2000年11月の読書日記

02〜07日 三浦綾子「泥流地帯」[続泥流地帯」 *
    08日 遠藤周作「灯のうるむ頃」 *
10〜11日 遠藤周作「ヘチマくん」
13〜14日 遠藤周作「さらば、夏の光よ」
15〜17日 遠藤周作「砂の城」 *
18〜19日 遠藤周作「わたしが・棄てた・女」 *
20〜22日 遠藤周作「真昼の悪魔」
22〜25日 宮本輝「焚火の終わり」
27〜28日 遠藤周作「悪霊の午後」
29〜30日 遠藤周作「闇のよぶ声」 *
   30日 遠藤周作「一・二・三!」

(*印は、もう一度読み直したい本)

2000年11月1日 水曜日
今日は読書せず。
月が変わって、11月になったので、10月の読書日記は別ページにまとめました。読みやすいように、上から順に並べ替えたので、興味のある方は是非ともよろしく。
明日からは、三浦綾子の「泥流地帯」のつづきです。
2000年11月2日 木曜日 三浦綾子「泥流地帯」 新潮文庫 pp.279-452
 「泥流地帯(正)」読了。様々な苦難にも負けず、誠実に真摯に生きてきた者たちの上に、最大の苦難が襲いかかる。十勝岳大噴火。多くの者を死においやり、彼らの人生をかけて耕してきた田畑も泥流で滅茶苦茶にされる。この本の最後で生き残った主人公耕作が兄に向けて問いかける、「まじめに生きている者が、どうしてひどい目にあって死ぬのか」という言葉が、この本を貫くテーマ。それまで、生き生きと描かれていた人々は、本当にまじめに誠実に生きてきた立派な人々ばかりである。それなのになぜ?この問いに対する答えは、「続・泥流地帯」で主人公兄弟が身をもって示してくれる。「泥流地帯(正)」は、この問いかけに対する導入で、本当の話は「続・泥流地帯」で始まるような気がする。
 それにしても、この小説の中で描かれた人物が、いずれも魅力的で親しみを感じさせる人物で、なにより生き生きしていたから、彼らの死が他人事のようには思えない。どうして彼らが…、と切実にこの小説の主題を考えさせられる。さすが、三浦綾子といった感じ。
 明日からはもちろん「続・泥流地帯」です。でも、所用のため、明日・明後日は更新できないかもしれません。ご了承を。
 
2000年11月3日、4日、5日 三浦綾子「続泥流地帯」 新潮文庫 pp.1-89
 「続泥流地帯」を読み始める。最初の何ページかは、回想を交えながら「泥流地帯(正)」の内容を簡単に紹介しながら、この本のテーマの再確認。その後、話が動き始める。この本を通して描かれているのは、何とか泥まみれの田畑に再び作物を実らせようとする兄拓一の苦闘と、その兄の考えを尊重して兄を手伝いながらも、「こんな土地に再び稲が実るわけがない。こんなことはむだだ」という気持ちを捨てきれない弟耕作の疑問。確かに、耕作の疑問の方が理にかなっていて、耕作の考えるように、百姓をあきらめ市街に出れば楽な暮らしが保証されている。しかし、拓一はあきらめない。「どんなことがあっても」。「どんなことが起きるのか」はこれから読み進めていくうちにわかることでしょう。
 あと、おもしろいのは、この災害で生き残った人々に対して、「ふだんの心がけがよかった」と思わず言ってしまう人々の心。こういってしまうと、亡くなった人は普段心がけが悪かったことになってしまうのだけど、生き残った人が亡くなった人より心がけがよかったわけではない。ちょっと考えればわかることなんだけど、世の中の不条理さの一側面が出ているような気がする。この小説のテーマは、現実世界では因果応報は成立せず、良いことが報われるわけではないが、それじゃどうやって生きていけばいいのか、ってこととも言える。報われないなら、良いことをしても意味がないのかどうか。良いことは報われるためにするのか。
 ということを念頭に置きながら、読み進めていくことにしましょう。
2000年11月6日 月曜日 三浦綾子「続泥流地帯」 新潮文庫 pp.90-304
 話は、だいぶ進んだ。
 今まで何度もこの本を読んできたが、かなり印象に残っていたのは、復興反対運動の会合のシーン。硫黄を含んだ泥まみれ、流木だらけになってしまった田畑を復興しようとする拓一たちだが、市街の人々には復興に反対する者も多い。復興のためにはお金がかかるが、自分たち市街の者たちまで負債を背負いこむわけにはいかないというのが理由。また、あんな土地に再び稲を実らせるのはいくらがんばっても不可能だという思いも強い。こういう復興反対の者達が集まって会合を開くが、そこに拓一も行く。あまりに一方的な発言の多さに、我慢しきれなくなった拓一は、敵だらけの中、自分の思いを訴える。もとより、復興反対派は聞く耳もたない者が多いのだが、そんな中での拓一の行動には胸打たれる。…うまく言えてないよね、たぶん。実際読んでみて。
 p.230〜。泥まみれの土地の復興という難題に挑む拓一を心配し、「なぜそんなに苦労することをわざわざするんだ?」と言う友に対して拓一は言う。「三年経って、もし実らないとわかったら、その時は俺も諦める。すると人は言うだろう。その三年の苦労は水の泡だったってな」「しかし、俺はね。自分の人生に、何の報いもない難儀な三年間を持つということはね、これは大した宝かも知れんと思っている」。この言葉を聞いて、耕作は「報いがないと知りながら、自分は拓一のように苦労をしたり、一人の女性を想いつづけることができるだろうか。自分が勉強するのは、勉強すればしただけの途がひらかれるからであり、節子を愛するのは、節子が自分を想ってくれているからだ」と思う。このやりとりは、人間が苦労をするのは、現実に報われるからではないのか、という大きな問題を提示してくれる。この本の答えは、おそらく「人間の苦難は、現実に報われるためにあるわけではない」だろう。それでは何のために?答えは、拓一の言うように、「心の糧となるために」だろう。
 p.289。さらに、拓一に対して福子は言う。「拓ちゃんのこの苦労で、この田んぼがいい田んぼになったら、百年後、二百年後の人たちも、この田んぼのおいしいお米を食べれるんだもねえ」。この言葉も苦難の意味に対する一つの答え。苦労した本人は現実に報われるわけではなくても、もしかしたら、その苦難を乗り越えようとすることによって、別の場所、別の時間に住む人は報われるかもしれない。これは、現実的な報いかもしれないが、本人は意識するのは難しい。でも、異なる時間・空間の人々とつながっているという感覚は、個人的にけっこう好き。というか、自分がこういう風に考えるようになったのは、何度も読み返しているこの本の影響なのかもしれないな。自分では明確に意識していなかったけれど。
 どうも、この本の良さを伝えるのは難しいですね。実際はもっともっと心に迫るように描かれているので、僕の下手な感想に惑わされることなく、この本を読んでみてください。
