曜日 遠藤周作「ファーストレディ(上)」新潮文庫 pp.1-136
 今日からは「ファーストレディ」です。この小説はそれなりに好きで、何度も読み返している。ファーストレディという題名からわかるように、主人公は政治家の妻(に話が進めばなる筈)。今のところは、ただの女学生にすぎない。主要な登場人物は、主人公とその親友の女性陣2人と、彼女たちの夫(となる筈)の男性陣2人。親友だった2人の女性が関わった男性によってそれぞれの道を歩き始める、という設定は、先月読んだ「砂の城」をなんとなく思い出させる。でも、「砂の城」と違うのは、2人とも「賢い女性」という点。
 政治の世界を扱うためか、戦後の社会的事件・政治的事件が触れられながら、話が進むのがおもしろい点。政治家の使い走りをしている、主人公の夫、渋谷忠太郎という人物を通して、政治家同士の駆け引きが実名(だよな…)で語られるのもおもしろい。ノンフィクションを織り交ぜながら話を進めるため、この渋谷忠太郎という人物が実際に存在していたような気にさえさせられる。
 この小説は、遠藤周作が語る戦後昭和史と言っても良いような気がする。そう、抜群におもしろい日本の戦後史だ。この構想だけでも、十分に評価してもよいと思う。もちろん、それだけでは遠藤周作は終わらせないんだけど。
2000年12月12日 火曜日 遠藤周作「ファーストレディ(上)」新潮文庫 pp.137-236
 さて、それぞれの道を歩きだした2組のカップル。愛子と辻は、それほど裕福ではないながら(…たぶん)お互いを補い合い高め合うという感じの理想的な結婚生活を送る。一方、百合子と忠太郎は、代議士としての足がかりを築いた忠太郎を百合子が陰から支えるという感じ。気の毒ながら、百合子に自己主張の場は与えられていない。
 この2組のカップルが今後どういう生活を送っていくのか。何度も読んだはずだけど、結論は定かに憶えていない。現在の予想は、愛子と辻は幸福で満ち足りた生活を最後まで送るはず。百合子と忠太郎はそれほど人間としての心を満たされた生活が待っていないはず。でも、遠藤さんが救いたいと思っているのは、満ち足りた幸せな生活を送る愛子ではなく、不本意な生活を送る百合子のはず。百合子に対する救いをどのような形で提示するか、それが楽しみ。
 それにしても、権謀術策うずまく政治の世界の描写は、それほど政治の世界に興味のない僕にとってもおもしろく読める。
2000年12月13日 水曜日 遠藤周作「ファーストレディ(上)」新潮文庫 pp.237-304
 上巻終わり。今日は読んだ量も少なかったし、それほど何もないけど、昨日立てた予想は早くも外れそう。どうやら、辻は浮気するみたいだな。愛子も百合子も、そして辻も悲しみを背負う人物のようだ。となると、一人平気な忠太郎をどう描き切るか、それが話の焦点になるだろうな。
 話の方は、田中角栄と竹下登の登場によって、さらにリアリティを増してきた。どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのか、さらにわからなくなってくる。おもしろいから、いいけど。
2000年12月14日 木曜日 遠藤周作「ファーストレディ(下)」新潮文庫 pp.1-98
 浮気相手に堕胎させた後の辻の言葉。「静一は自分の入院していた頃の愛子の、まだ女子医大生らしい、幼い、きびきびした顔を思いだしていた。新妻となってから朝食を二人でとったあと、一緒にそれぞれの勉強する場所に出かけていた朝を思いだしていた。そしてそこには嘘のない、真実の、信頼の世界があった。だが今、それらのすべてが崩れた。彼は愛子をあざむき、秘密を持ち、秘密を生涯、持ちつづけるだろう」。
 こんなふうに、人間が避けて通れないみにくさを自ら知った辻。一方、こんな人間の悩みなどまったく意に介さず、「人間を動かすのは結局金だ」という信念のもと、大臣の椅子を目指す忠太郎。この対照的な2人は今後どうなっていくのか。
 それにしても、話の合間、合間にさらっと語られる昭和の社会事件がうまく話のリアリティを増している。その社会事件の描き方もなんかおもしろい。やっぱ、この本は昭和史だな、って感じがする。