 明日には読み終わりそうです。
2000年11月7日 火曜日 三浦綾子「続泥流地帯」 新潮文庫 pp.305-451
 「続泥流地帯」読了。ちょっと長くなりますが、引用しまくりながら感想を。
 「なぜ正しい者が苦難に会わねばならないのか?」という問いに、最後の部分で改めて答えが提示される。良いことには良い報いがあるとか(善因善果)、悪いことには悪い報いがあるとか(悪因悪果)という考えに対して、「それはねえ、人間の願望に過ぎないんだよ。理想に過ぎないんだよ。悪い奴は亡びてほしい。いい人間は栄えてほしい。そういつもねがっているうちに、悪いことがあれば、何の罰だとか、いいことがあれば精進がよかったとか、そう勝手に思うようになってしまったんだよ、きっと」と拓一は答える。
 さらに、たたりとか神罰や仏罰という考えに対して、「(悪いことをしたと)思い当たる節がないと、前世に悪いことをしたことになったり、何かの祟りだということになるわけさ。それもこれも、善行には善い結果が、悪業には悪い結果があってほしいという願いが、そんなことを言わせるようになったんじゃないのかなあ」と耕作は答える。
 また、兄弟の母佐枝は、「苦難に会った時に、それを災難と思ってなげくか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」と言う。これに対して、「しかし、正しい者に災があるのは、どうしてもわかんねえなあ」と叔父はうめく。
 最後に、拓一は「叔父さん、わかってもわかんなくてもさ、母さんの言うように、試練だと受けとめて立ち上がった時にね、苦難の意味がわかるんじゃないだろうか。俺はそんな気がするよ」と言う。この拓一の言葉の後に、「明るい声だった。耕作も深くうなずいた」となっている。
 以上はpp.419-423のまとめ。ここにこの話のすべてが集約されていると思う。だから、もうこれ以上言うことはないんですが、最後の言葉を拓一が「明るい声」で言い、耕作も深くうなずく、というところに心打たれる。拓一の「明るい声」と耕作の「深いうなずき」は、拓一がこの話のなかでどれだけ苦労し、耕作が兄の取り組みを尊敬しながらもどれだけいろいろと悩んだか、というのを知っているだけに、この兄弟が最後に「明るい声」と「深いうなずき」行き着いたことに深い感銘を受ける。
 基本的にこの本はここで終わりのはずだが、話はあと1章続く。最終章では、田に稲が実り、拓一の愛する福子が遊郭から助け出されるというハッピーエンドが語られている。何を隠そう、僕が初めてこの本を読んだときに、泣いたのは、このシーン。福子の脱出を知って、「拓一が、くずれるように稲の中にうずくまるのを、耕作は見た」というところで、こらえられなかったのです。
 ということはさておき、この本では、「正しい者が報われるわけではない」ということが一貫して語られているにもかかわらず、三浦綾子はなぜ最後にハッピーエンドを用意したのか?この最終章がなかった方が、話としては一貫しており完結しているはずだと思う。おそらく、善因善果ではないという現実を語りつつも、それまでの拓一の苦労を思うと、そのままにしておくのは忍びず、三浦さんはハッピーエンドにせざるをえなかったのだろう、と思う。これは、三浦さんほどの人でも、やはり善因善果であってほしいという気持ちには勝てなかったことを示している。「それまでと話がちがうじゃないか、矛盾してるじゃないか」と思いつつも、「この話はこれでいいんだ」と思う。ハッピーエンドであることによって、この小説を読んだ後、すごく前向きに生きる気持ちが湧いてくるのは間違いないんだから。
 ひとまずこれで感想は終わり。と、この本の解説を読むと、僕とほとんど同じように引用が多いし、引用している箇所もほとんど一緒だ。遠藤周作の小説は頭で考えながら論理的によりわかりやすくまとめようという気になるけど、三浦さんの小説は解説しようとするとどんどん陳腐になっていくような気がする。「ああ、こんなんじゃないのに。原文はもっと心に迫るのに」って。これは、おそらく、遠藤周作が理性にうったえるとするなら、三浦綾子は感性にうったえるからでしょうね。だから、解説しにくい。
 あと、三浦さんの小説を読んでると、「頑張って強くならなきゃ、真摯に生きなきゃ」という気持ちにさせられる。けど、遠藤さんの小説は弱い人を積極的に肯定しているから、そういう気持ちにはならない。じゃ、遠藤さんの優しさはどう位置づけるのか?というのを考えると、僕の思っているのは、「三浦さんの小説は弱い自分が強くなるために活用しなければならないもんだけど、遠藤さんの小説は弱い自分をそれで良いんだと慰めるためにあるんじゃなくて、自分以外の人の弱さを優しく受け入れるために活用しなければならないものだ」ということ。
 と、最後は遠藤・三浦の簡単な比較でした。明日からは遠藤周作に戻ります。何を読もうかな……。「深い河」を読みたくなってきた気持ちを我慢して、「灯のうるむ頃」にするつもりです。
2000年11月8日 水曜日 遠藤周作「灯のうるむ頃」 角川文庫 pp.1-300
 「灯のうるむ頃」初日。…なんだけど、読み終わっちゃいました。一日で一冊読み終えたのは久しぶりだな。
 で、この本は、いわゆる純文学じゃない遠藤文学。どういうふうに表現したらいいのかよくわからないけど、解説では「中間小説」なんて言葉が使われていました。この言葉は一般的なのかな?それはともかく、ユーモアと哀愁がただよう遠藤小説と言えば、遠藤さんの小説を読んでいる人にはわかってもらえると思います。「沈黙」みたいな完成度の高い純文学も好きだけど、この本のような遠藤文学も僕はかなり好きです。そのなかでもこの「灯のうるむ頃」はけっこう好きな部類に入ると思う。
 で、ストーリーの方は、人は良いけど出世はしない町医者とその息子が織りなす、哀しいお話。主人公の牛田医師は、善之進という名前の通りの善人。ただ単に人が良いだけじゃなくて、乏しい施設ながら癌の研究も続けていて、とうとう癌の特効薬を作り出してしまいます。実際にその薬で、末期癌の杉山さんは元気になっちゃうし、乳癌の人も治っちゃう。冷静に考えると、「おいおい。そんなうまい話、あるわけないだろ」と思っちゃうのですが、けっこうリアリティあります。冴えない町医者の苦労の部分もうまく描かれていて、彼の成功を素直に喜ぶ気分になっちゃうのです。
 でも、ずっとうまい話が続くわけではありません。世の中そんなに甘くない。効果はあっても、理論的に説明できない彼の薬は、学会に認められず無視されてしまいます。学会でお偉い先生は、その薬によって自分の癌を治してもらったにもかかわらず、彼を馬鹿にします。ただ、そのお偉い加納先生は、彼の薬を投与されていたことは自分では知らないのです。そして加納先生は、自分が癌になったときでも、学問的に証明されていない薬に頼ることを拒否した自分の学問的良心を誇りに思っています。彼を責めるわけにはいけません、彼は何も知らないのですから。それに加納先生は実際に怪しい薬に頼らないという勇気ある行動をとっているわけですけど、でもでも、結果的に自分に自信を持ち、何の身分もない牛田先生の気持ちをわかってあげない加納先生みたいな人にはなりたくない、と思います。よく加納先生みたいになりがちなだけに、気をつけないとね。自分が正しいと思ったときに、人は正しくなくなっちゃうものなのでしょう。
 それはともかく、牛田医師自身は、自分の薬によって加納先生の癌が治ったことを知っているわけですから、学会でそのことを言ってしまえば、一気に形勢逆転も可能だったはずです。でも、彼は何も言わず、とぼとぼと引き上げます。そして、牛田医師の息子も必死で勉強したにもかかわらず受験に失敗してしまいます。いわば、共倒れ。でも、最後に牛田医師は息子に「つまり、男っていうもんは、酬われるために、何かをやるんじゃない。やらにゃァ、いかんから、やるんで……」と言います。この気持ちを遠藤さんは「男の心意気」という言葉で表していますが、何となくわかるような気がします。この不器用な親子に乾杯!
 そんな話ないだろ、って思いながらも、この本はやっぱおもしろいです。僕が一日で読み終わってしまったということからもそれはわかっていただけることでしょう。遠藤さんはこの本をとっても楽しみながら書いたのだろうなというのを読んでいて感じました。遠藤さんの楽しそうな顔が浮かびます。「沈黙」のような純文学は、良い作品を書きたい、代表作を書きたいってプレッシャーと戦いながら、苦労して苦労して生み出したのだと思います。もちろん、その結果生み出された純文学はすばらしいものだと思いますが、楽しみながらというのが伝わってくる作品も良いものですね。ほんとうに。
 さて、明日から何を読もうかな。一日で読み終わるとは思わなかったよ。でも、明日は一日中、家で仕事の予定だから読書の時間はないかも。
2000年11月9日 木曜日
今日は読書せず。その代わりと言ってはなんですが、三浦綾子の「泥流地帯、続泥流地帯」の紹介文を作成しました。もしよければ読んでみてください。明日からは遠藤周作の「ヘチマくん」を読んでいくつもりです。
2000年11月10日 金曜日 遠藤周作「ヘチマくん」 角川文庫 pp.1-135
 今日からは「ヘチマくん」です。ちょっと間の抜けた主人公をめぐる人々を描くという、遠藤周作の得意分野の一つのユーモア小説。主人公は間抜けで、いつも他人に笑われているけど、善人を絵に描いたような人物。「生来、抜けているのか、それとも小事にこだわらぬためであろうか、失職という哀しむべき現実もそれほど鮒吉には衝撃とはならなかった。いやむしろ、明日の朝から7時に起き、朝食を無理矢理にたべ、満員のバスにゆられないですむという事実のほうが、彼の気に入ったようなのである。」と描かれるように、のんきな主人公のヘチマくんはこれからなにを巻き起こしてくれるのでしょうか?と楽しみながら、読んでいきます。この本を読んでたら、気が楽になりそう。ほっとひといきって感じですね。
2000年11月11日 土曜日 遠藤周作「ヘチマくん」 角川文庫 pp.136-423
 「ヘチマくん」読了。のんきで浮世離れしたヘチマくんの周りでは、もろに現実的な金儲けの話が渦巻いています。でも、ヘチマくんはそんなことに巻き込まれず、マイペースで、おまけに昔少し見たことがあるだけの女性の手術のことだけが気になってしかたない。そんなヘチマくんの生き方を見てると、何とも言えない懐かしさと物悲しさが漂ってきます。この辺りのなんとも言えない雰囲気を作り出す遠藤周作のユーモア小説はすごく好き。
 この話の大筋は、はっきり言ってバカげた話で、話自体もおもしろいんだけど、それだけじゃなくて、こういうバカげた話を展開しながら、なんとも言えない切なさと物悲しさ、安らぎを作り出すのはさすがだな。
 というので、手短ですが以上。明日からは、「さらば、夏の光よ」のつもりです。
2000年11月12日 日曜日
今日は読書せず。「本だなRing」に参加することにしましたので、以後よろしくお願いします。
2000年11月13日 月曜日 遠藤周作「さらば、夏の光よ」 講談社文庫 pp.1-81
 今日から「さらば、夏の光よ」です。これはおそらく恋愛小説に属するんだと思いますが、構成を見ただけで、「おもしろそう」と思わせられる作品です。登場人物は主に、周作先生、南条、戸田京子、野呂の4人。話の構成は、「プロローグ」「南条の場合」「戸田京子の手紙」「野呂の手紙」となっていて、プロローグは周作先生の目から、他の3人を見ているので、1人1章というわけですね。これだけでけっこう興味惹かれます。遠藤さんの作品としては、ユーモアすぎず真面目すぎず、しっとりとした文体で綴られているのも、なんか良い感じ。
 内容は、ヒロイン戸田京子に南条・野呂の親友2人が恋してるというよくある3角関係。でも、趣向はこらしてあります。南条は比較的スマートなノーマルタイプに対して、野呂は名前のとおりノロマで女とは縁のないタイプ。「プロローグ」と「南条の場合」を読むと、南条と戸田があっさり結ばれそうで、ああ、戸田がしだいに野呂の良さを理解していくというおきまりのパターンか、とおもいきゃ、そうじゃなさそう。「戸田京子の手紙」の出だしを読むと、意外や意外戸田京子は野呂と結婚してしまってます。しかも、野呂の良さがわかった上じゃなくて、野呂のことが嫌で嫌でたまらないときています。さあ、こりゃどういうことだ。ということで、また明日。
2000年11月14日 火曜日 遠藤周作「さらば、夏の光よ」 講談社文庫 pp.82-220
 「さらば、夏の光よ」読了。悲しい、悲しすぎる話だ…。
 南条の子をみごもった京子は、南条との婚約に踏み切る。しかし、結婚を目前に南条は事故死。そこで、京子の前に野呂が現れ、お腹に南条の子がいることを知っていながら、求婚。世間体を気にする京子の両親の懇願によって京子は、生理的嫌悪を感じるほど大嫌いな野呂と結婚。結婚後も、京子は野呂の人の善さは十分承知しながらも、どうしても野呂のことを好きにはなれない。そんなとき、生まれた子どもは死産。これで生きる意味を失った京子は自殺。そして、一人残される、野呂。