2000年12月15日 金曜日 遠藤周作「ファーストレディ(下)」新潮文庫 pp.99-298
 「ファーストレディ」読了。予想外の展開だった。
 まず、辻はハイジャックに巻き込まれ、他人をかばって死ぬ。妻愛子は彼の死に様を知って、「この時ほど愛子は自分の夫を誇りに思ったことはなかった。静一を心の底の底から尊敬できたことはなかった。(あなたは本当にやさしかった……あなたは本当に立派だった。あなたは……)」と。
 一方、百合子は夫忠太郎の浮気を知って、「(あの人は、偽善者だわ……)忠太郎の笑顔。初めての人にも親しみを与えるあの口調。それらすべての夫の仕草が今は百合子には耐えがたい嫌悪感の対象になった。(イヤ。もう見るのもイヤ)」と。
 この両シーンは対照的だ。辻も忠太郎も浮気をした点では共通しているんだけど、その妻に与えた印象はまったく違う。なぜか。よくわからんけど、このシーンを読んで思ったのは、辻は自分の行為を反省している一方、忠太郎はなんとも思っていないという点が違うな、ということ。人間は誰しもあやまちをおかさずにはいられないけど、そのことを「あやまち」として認識できるかどうか、が大事なのかなって。あたりまえのことをしているつもりでも、それが実は「あやまち」だったってことはよくあることだろうけど、そのことを「あやまち」だと思えるかどうかがまず大事なことなんだろうな。心に痛みを感じずにしている行為が、あやまちじゃないとは限らないから。
 で、忠太郎は政治汚職疑惑によってようやく得た大臣の座から追放され、さらに病に倒れる。しかし、入院することによって彼の心に大きな変化が訪れる。死の直前には、「俺の生涯を動かしとったもんは……はかないもんやったなあ。大臣になりたい野心だけやった。しかし、そんなもん、この世で何の価値もなかったやんなあ」と言うまでになっている。物と金という現実的なものだけを追求した忠太郎が、やがてそのむなしさに気づく。このように忠太郎の生涯に、遠藤さんは合理性だけを追求した後に、そのむなしさに気づき始めた戦後日本の姿を重ねているんだろう。この小説の話の進め方を見てると、これは間違いないと思う。
 あと、印象的だったのは、忠太郎の変化を知った後、百合子が、「(人生って、決して、棄ててはいけないんだ。百合子は長い結婚生活の後に、やっと、このささやかな真実に気がついた。ささやかだが、時間をかけて手にしたものである」と思うシーン。
 とりあえずこんなところか。昭和戦後史を実感できて、基本的におもしろかった。この本の最後に、後の「深い河」にも登場する輪廻転生についてのシーンが挿入されていたのも少し印象的。
2000年12月16日 土曜日
 今日は読書せず。明日からは、ユゴーの「レ・ミゼラブル」です。なぜかっていうと、読みたいから。「ひとりごと」のほうで、「ミュージカルのレ・ミゼラブル観に行きたい」って先週書きましたが、ついにどうにも我慢できなくなってきました。「レ・ミゼラブル」を観に行くためだけに、帝国劇場まで行って来る気にかなりなりつつあります。行くとすれば、2月かな。今からチケット取れるかどうかわからないけど。このミュージカルは今まで4回観ていますが、いいですよお。「これを観なくて、21世紀が始めれられるか!」って自分に言い聞かせて、帝劇まで行く方向で検討し始めています。
 で、小説の「レ・ミゼラブル」の方はこれまで2度読んだことがありますが、新潮文庫で全5巻の長ーい本です。基本的におもしろいんですが、ところどころ読みにくい箇所があって苦労した憶えがあります。字もちっちゃいし…。でも、今、この本を読んでどんなふうに感じるか、少し楽しみです。というわけで、しばらく遠藤周作はお休みですが、ご了承ください。
2000年12月17日 日曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)」新潮文庫 pp.1-55
 予定通り、今日から「レ・ミゼラブル」です。