 というのが、あらすじ。野呂があまりに可哀相だ。親友の南条は、京子と交際するようになってから、野呂のことをかまわなくなった。ずっと好きだった京子と結婚できたものの、その京子は南条の後を追う。野呂は何にも悪いことしてないぞ。しかも、どんなに苦しいときでも、善意失ったことないんだぞ。それなのに、なんでこんな目に遭わなきゃならんのだ。しかも、野呂は「彼女が生きている間は、ぼくは自分勝手な自惚れと独善主義に満足していました。ひとりよがりの善意を押しつけられるたびに彼女はどれほど、ぼくを嫌悪したでしょうか」と自分を責めている。野呂のどこが独善的だっていうんだよ。京子のことで頭がいっぱいで野呂のことを忘れた南条や、野呂の善意を受け入れられずに勝手に南条の後を追った京子のほうがよっぽど独善的じゃないのか。なんで野呂がこんなに苦しまなきゃいけないの。悲しい、悲しすぎる。
 ということで、以上。ほんとに自分の感想だけで終わってしまいました。この話を通して遠藤さんが何を言おうとしたのかは、ここでああだこうだ言うほど僕にはわからないので、これで許してください。
2000年11月15日 水曜日 遠藤周作「砂の城」 新潮文庫 pp.1-76
 今日から、「砂の城」です。10年以上前に死別した母親が娘に宛てた手紙から、話が始まる。このすごくロマンチックな始まり方でいっきに話に乗せられる。その手紙の最後に書かれていた、「この世のなかには人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそれが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかしれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの。」という文章がおそらくこの話のテーマ。
 以前この本を読んだときの記憶によると、この本に描かれているものは苦しい生き方で、いわゆる美しいものではなかった。それに主人公の母親が手紙で描いてるのは戦中の苦しい生き方だった。となるとたぶんこの本が語りたいのは、苦しい中での美しいものの意味でしょう。どういう意味を語ってくれるのか楽しみな一方、たぶん十分に理解できないんじゃないかなという思いもあります。(以前に読んだときはもう一つ釈然とはしなかったし。感覚としてはなんとなくわかったような気はしましたが)。ということで、また明日。
 …美しいものか。たぶん、美しいものは手に入らないからこそ(orずっと持ち続けることはできないからこそ)、「憧れをうしなってはいけない」んだろうな。
2000年11月16日 木曜日 遠藤周作「砂の城」 新潮文庫 pp.77-140
 この話は、主人公の泰子とその親友のトシ(女、念のため)を中心に展開する。親友の2人は、トシが星野という男(たぶん、ろくでもない奴)にひっかかって駆け落ちすることで、別々の対照的な道を歩き始める。泰子はスチュワーデス試験に合格し、一方トシは貧乏暮らし。彼女たちにとっての「美しいもの」とは何なのか。まだはっきりわからない。ということで、また明日。なんとなく寂しさを感じさせる小説だ。
 (非常事態発生のため、来週の20日、月曜日までひょっとしたら更新は手短になるかもしれませんがご了承ください)。
2000年11月17日 金曜日 遠藤周作「砂の城」新潮文庫 pp.141-267
 「砂の城」読了。意外なほど考えさせられることが多かった。以前、読んだときはそんな風には思わなかったのに。
 主人公の母親と「美しいもの」を共有していた恩智氏と主人公の泰子は奇跡的に出会う。そのとき、恩智氏は「この世から悲惨なものを少しでもなくすための一つの石になりたいと考えたんです。美しいことと善いことがいつまでも信じられるようにと思いましてね」と言う。この言葉はわかるような気がするが、話はすんなり流れない。
 その後、主人公はトシの生き方に直面して、「ここはあまりに静かだわ、静かすぎる。でも、わたしたちの人生って、こんな静かな場所じゃないんだもの。母や恩智勝之が求めたものは結局、そのよごれた人生からの逃避であり、慰めだけの場所ではなかったか」と泰子は不意に思う。さて、話がややこしくなってきた。それじゃ、美しいものを求めることは逃避なのか。この本はそういうことを語りたかったのか、うーん。と、ここで、ちと話の流れが読めなくなる。
 結末近くで、泰子は 恩智氏に「生きるって、こんなにむつかしいことかと、この一年で、たっぷり味わいました。一体、美しいこととか、善いことって一体、何なのでしょうか」とたずねる。それに対して、恩智氏は「美しいものと善いものに絶望しないでください」と言った後、「人間の歴史は……ある目的に向かって進んでいる筈ですよ。外目にはそれが永遠に足ぶみをしているように見えますが、ゆっくりと、大きな流れのなかで一つの目標に向かって進んでいる筈ですよ」と言う。泰子が「目標?それは何でしょうか」訊ねると、恩智氏は「人間がつくりだす善きことと、美しきことの結集です」。
 さあ、この恩智氏の言葉をどう感じるか?ただのきれいごとと感じることもできるでしょうが、僕はこの言葉を信じたい。この考え方はもともと僕の信念だし。ということはともかく、泰子が厳しい現実に直面して、「美しいもの」を一度は「逃避」と疑ったということが意味のあることだと思う。その泰子は、結局、恩智氏に答えを求め、おそらく「美しいもの」の価値を再認識したはず。そう、泰子はこの本の出だしで書いてあった「美しいものへの憧れを失わなかった」のだろう。おそらく、美しいものに対する憧れは、美しいものを否定したくなるような現実に出会った後でこそ、さらに必要となるものなのだろう。
 この本の解説で、「賢い女・泰子がトシの愚かさを肯定しうるまでに賢くなっている」と述べられているのは、良い解説だな、と思った。これを美しいものに置き換えると、「美しいものは、美しくないものを受け入れてこそ、さらに美しいものになる」ってことになるでしょう。
 ということで、以上。この本は良い本だと思う。
2000年11月18日 土曜日 遠藤周作「わたしが・棄てた・女」講談社文庫 pp.1-70
 今日から「わたしが・棄てた・女」です。この作品はかなりあちこちで聞くような気がしますが、気のせいでしょうか?それはともかく、今日は「ぼくの手記」というタイトルがついてる部分を終えましたが、いやになるほど退廃的な雰囲気が漂ってます。この「ぼくの手記」は、主人公の森田ミツを棄てた男の手記という形です。それにしても、主人公の森田ミツのなんと魅力のないことでしょうか。こんなに魅力ないヒロインはあまりいないぞ。というか、ここまで魅力のなさを伝える遠藤氏の文章はそれだけでけっこうすごいのかも。うーん。どんなに魅力ないかを具体的に伝えるのはやめておきます。たぶん、聞くにたえないものになるでしょうから……。
 ぜーんぜん魅力のないミツですが、一つだけほっとするのは人の善さというか、困っている人を見るとほっとけないというミツのあたたかさでしょうか。でも、「ぼくの手記」ではこのミツの人の善さが、かえってミツの魅力なさを増幅させています。良いところを使って、悪く感じさせるというのも、なかなかすごいのかも。
 ということで、また明日。
2000年11月19日 日曜日 遠藤周作「わたしが・棄てた・女」講談社文庫 pp.71-272
 「わたしが・棄てた・女」読了。この本は…すごいかも。
昨日、「ぼくの手記」の部分を終えた、って書いたけど、大嘘だった。「ぼくの手記」が3つ続いた後、語り手がミツに移ったので、これで「ぼくの手記」は終わりかと思ってたけど、そうじゃなかったです。いちど、ミツに語り手を移して、また「ぼくの手記」に移って、と不規則的に交互に語り手は代わってます、この小説。
 で、一度、語り手がミツに代わった部分を読んでいると、「ぼくの手記」ではまったく魅力なく描かれていたミツのなんて魅力的なことでしょう。ミツほど魅力的な人でも、見る人によっては魅力なく見えちゃうんだということを痛感。
 で、ミツを魅力的に見せた後、また「ぼくの手記」に戻るんですが、この「ぼく」こと吉岡は、たぶん僕のかなり嫌いなタイプの人間。というか、こいつのろくでもない部分は多かれ少なかれ誰でも持ってるんだろうけど…。ということはわかってるんだけど、やっぱやな奴。
 で、この本の中盤、ミツがハンセン氏病にかかっていることがわかった辺りは、読むのがホントつらかった。ミツの人の善さに共感して感情移入してるだけに、読み進めるのをいっそやめようかと思ったぐらい。僕はかなり鈍いほうなんで、こういう気持ちになることはめったにない筈なんだけど。それだけにこの辺りのリアリティはすごいと思った。
 ハンセン氏病の療養所にて、修道女がミツに言う言葉。「この病気は病気だから不幸じゃないのよ。この病気にかかった人は、ほかの病気の患者とちがって、今まで自分を愛してくれていた家族にも夫にも恋人にも、子供にも見捨てられ、独りぼっちになるから不幸なのよ。でも、不幸な人の間にはお互いが不幸という結びつきができるわ。みんなはここでたがいの苦しさと悲しみとを分けあっているの。この間、森田さんがはじめて外に出た時、みんながどんな眼であなたを迎えたか、わかる?みんなは自分も同じ経験をしたから、あなたが一日でも早く、自分たちにとけこむ日を待っていたのよ。そんな交わりは普通の世間では見つけられないわ。ここにだって、考えようによっては別の幸福が見つけられるのよ」。自分の苦しみと同じ苦しみを味わったということによって分かりあえる関係があるのはたしかだけど、自分で味わってはじめて他人の苦しみがわかるっていうのはちょっとさびしいこと。自分で経験しないことは、わかりにくいもんな、やっぱ。
 さらに修道女が「ぼく」に宛てた手紙の中の言葉。「平凡な娘、ミッちゃんであればこそなお、神はいっそう愛し給うのではないかと思ったのです。(中略)私たちの信じている神は、だれよりも幼児のようになることを命じられました。単純に、素直に幸福を悦ぶこと、単純に、素直に悲しみに泣くこと、−そして単純に、素直に愛の行為ができる人、それを幼児のごときと言うのでしょう」。愛の行為を、偽善も努力も忍耐も思考もせずに、「素直に」自然にできることがいちばん大切なことってのはわかってるんだけど、なかなかできないこと。また、そんなことを行動に移している人もなかなか見れない。小説のなかでそういうふうに描かれている人もいるけど、そういう時でもどこか「素直」じゃない部分も感じちゃうものなんだよな。でもミツは違う。それまで、ほんとに平凡に描かれていたミツは、平凡なまま、「愛の行為」をしている。それもたいそうなこと、難しいことをやっていると感じさせずに。ほんとに、いつのまにか、きづいたら、よく考えたら、ミツの行為はすごいことなんだ、って思わせられる(よく考えなくてもすごいことやってるんだけど、それをそう感じさせないのがミツのすごいところ)。素直な愛の行為を実際に示して見せてくれる、ミツ&この本はすごいなあって思った。
 「ぼく」の最後の言葉。「しかし、この寂しさはどこからくるのだろう。もし、ミツがぼくに何か教えたとするならば、それは、ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに痕跡を残すということなのか。寂しさは、その痕跡からくるのだろうか。そして亦、もし、この修道女が信じている、神というものが本当にあるならば、神はそうした痕跡を通して、ぼくらに話しかけるのか」。寂しさという痕跡を通して、神が話しかけるっていうのは、わかっているようでわかっていなかった感覚。今でもわかっているようで、わかっていないんだけど。
 この本はすごい本だったな。以前一度読んだだけだったけど。そんときゃあまり良いと思わなかったんでしょう。(思ってたら、3回4回と読み返しているはずだから)。
2000年11月20日 月曜日 遠藤周作「真昼の悪魔」新潮文庫 pp.1-40
 今日から「真昼の悪魔」です。ミステリー仕立ての小説ですが、テーマは悪。「スキャンダル」と同系統の本です。少し前から読みたくてうずうずしてたんですが、しばらく本業の方が大詰めだったんで、こういう混乱を巻き起こさせる本は意図的に避けていました。で、本業は一段落ついたので、迷いなくこの本を、ということです。
 主人公の女医は、自分が良心の痛みを感じないことを気にかけている。少し、「海と毒薬」を思い出してしまった。で、その女医は、「悪とは一体、なんだろう。世間で言う悪。たとえば何かを盗む。人をだます。それは相手には迷惑をかけるだろうが、それ以上の何ものでもない。悪というようなものではない。人を殺す。しかし人を殺すのはほとんど貧しさや憎しみや欲望が伴っている。それ相応の理由がある。それ相応の理由があって人を殺すことが悪だとはとても思えない。また人を殺してはいけないと言うのは社会の秩序を保つため、たがいの身の安全を保証しあうための約束事にすぎないから、これを破っても良心をえぐるような辛さを感じるとはとても思えない。むしろ犯行が発覚しないか、発見されないかという不安や怖れのほうが人間には強いのだ」なんて、「悪」の意味を真剣に考えてしまう、やばい奴。やばいといえば、実験用の二十日鼠を自分の手のひらの中で握り殺して快感を味わっているのも相当やばい。それだけじゃなくて、精神薄弱児の少年にも二十日鼠を握り殺させる快感を教えてしまうとんでもない奴。
 というようなやばいことが、わずか40ページ読んだだけでわんさか出てくる。さあ、どうなるんでしょうねえ。ということでまた明日。
 正規遠藤周作コーナーに「砂の城」と「わたしが・棄てた・女」の紹介文を加えました。出来はあまりよくないのですが、もしよければ見てください。すこしレイアウトも変えてみましたので。