 まずは1862年1月1日付けのまえがきを全文引用しておきます。
 「法律と風習があるために、社会的処罰が存在し、文明のただなかに人工的な地獄をつくりだし、神意による宿命を人間の不運でもつれさせているかぎり、また貧乏のための男の落伍、飢えのための女の堕落、暗黒のための子供の衰弱という、現世紀の三つの問題が解決されないかぎり、またあちこちで社会的窒息が起りそうであるかぎり、言葉をかえてもっと広い見地に立って言えば、地上に無知と悲惨がある以上、本書のような性質の本も無益ではあるまい」。
 要は、文明の進展に伴って生じた様々な問題の中で、希望を失わないためにこの本を書いたんだ、って感じだと思います。100年以上前の言葉ですが、現在でも十分に通じる言葉ですね。
 ということで、本文に入ります。
 まず、第1章は「正しい人」です。ここでは、ミリエル司教という人がいかに「正しい人」かが、延々と列挙されています。……本文始まって、3行目にいきなり、「こうした細かいことは、これから述べる物語の内容そのものには少しも関係はないが、この司教区に着いたころの彼に関する噂や話をこの際述べることは、何事も正確にというためだけであっても、おそらく無駄ではあるまい」ってあるのはいかがなものかいな。そりゃ、無駄じゃないだろうけど、「物語の内容そのものには少しも関係はない」ことを第1章で延々と述べる必要はあるのか?こういう長篇だと最初の部分で読者をひきつけられるかどうかがポイントだと思うんだけど、この本はそんなことまったく考えてないな。優雅というか、なんというか。
 で、延々といかに司教が正しい人かが述べられているのは、けっこう読むのはつらいんだけど、それなりに良い言葉がさらっと随所に登場しているのも確か。例えば、「宿を求めて来る者に、その名を尋ねるな。名のりにくい者こそ、避難所を必要とする人だからである」とか、「神に祈るのは、わたしたちのためではなく、わたしたちの兄弟が、わたしたちのことで、あやまちを犯さないためなのだよ」とかいった具合です。
2000年12月18日 月曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)」新潮文庫 pp.56-88
 第1章「正しい人」は読み終わった。この章自体が寄り道のはずなのに、その中にも「ついでに言うが」と断りのついた箇所が連発。寄り道の寄り道ってかんじ。小説とは別のものとして、読んだときはおもしろいんだけど、「レ・ミゼラブル」読むぞって意気込んでる人の意欲はそぐよな。この書き方。僕は、この本が寄り道だらけの本だってことは知ったうえで読んでるから、それなりに楽しめはするけど。
 第1章で一番印象に残ったのは、司教が死を迎える革命議会議員を訪ねるシーン。フランス革命で、国王を死刑に処した議員は、革命後こんなふうに村八分にされて孤独だったんだな、となんか印象深い。あとは、「成功」とは何かについての箇所かな。「成功は価値と似ているように見えるために、人はだまされる」として、成功したものと、価値のあるものは違うということを言っている。そのとき、例に挙がっている、「世紀の輝きをなしている五人か六人の大きな例外を除いては、同時代の称賛は多くの場合近視からくるものにすぎない」ってのはおもしろいな、と思った。
 で、次の第2章「転落」で、ようやく主人公のジャン・バルジャンが登場するはず。
2000年12月19日 火曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)」新潮文庫 pp.89-168
 今日は、第二章「転落」。主人公、ジャン・ヴァルジャン、ようやく登場。
 p.120司教の妹の言葉。「兄はおそらく、ジャン・ヴァルジャンと申すこの男は、あまり自分のみじめさをいつも思っているので、それを紛らわせてやり、たとえ一時でも、普通の人間として扱って、ほかの人間と変わりがないことを信じさせてやることがいちばんいいと考えたのでしょう。これこそ本当に慈悲というものではないでしょうか? 奥さま、説教や訓戒やほのめかしなどをしない、こうした思いやりの中に、何か本当に福音書的なものがあるのではないでしょうか?」。うん、たしかにな、と心に響く言葉。
 だが、司教の暖かさにも関わらず、ヴァルジャンは司教の大事にしていた銀の食器を盗み出す。その後の話の展開を追う前に、19年という長い牢獄生活を送った、ヴァルジャンの精神状態についてのユゴーの考察を抜き出しておく。19年というと何をしでかしたのかと思うけど、ヴァルジャンはパンを一個盗んだだけ。それも、未亡人となった姉とその子ども7人を養うという生活苦を抱えた上で、飢えに苦しんだあげく、衝動的に、という情状酌量の余地は十分にある犯罪。にもかかわらず、パンを盗んだ罪は実刑5年、に脱獄未遂4回の罪でプラス14年で、19年。まじかよ〜と思う話。さて、この状況でヴァルジャンが何を考えたかと言うと…、「パンを盗んだ点では自分は間違っていた。しかし、働き者の彼が飢えることになったのは、社会に問題があったのではないか。さらに、刑罰は残酷で重すぎたのではないか。偶然が行う財産の分配で、最も恵まれない人びとを、したがって最もいたわるべき人びとを、社会がまさにこのように扱うのは、途方もないことではなかろうか」ということ。この辺りのヴァルジャンの内面の動きに対する描写は非常におもしろい。ヴァルジャンの結論としては、「自分の刑罰は、事実不正ではないとしても、たしかに不公平である」というもの。結果的に、仮出獄して社会に出たとき、彼は、社会に対する強い憎しみを抱いていた。
 さて、ヴァルジャンは銀の食器を司教から盗む。が、あっさり捕まる。憲兵に連行されて司教宅に来たヴァルジャンに対して、司教は「ところでね、燭台もあげたんだが、あれもほかのと同じ銀製でね、200フランにはなりますよ。どうして食器と一緒に持って行かなかったんです?」という想像しがたい言葉で迎える。この言葉によって無罪放免となったヴァルジャンは、大混乱状態に陥る。
 彼は野原で一人放心状態でいる。そこにプチ・ジェルヴェという名の少年がやってきて、ヴァルジャンの傍にコインを落としてしまう。そのコインの上に無意識のうちに足を置くヴァルジャン。放心状態で少年の訴えに耳を貸さず、足をどけず、結果的にコインを盗んでしまうことになるヴァルジャン。少年が泣きながら去った後に、ふと我に返ったヴァルジャンは、「プチ・ジェルヴェ! プチ・ジェルヴェ!」と連呼しながらさまよう。でも少年は見つからない。というような状況で……
 p.163「彼はなおも『プチ・ジェルヴェ!』とささやいたが、それは弱々しくて、ほとんど聞きとれなかった。それが最後の努力だった。彼の心のやましさの重味が、何か目に見えない力となって、いきなり、彼を押しつぶしたかのように、その足が急にへなへなとなった。彼は力つきて、大きな岩の上に倒れ、両手で髪をつかみ、顔を膝にあてて、叫んだ。『俺はみじめな男だ!』 そのとき、心が裂けて、彼は泣きだした。19年来、彼が泣くのは、これが初めてだった」。
 司教の聖なる行為を述べた後に、この「プチ・ジェルヴェ事件」を挟んだ上で、ヴァルジャンを改心させる、という書き方はさすがにうまい! これは並の作家に出来るワザではないと思う。このあたりに「レ・ミゼラブル」が100年以上も読みつがれてきている理由があると思う。
 この章の終わり方もうまい。
 「こうして彼は、何時間泣いただろうか? 泣いたあとでどうしたか? どこへ行ったか? それは誰も知らなかった。ただたしからしいことは、同じ晩、そのころグルノーブル通いをしていて、朝の三時ごろにディーニュに着いた馬車屋が、司教館の通りを抜けたとき、一人の男がビヤンヴニュ閣下(*司教のこと)の戸口の前で、闇の中に、敷石の上にひざまずきながら、お祈りをしている格好を見たということだ」。
2000年12月20日 水曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)」新潮文庫 pp.169-248
 今日は、第三章「1817年に」、第四章「委託は譲渡となることがある」と、第五章「堕落」の一部です。