 それと、最近まったく人影のない掲示板のほうで、質問企画をやってますので是非よろしくお願いします。
2000年11月21日 火曜日 遠藤周作「真昼の悪魔」新潮文庫 pp.41-190
 相変わらず、悪行の数々をおこなう女医。こいつは本当にひどい奴だと思う反面、この女医はある意味、真面目で純粋すぎるんだろうなとも思う。だって、「でも、わたくし、このひからびた心を治すため、色々なことをやろうとしてきたのです。この乾ききった、無感動な心を引き裂いてくれる鋭い痛みが欲しいんです。良心の呵責という痛みを感じたいんです…」と言ってるぐらいだから。ふつう、どういうことをしたら心が痛むのか、またその心の痛みは「本当の」痛みなのか、ということはこの女医ほど突き詰めて考えないもん。そういうことをしたら、心が痛むだろうと思うから、しないだけでしょ、ふつう。また、何かをした後、心が痛んだと思ったとしても、それが本当に「良心の呵責」による痛みかどうか見極めることは難しいから、とりあえず良心の呵責によるもんだと自分に思いこませてごまかしているだけのような気もするし。だから、普通の人は、この女医ほど真面目に生きてないから「悪とは何か」について真剣に悩まないですんでいるだけじゃないかな、と思う。
 でも、良心の呵責を感じるかどうか試すために次々と悪いことするっていうのは、アプローチとしてよくないような気が。女医が相談した神父も「良心の呵責を求めるために悪を行うよりも心の悦びを得るために善いことをなさい。それが、あなたのひからびた心に救いを与える方法です」と言うが、僕もこのアプローチの方が良いと思う。一度、良心の呵責とは何かを突き詰めて考えはじめると、どんなことをしても良心の呵責に苛まれることがなくなってしまうような気がするから、逆のアプローチの方が良いんじゃないかなと思う。でも、女医はこの神父の言葉を「別に聴かなくてもよい紋切型の公式的なもののように」思ってしまうわけですが。
 その女医は不意に次の声をきく。「(何という空しい……)耳の底でひとつの声が彼女に囁いた。お前は悲しくないのか」と。そして女医は「悲しい。こんな心を持ってしまったことは本当に悲しい」と答える。こういうふうにふとした瞬間、神の声のような内面の声が聞こえるというのは、遠藤文学でよくでてくることだけど、この声の真偽と意味はいつもながら僕にはよくわからない。きっと時間がもっと経てばわかるようになるんだろうけど。
 この小説は、4人の女医のうち誰が悪の女医なのか最後までわからないようにしてあり、難波という学生がその正体を暴くことに挑戦するというミステリー仕立てで、話の流れを追うだけでもけっこう楽しめます。
2000年11月22日 水曜日 遠藤周作「真昼の悪魔」新潮文庫 pp.191-275
                宮本輝「焚火の終わり(上)」集英社文庫 pp.1-92
 「真昼の悪魔」読了。
 悪とは悪魔とは何かに対して、明快な答えが示されている。「でもわたくしがその人体実験をやらばければ……うちに病院の三人の患者はおそらく手術もできず衰弱していったでしょうね。一匹の羊を犠牲にして99匹を助けるほうをわたくしは選んだのですけれど」という女医。この女医の言葉を聞いて、神父は思う。「巧妙な理屈。その巧妙な理屈はその上、人間にたいする善の定義をひそかに覆している。善を質で測ろうとせず、量で測ろうとしている。愛のかわりに効果だけしか考えていなかった」と。さらに、神父は最後に「現代人のほとんどはもう何が善で何が悪かわからなくなっている。善とみえることが悪をつくり、悪と思えることが意外と人間によい結果を与える−そんな混乱した世界にあまりに長く生きてきたからだ。そしてその結果、どんな価値も素直に信用できなくなり、心は乱雑な部屋のように無秩序になり、無秩序は精神の疲れと空しさを作っている。悪魔はそこを狙ってやってくるのです」と言う。
 ここを読んで、神父の言う「善」とか「悪」とはいったいなんなのだろうか。善と悪はそんなに明確に区別できるものなのだろうか。というふうに思わなくはないけど、具体的に効果を現すものが善ではなくて、むしろ悪の可能性が高いっていうのはそうかな、と思う。具体的な効果があるなら、それが本来「悪」の行為であったとしても、「現実に効果があるのだから」と自分に言い聞かせて、良心の呵責をまぎらわせて、おこなってしまうのかもしれない。と考えると、自分にも思い当たることが……。大事なことは、効果があるからという「悪魔の囁き」に惑わされず、自分の心をしっかり見つめられるかどうかなんでしょうね。
 この本は、「悪」を正面から扱うことで、善とか悪についてより深く考えさせることに成功していると思う。善だけ考えてたら見えてこないようなことが見えてくるような気がするから。
 ということで、「真昼の悪魔」は終わり。本屋で宮本輝の文庫が新刊書として並んでいて、思わず買ってしまった。ので、今日から「焚火の終わり」を読んでみます。詳しいことはまた明日からということで。
2000年11月23日 木曜日 宮本輝「焚火の終わり(上)」集英社文庫 pp.93-167
 この本は、島根県の海沿いの岬の家と京都市(左京区)を舞台に展開してます(今のところ)。なんか宮本輝って大阪の下町と並んで、日本海側の寒村が舞台になることが多いような気がする。憶えているのは、他に「海岸列車」ぐらいだけど。そういや「海岸列車」も兄妹の話だったな。というのは、この本も兄妹の話だから。そのせいかなんとなく雰囲気も「海岸列車」の雰囲気に似ているような気がする。
 この本の帯に、「二人は禁忌の河を越えた。愛し合うことが罪だなんて、人間の道徳は誰が決めた!?快楽の根源」なんていう過激な文字が踊ってたから、やれやれあまり好きなタイプの本でもなさそうと思いながら、読み始めたのですが、意外に宮本輝の中では好きな雰囲気を持っている本だな、ってのが今のところの印象。最近読んでいたのは以前読んだことのある本ばっかりで、おぼろげながらも話の流れは憶えている本ばっかりだったので、読んだことのない本を読む楽しみを久しぶりに味わえそう。けっこう楽しみながら読んでます。どうなるんだろう?って。
 話の流れとしては、兄妹の出生の秘密が鍵になっています。ということでまた明日。
2000年11月24日 金曜日 宮本輝「焚火の終わり(上)」集英社文庫 pp.168-305
                宮本輝「焚火の終わり(下)」集英社文庫 pp.1-129
 だんだん、話は過激になってきましたねえ。兄妹かどうか不確定なまま、結ばれ快楽をむさぼる2人。でもそれほどいやらしい感じはしないのはなぜ?