 第三章「1817年に」は、ファンチーヌ登場。このレ・ミゼラブル第一巻には、「第一部 ファンチーヌ」と題してあり、この巻の中心人物とも言える女性です。で、ファンチーヌなんですが、ろくでもない男に恋をして、捨てられ、その挙げ句、未婚の母となるというよくあるお話。この章は特になんということもないけど、男はほんとろくでもないやつ。世の中を皮肉って、自分を省みない、典型的大馬鹿者。一方、ファンチーヌは作者をして「賢い娘」と断言させる好人物。なぜそんな賢い娘が……というと、「恋はあやまちである。それをみとめるとしよう。ファンチーヌは、あやまちの上に漂う純潔さであった」というわけ。
 ついで第四章。この章は短い章で、内容は、ファンチーヌが我が娘コゼットを、テナルディエ夫婦という悪党に預けてしまうというだけ。おもしろいのが、テナルディエ夫婦の描き方で、「この二人は、(中略)、いわゆる中流階級と、いわゆる下層階級との中間にあって、後者の欠点の幾つかと、前者の悪徳のほとんどすべてを併せ持ち、労働者の情け深い熱情もなければ、市民階級の誠実な秩序もなかった」と言われてしまう始末。にしても、ひどい表現だ……。実際、ひどい奴らなんだけど。
 さらに第五章。ここで、話はジャン・ヴァルジャン(マドレーヌという仮名使用中)に戻る。ヴァルジャンは黒玉細工の生産方法に画期的な発明をし、富をなす。そして、自分だけじゃなくて、その地方全体を豊かにしてしまう。すっかり改心したヴァルジャンは、多額の寄付をしながらも無口で謙虚な姿勢を保ち、尊敬されるようになる。やがて、彼は断り切れずに市長になってしまう。というのが、ここまで読んだ話。いいな〜と思ったシーンは、「彼は、いつも一人で、読みかけの本を目の前にひろげて食事をした。少ない蔵書だったが、いい本を持っていた。本好きだった。本は冷静だが確実な友人だった。財産とともに暇ができるにつれて、彼はその暇を利用して、精神を豊かにしているようにしているらしかった。モントルイユ・シュル・メールに来てから、年々彼の言葉が丁寧になり、立派になり、やさしくなることに人びとは気がついた」というシーン。富を得、尊敬を気づいてからも、彼が努力を怠っていなかったことを、うまく表現しているシーンだな、と思った。
2000年12月21日 木曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)」新潮文庫 pp.249-394
 今日は、第五章「堕落」、第六章「ジャベール」、第七章「シャンマチウ事件」の一部です。
 第五章で、髪を売り、歯を売り、身体を売り、とどんどん転落していくファンチーヌ。最後のところで、ヴァルジャンによって救われるものの、身体を病み、寝たきりに。
 第六章は、この長い物語でヴァルジャンと並ぶ中心人物の一人、刑事ジャベールについて。こいつは、異常なまでに極端で潔癖な性格。その厳格かつ妥協しない追求の厳しさによって、悪党どもに怖れられているが、自分に対しても厳格なのがおそるべし。彼が他人に対して厳格になれるのは、自分が正しいと信じきっているからだけど、自分がミスをしたときは(それほど大きなミスではないのに)自ら辞職を願い出るように、自分に対しても公平に厳格。また、社会とか地位のある者が正しく、社会からはみ出した者が悪い、と何の迷いもなく、信じ込んでいる単純な性格。こんなに極端な人は実際にはそんなにはいないけど、誰でもこのような側面は多かれ少なかれ持っているもの。だから、その側面を強調するとどうなるのか、っていうことを身をもって示してくれる、ジャベールの動きには、今後とも目が離せませんね。
 第七章は、ヴァルジャンの悩みの章。というのは、シャンマチウという人物が、ヴァルジャンと勘違いされ、逮捕されてしまったから。彼を身代わりにすると、自分は市長として正しい清い生活を続けられるが、身代わりにしてしまうと、心の痛みは消えない。つまり、「外面が美徳で内面は醜悪か、または内面が神聖で外面は汚辱か」のどちらかを選ばなければいけない状況に追い込まれてしまったわけ。この章でのヴァルジャンの内面の葛藤についての描写は、すごく読み応えある。ユゴー、渾身の内面描写ってかんじで、迫力ある。
2000年12月22日 金曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(一)」新潮文庫 pp.395-438
                    「レ・ミゼラブル(二)」新潮文庫 pp.1-53
 今日は、第七章「シャン・マチウ事件」の続き、第八章「反撃」で第一巻は終了。で、第二巻(副題はコゼット)の第一章「ワーテルロー」の一部。
 第七章は、裁判所でのヴァルジャンの告白という感動的なシーン。描写は完璧で、文句なしにおもしろい。
 第八章は、ヴァルジャンの正体を知ったジャベールの「反撃」。自分に絶対の自信を取り戻したジャベールの融通のきかなさは戦慄するほどおそろしい。その中での我が子と再会を果たすことなく最期を遂げるファンチーヌ。この章も、おもしろく一気に読んでしまう。さて、これからどうなるんだろう、とむさぼるように、第二巻を開いたときに待っていたのは…………、また壮大な寄り道。
 第一章「ワーテルロー」は、ナポレオンを没落させたワーテルローの戦いについて。おいおい、何の関係があるんだよ〜。少しだけ、本筋と関係する伏線を張るために、多少はワーテルローに触れる必要があるのはわかるけど。脱線しすぎ! 事細かに、ワーテルローの戦いについて解説してくれてるよ。
 この章をナポレオンの没落を描いた歴史小説として読めば、出色の出来だとは思うけど、本筋の話を早く進めてくれい、と思うのは、現代人が性急になったから?それとも、フランス人はこんなにのんびりしてるのか? ま、いいけど。
 おもしろかったのは、ナポレオンについての次の描写。「人類の運命の中で、この人物の過度の重さは、釣合いを乱していた。この個人は、彼一人で、世界じゅうの人よりも重かった。全人類の生命力が、たった一人の頭の中に過度に集中し、一人の人間の頭脳に全世界が集まる、こんなことがつづいたら、文明にとって致命的であろう。今や、恒久不変の公明さが、告げられるときがきていたのだ」。
2000年12月23日 土曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(二)」新潮文庫 pp.54-83
 今日は、第一章「ワーテルロー」の残りの部分だけ。普段、外出しないときは読書しないんだけど、今日はキリの良いところまで読み終えときたい気分になったので。
 相変わらず、寄り道の章なんだけど、おもしろかったのは、p.73「理想は、輝かしい物質の支配下にあって、イデオロギーという奇妙な名前がつけられていた」という文。ここでいう「理想」が何を指すのかよくわからないけど、今、イデオロギーと呼ばれているものが、「理想」かもしれないっていう考えはおもしろいな、って思った。
2000年12月24日 日曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(二)」新潮文庫 pp.84-102
 今日も外出しないにもかかわらず、少しだけ読書してしまった。けっこう珍しいことだけど、早く話を進めたいという気持ちが強いのかな。
 で、今日は第二章「軍艦オリオン号」。再び逮捕された、ヴァルジャンの脱走シーン。といっても、例によって半分は寄り道で、1823年がどういう年だったのかについて述べられている。この時代に詳しい人にはおもしろいのかもしれないけど、あまり知らない固有名詞並べられてもねえ。…読むのつらい。
 で、ヴァルジャンの脱走シーンは、端的に言うと、「昨日、オリオン号の甲板で労役に従事していた一徒刑囚は、一人の水兵を救助して帰るとき、海に落ちて溺死した。死体は発見されなかった」という感じ。
2000年12月25日 月曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(二)」新潮文庫 pp.103-185