 それはともかく、この前読んでた遠藤周作の「真昼の悪魔」とよく似たテーマかもしれない。読んでるときに2カ所ほどここで引用しようと思ってた箇所があったので、今探していたのですが、どうしても1カ所見つからない…。ま、いっか。ということで引用は1カ所だけに。
 下巻の95ページ。「自分のなかに生じたさまざまな理性の角は、自分を正当化するための観念の遊びだった。それは、自分のしていることに自信がなかったからだ。心を誤魔化そうとして理性という名の詭弁を弄したにすぎない。そんなことをしているうちに、やがて自分自身が心に誤魔化されてしまう。それは、とてもおそろしいことなのだ」。
 似た考え方は、「真昼の悪魔」を読んでるときも出てきたような気がする。たしかに、自分を正当化したいときに、論理的に自分のやっていることは正しいのだって思いこもうとする傾向は、誰しも持っていると思う。論理的に考えることによってはじめてわかることも多いのは確かだろうけど、「自分自身が誤魔化されてしまう」ことも多いことは注意しなきゃな。
 で、様々な自己正当化をはかろうとして、いろんなこと考えたり、快楽をもたらすという事実は確かなのだから「なにが悪い」と開きなおったりしている2人ですが、最後に行き着くところはどこなんでしょう。この本を動かしているのは兄妹の出生の謎なんですが、その謎は最終的に解明されるのか、それともわからないままなのか。もし真実がわかったとしたら、その真実をこの2人がどう受け止めるのか。というところは早く知りたいところですが。
2000年11月25日 土曜日 宮本輝「焚火の終わり(下)」集英社文庫 pp.130-276
 「焚火の終わり」読了。うーん、なっとくいかん。とりあえず、順番に。
 132ページ。「自分だけが隠し持つ秘密の快楽を燃料にして、そこから聖なる何物かを生みだす…」。わかるようなわからないような…。秘密が何かを生み出す原動力になることは大いにあると思うけど、秘密が原動力になったものを「聖なる」というのはかなり抵抗がある。でも、どうなんだろう。人間というのは悪も善も包含した混沌とした存在なのは確かで、秘密とか悪とかを原動力としたものから「聖なる」ものを生み出せないなら、人間には聖なるものは生み出せないってことになっちゃうな。でも、この話で語られている兄妹には、秘密の快楽が聖なるものを生み出すとはいわせたくない。なんか、偽善・自己正当化のにおいがする。作者および作中の兄妹はこのにおいを消そうとしているのかもしれないけど、消えてないような気がする。人間は聖なるものを生み出すことはできるのかもしれないけど(と思いたいけど)、自分が生み出したものを「聖なるもの」と思った瞬間、それは聖なるものじゃなくなってしまう。そんな気がする。
 225ページ。「二人のことで、人間として思考しなければならない問題はたくさんあると世間の常識は言うであろう。しかし、自分たちの人間的幸福は、世間の法と抵触しない。自分たちのおこないは、人を殺しもしないし傷を負わせもせず、人のものを盗みもしなければ誰かを欺いて金銭的損害も与えない…」。たしかに、「世間の常識」が必ずしも正しいわけではなくて、なぜそれが「常識」とされているのかの根拠はどこにも見つからないことも多い。世間の常識は、一度はその妥当性を疑ってみることは大事なことだと思う。この二人が人間的幸福を味わっていることは認める。そしてその幸福が、他の人に迷惑をかけていないことも認めよう。でも、だからといって、自分たちが幸せで他人にも迷惑をかけないことだったら、なにをしてもいいのか。僕はいやだ。この二人が人間的幸福を味わうために、世間の常識を疑うことは別にかまわないと思う。でも、この二人はあっさりしすぎてる。もっとやましさとかうしろめたさを持っていて欲しいような気がする。この二人の態度は開き直りすぎ、と僕は感じたし、嫌悪感も持った。まったく親しみわかないよ、この二人には。ぜんぜん感情移入できへん。
 あと、結局2人の出生の謎はあいまいなままだったのにも腹立つ。宮本輝は、謎をかけといて、結局その謎を解かないまま、「そんなことはどうでもよかったんだ」というのりで終わらせることは多いような気がする。それ自体が悪いことだとは思わないけど、この作品に関しては「卑怯だ」と少し感じた。この出生の謎があるからこそ、この話をどんどん読み進める気になったのに、話に引き込むための道具に使っただけで、あとはほったらかしかい。…と、いうふうに「謎を道具」と感じさせた時点で、この本は失敗作やね。手段として謎をもってくるのはいいんだけど、それならそれを「道具」「手段」と感じさせないように使わんかい。それができないんだったら、けじめとしてちゃんと謎は解いてくれ。あー、なっとくいかん。宮本輝はこれぐらいのことはできる作家だと思うし、うまく成功してた本もあったと思うけど。だからこそよけいに腹が立つ。
 と、めずらしく酷評になりましたが、登場人物の爽快感とは対照的に、読者には不快感だけが残ったような気がしたので。逆なら(読者が爽快感を持つなら)、良いと思うけど、これはだめだろ。
2000年11月26日 日曜日
今日は読書せず。明日からは遠藤周作の「悪霊の午後」の予定です。
2000年11月27日 月曜日 遠藤周作「悪霊の午後(上)」講談社文庫 pp.1-196
 今日から「悪霊の午後」です。
 遠藤さん自身の「まえがき」があり、そこでは、「この小説はある意味で私の『ジキル博士とハイド氏』である」と明言されている。こういう「まえがき」があるのは珍しいな。
 主人公は謎を抱えた女、南条英子。今日、読んだところでは彼女の2面性の片鱗が見え隠れするぐらい。185ページにある、「悪女というのは悪いことをする女とは限りません。悪運をまわりにばらまく女という意味です。しかし彼女が意識的にそんな行為をやるんじゃない。彼女がいるためにまわりのものの何かが狂うと言った方がいい」という言葉が印象的。このまわりの歯車を狂わす女が、主人公の英子。
 今日読んだところでは、特に言うべきことはなかった。それほど起伏もなく、淡々と読み進めれるという感じで、特にわくわく感もなければ、考えさせられることもなかったように思う。ということで、明日からに期待。
2000年11月28日 火曜日 遠藤周作「悪霊の午後(上)」講談社文庫 pp.197-242
                遠藤周作「悪霊の午後(下)」講談社文庫 pp.1-217
 「悪霊の午後」いっきに読了。妙にぱらぱらと読んでいける本だった。
 次々に周りにいる人の無意識下に潜む暗い衝動を増幅させていく南条英子。各人の心の奥底に潜む暗い欲求を目覚めさせ、人殺しや自殺、女装願望を発見させていく。そのとき、南条は、そうすることによって「本当の自分になれる」と言うが…。
 人間誰しも暗い衝動を抱えているのは確かだと思うけど、それが「本当の自分」かどうかは疑わしいな。自分にそういう部分があることから眼をそむけるのはダメだと思うけど、直視しすぎるのもダメだろ。その一つ一つによって人間は形成されているのだろうけど、その一つだけで形成されてるわけではないだろうから。無視してもいけないし、直視しすぎてもいけない。その辺のさじ加減を見極めることが大事なんだろうな。たぶん。
 それに遠藤さんがまえがきで言っているように、「その秘密の顔は無意識に抑圧された、ある意味で本当の顔だが、しかしそれを表面に出すと我々は社会的に生きていけない場合もある」し。でも、社会的に不具合があるから、表面に出してはいけないと言うのもちょっと抵抗ある。だから、遠藤さんはこの小説で表面に出すことの恐ろしさを詳細に物語ることになったのではないのでしょうか。でも、南条英子によって覚醒?された人の中には、満足感を持っている人もいるんだよな…。結局、場合によるってことか。
 最終的に主人公の一人を自殺願望から救ったのがその男の妻だったというのは、結局人は一人では生きてはいけないということを暗示していると考えて良いのかな?
 ま、こんなところでしょうか。明日からは、遠藤周作「闇の呼ぶ声」です。人間の暗部をテーマにした本が続くな…。
2000年11月29日 水曜日 遠藤周作「闇のよぶ声」角川文庫 pp.1-167
 今日から「闇のよぶ声」。これは推理小説だな。カバーには「心理的探偵法を用いた作者唯一の長篇推理小説」とあるけど、まさにそんな感じ。
 主人公の神経科医会沢が、連続失踪事件の謎を心理学的手法によって解き明かそうとしていきます。純粋に読むのが楽しい本。先がまったく読めないし(以前、2度ほど読んだ筈だけど、結末を憶えていない)。会沢先生も、一見ただのくたびれた親父だけど、必要なときには鋭い面を見せるという、魅力的な人物だし。なんか頼りがいあるよ、この先生。会沢先生の考える心理学的手法も、心理学にまったく無知な僕にとっては新鮮だし。
 文章も平易なんだけどなんか奥行きのある、僕の好きな遠藤文体だし。昨日まで読んでた「悪霊の午後」の文章はなんか薄っぺらいような気がしてたところだから、ちょうど良かった。
 こりゃ、明日には読み終えてしまうだろうな。わくわく。
2000年11月30日 木曜日 遠藤周作「闇のよぶ声」角川文庫 pp.168-304
                遠藤周作「一・二・三!」中公文庫 pp.1-78
 「闇のよぶ声」読了。これは良い本って言っていいのでは?高尚なテーマを掲げているわけじゃないし、考えさせられることもそれほどない。でも、どんな結末が待っているんだろうという楽しみを絶えず失わせずに読ませてくれるし、会沢医師の心理学的洞察もおもしろいし、結末も十分に満足いくものだった。という面で、純粋に推理小説としてもいい出来だと思う。それに加えて、心地よい(?)寂しさで作品全体を包み込むという、遠藤さんの持ち味も十分に発揮されている。一文一文に味わいがあって(それからくる?)しっとりした感じもなんか心地よい。
 というように、一つの芸術作品としての完成度はかなり高いように思った。人生の指針を与えてくれるような本じゃないけど、この本は良い本だな、というのがなによりの感想。
 あと、遠藤さんらしいな、と思ったのが、連続失踪事件の中に一つだけ違う理由のものをおりまぜておいて、それを使って最後をしっとりと締めるという形。その中で、「わたくしたちは恋人ではありませんでした。あなたたちは、なぜ、人の心をそう割りきってお考えになるんですの。人の心に一つ一つ名前をつけてお考えになりますの」という登場人物の言葉を使って、「精神分析などは、人間の心に手を入れることはできるが、心の奥の−そう……ふかい海の底のように心の奥の魂の部分を治すことはできん」とまとめている。この最後の締めは、しっとりとした寂しさを深める効果をうまくもたらしていて、うまいな、と思わせられる。
 作品全体を包む雰囲気は、同じ角川文庫の「灯のうるむ頃」に良く似ているように思う。この雰囲気、大好き。
 「一・二・三」も読み始めましたが、これについては明日以降に。


本棚トップページへ