 今日は、第三章「死んだ女への約束をはたす」。死んでしまったファンチーヌの娘コゼットを、悪人テナルディエ夫婦のもとから、ヴァルジャンが引き取る有名なシーン。僕も、このシーンは小さい頃に「ああ無情」というタイトルでのアニメで見たことを今でも憶えている。本のなかでも、並大抵じゃないおもしろさで一気に読んでしまった。ユゴーという小説家の読者を引き込むうまさが遺憾なく発揮されているシーンだと思う。ずっとこの調子で書いてくれればいいのに……。
 うまいなと思ったのは、例えば、ヴァルジャンが部屋に戻るのをテナルディエが待っているシーンの描写。p.159「こんなふうにして、一時間あまりたった。あっぱれな亭主は、『クーリエ・フランセ』紙を少なくとも三回は読んだ。日付から、発行人の名前まで目を通した。それでも、見知らぬ男は身動きもしなかった」。
 まず、亭主に「あっぱれな」という形容詞をつけるところが、なんとも言えず良い感じ。さらに、「日付から、発行人の名前まで目を通した」という表現もリアリティあって、なおかつユーモラスですごいな、と。
2000年12月26日 火曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(二)」新潮文庫 pp.186-272
 今日は第四章「ゴルボー屋敷」、第五章「暗闇の追跡に無言の同勢」、第六章「プチ・ピクピュス」の一部。
 第四章と第五章は、ヴァルジャンとコゼットがパリに忍び住んだものの、ジャベールに見つかり逃走するシーン。迫力あるなあ。ジャベールに追いかけられてる様子なんて、はらはらどきどき。
 なのに、第六章では、ヴァルジャンたちが逃げ込んだ、修道院の解説が長々と始まる。またしても寄り道。まったく、この作者は、話に引き込んだかと思うとすぐ突っ放すんだから。意地悪!
 といいつつも、今までこの小説に関しては「すごい!うまい!」を連発する肯定的な評価をしてますよね。「なんでかなあ」と今日本を読みながら考えるともなく考えてたけど、「やっぱユゴーという人の書いたものに、信頼感を抱いてるからだろうな」と思った。100年前のフランス人の書いたものを信頼できるってけっこうすごいことなのかも。人間には時代も国境も越えて共通したものがあるんだな、と。……でも、同時代の日本人が書いたものに信頼感抱けるかというと、そうでもないんだよな。遠藤周作とか三浦綾子には信頼感抱けるけど、宮本輝はどうしても信頼しきれない部分あるし。宮本輝は日本の作家のなかでは好きなほうなんだけど、どうしても最後の部分で信頼できないんですよね。……もっとも、最初から信頼する気にもなれないひどい作家もたくさんいるけど。
2000年12月27日 水曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(二)」新潮文庫 pp.273-387
                ユゴー「レ・ミゼラブル(三)」新潮文庫 pp.1-44
 今日は、第三巻の第六章「プチ・ピクピュス」、第七章「余談」、第八章「墓地は与えられたものを受け取る」。第四巻の第一章「パリの微粒子的研究」、第二章「大ブルジョワ」の一部。
 第三巻部分は、修道院で生活を続けるための秘策について、あれこれ。例によって、なかなかはらはらどきどきでおもしろい。章のタイトルを見て唖然としたのは、第七章の「余談」。ここまで当たり前のように脱線を続けて本で、わざわざ「余談」というというのはどういうこっちゃ??? ……と思ったけど、この「余談」はおもしろかった。内容は、文明社会と宗教について。大筋の内容は、「文明の問題は修道院をとがめ、自由の問題は修道院を守ることになる」という言葉に要約されている。つまり、文明と矛盾するように見えても、宗教は現代社会に必要なものだよってこと。文明だけでは人間は生きていけないってことは、最近言われ始めたことじゃなくて、100年以上も前から言われていたことなんだな、とおもしろかった。あと、おもしろい言葉だなと思ったのは、「信仰と愛という原動力なしには、人間を出発点と考えることもできず、進歩を目的と考えることもできない」という言葉。難しい言葉だけど、要は、信仰なしの進歩は進歩ではないってことかな。うまく、言えないけど、なんか多くのことを物語っている言葉だな、と思った。
 第八章の最後の部分で、「ほー」と思ったのは、「自分を司教とだけ比べていた間は、自分のいたらなさを知り、謙虚であった。ところがこのごろは自分を凡人とくらべるようになり、傲慢の心が生まれていた」という部分と、「ここ半年の間、彼の人生に起こったもののすべてが、あの司教の神聖な命令の方に彼を連れ戻してくれた。コゼットは愛によって、修道院は謙虚によって」という部分。この物語の最初の部分であれだけ偉大な司教に愛を与えられたにも関わらず、それだけでは人間はダメなんだな、人間って弱いんだな、と思わせてくれる。
 第三巻の副題は「マリユス」。そろそろ物語は佳境に入ってきました。今のところ、(例によって)まだ「寄り道」の段階。
2000年12月28日 木曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(三)」新潮文庫 pp.45-105
 今日は第二章「大ブルジョワ」の続きと、第三章「祖父と孫」、第四章「ABCの友」の一部。
 今日は読んだ量少なかったし、特に何もないかな。第三巻は、マリユスという青年を中心に描かれるわけですが、よく考えたら、この本で「青年」が登場するのってここが初めてのような…。だから、以後、ユゴーがどういう風に若者たちを描いていくかが楽しみ。これまで読んだところでは、若さの良さも悪さも、うまく描いていると思う。
2000年12月29日 金曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(三)」新潮文庫 pp.106-170
 今日は、第四章「ABCの友」の残りと、第五章「不幸のすぐれた点」の一部です。
 青年たちの会話は、むずかしくてよくわからん……。よくわからんけど、登場人物それぞれがかなり特徴的な性格を持っていて(ある意味極端でできすぎてるかもしんないけど)、おもしろいな、と。
 あと、気に入ったのは、p.156「若いときの貧乏には、うまくいけば、意志をひたすらに努力に向かわせ、魂をひたすら理想に向かわせるという美点がある。貧乏は物質的生活をたちまちむき出しにして、それをみにくいものにするので、そこから理想的生活へ言い尽くせぬほどの飛躍が生まれる」という文章。なるほどねえ、ってかんじ。
 もう一つ。p.167「他人の本心を肉眼で見ることができたら、その人が考えていることよりも、夢想していることを基準にして判断する方が、ずっと確実であろう。思想には意志が加わるが、夢想にはそれがない」という部分。たしかに、夢想していることの方が、自分の醜さとかむき出しになってるもんね。
2000年12月30日 土曜日 ユゴー「レ・ミゼラブル(三)」新潮文庫 pp.171-199
 今日は少しだけ。第五章「不幸のすぐれた点」の続きと、第六章「二つの星の出会い」。
 ついに巡り会った、マリウスとコゼット。でも、一目惚れではないのが、ミュージカルのレ・ミゼラブルと違うところ。そして、マリウスに警戒心を抱いたバルジャンとコゼットは姿をくらます。というところで、終わり。
 おもしろかったのは、恋についての表現。p.191「不思議な力が鎖のようにがんじがらめにしてくる。もがいても無駄だ。人間の手ではもはや救いようがない。歯車から歯車へ、苦悩から苦悩へ、責苦から責苦へと、精神も、幸福も、未来も、魂も沈んでいく。たちの悪い女の虜になるか、高貴な女の虜になるかによって、この恐ろしい機械から、恥辱にまみれてみにくい姿で出てくるか、情熱で生まれ変わって出てくるかが決まるのだ」。…好きだな、この表現。
2000年12月31日 日曜日
今日は読書せず。今ふと1年最後の日は読書して締めくくるべきだったかな、と思ったけど、読まなかったものはしかたないか……。


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