2000年10月の読書日記

15〜16日 遠藤周作「キリストの誕生」
17〜18日 遠藤周作「深い河創作日記」 *
19〜24日 遠藤周作「侍」 *
26〜28日 遠藤周作「スキャンダル」 *
30〜31日 三浦綾子「泥流地帯」 *

(*印はもう一度読み直したい本)

2000年10月15日 日曜日 「キリストの誕生」 新潮文庫 pp.152-155
 読書日記の記念すべき初日ですが、今日は読書せず。というのも、最近僕の読書時間は主に電車の中だから、今日のように一日中家にいたときはあまり本を読まないんです。
 とりあえず今日は、明日からに備えて、現在の読書状況を説明しておきます。今読んでいるのは、遠藤周作の「キリストの誕生」(新潮文庫)。昨日までで152ページまで読んでいます。全部で250ページほどの本なので、半分を少しすぎたといったところですね。中途半端なところからになってしまいますが、よしとしましょう(してください)。
 …と一度は書いたものの、わずか4ページだけ読むとちょうど8章の終わりがやってきたので、8章を通して少しだけ感想を。
 この8章は「弟子たちとポーロのちがい」と題して、ユダヤ人以外の異邦人に対してキリスト教布教をおこなおうとしたポーロと、まだユダヤ人のみを対象にすることにこだわっていた当初からの弟子達とのちがいを取り上げている。キリスト教が普遍的な宗教へと脱皮するためには、民族を問わないことが当然必要なことを考えると、ポーロの考えとそれを扱ったこの章は重要な章だと思う。なんだけど、初期のキリスト教がユダヤ人のみを対象としていたって事実が意外だったのは、ひょっとして僕だけ?常識?異邦人に対してもわけへだてなく愛を与えたイエスですらも、ユダヤ教の範疇を超えない部分を有していたっていう記述には、けっこうショックだったんだけど…。うーむ、キリスト教も変わることによって、普遍性を獲得していったんだよな。となると、さらなる普遍性を得るためには、これからもさらに変わる必要があるかもしれないってことかな。 
2000年10月16日 月曜日 「キリストの誕生」 新潮文庫 pp.156-257
 今日は久しぶりに読書向きの頭になっていたためか、けっこう読み進み、「キリストの誕生」読了。行き帰りの電車のなかで大半を読んで、帰宅後最後まで読み終える。
 それでは、順を追って感想を。
 キリスト教を異邦人に積極的に布教していくポーロの強さが心に残る。イエスの生前の弟子達が貧しい漁師の出身だったのに対して、ポーロはユダヤ教の教師を志したインテリ出身。この対比は興味深かった。ポーロは、理性的に物事を考え、キリスト教神学を確立していき、同時に布教にも力を入れる。彼の存在がなかったら、キリスト教の発展はなかったかもしれない。という点は認めつつも、ポーロが自分の考えに自信を持ちすぎるという、インテリが陥りやすい欠点を有していたとして描かれているのはおもしろかった。どちらかというと、ペテロのような優柔不断な人物のほうに僕は惹かれるのだが、ポーロの存在がキリスト教には必要だったのも事実。物事が進むためには、この両者のどちらも必要なのだということだろう。
 ペトロやポーロの死の様子を窺わせる資料が全く残っていないという事実には少し驚いた。この初期キリスト教にとって重要な人物の死は、華々しい殉教を遂げたものとして語りつがれてきたのだろう、となんとなく思っていたからだ。実際に彼らの死が、遠藤氏の言うように「あまりにあわれな死」だったために、「語れなかった」のかどうかはわからないが、彼らの死の様子がわからないという事実には何らかの意味があるようには感じた。
 この本のテーマは、「イエスの生前には弱い弟子達が、イエスの死後なぜ強い信仰の持ち主に変わったのか」という点と「みじめな死を遂げたイエスが、その死後なぜキリストとして信仰されるようになったのか」という点だろう。この点は確かなのだが、この本を読み進めている時、遠藤氏がこの問いに答えを出そうとしているようには思えなかった。最終章で、この問いかけを改めて取り上げているが、それならこの本に必要だったのは、この章だけだったのではないか、と一瞬思ってしまった。さらに、この最終章でも明確な答えは出されず、「よくわからない」が結論となっている。ここに至って、この本は失敗作ではないか、という考えが頭をよぎった。しかし、今は、「答えが出せない」というのが「これ以上ない答え」だと思っている。そう、この問いかけには「答えを出すべきではない」のだろう。遠藤氏が述べているように、「ひとつの宗教は、神についての謎をすべて解くような神学が作られた途端、衰弱と腐敗の坂道を転がっていく」ものだろうから、「答えは出すべきではない」。答えが出せないからといって、答えを求めないのではなく、よりいっそう真剣にその問いと向かい合っていくことが必要なことなのだろう。…ということを感じました。
 関係ないんだけど、「解説」って普通読むものなんですか?僕はいつもせいぜい流し読みする程度です。だって、読み終えた直後は、その本の余韻に自分で浸りたいって気持ちが強いから。それに、どうしても、「解説」と「自分がその本から受けた印象」にずれを感じることが多いってのも理由かな。…と言ってしまうと、こんな本の紹介・解説サイトの存在意義がなくなっちゃうかも……。
 明日から読むのは、「深い河 創作日記」(講談社文庫)です。この本を読むのははじめてで、かなり楽しみにしています。だって、研究者の卵としてまがりなりにも文章を書くようになってから、一つの作品を作り上げるまでの苦労がおぼろげながらわかるようになってきたような気がするので、「深い河」という名作に遠藤周作がどのように取り組んだかってすごく興味あるんだもん。大きな期待をもって、明日からこの本を読んでいきます。たのしみ〜。
2000年10月17日 火曜日 「深い河 創作日記」 講談社文庫 pp.1-134
 やはり期待通りだった「深い河 創作日記」(講談社文庫)。「創作日記」の部分は一気に読み終えてしまった(この本には「創作日記」以外にも対談なども添えられている)。以下、順に感銘を受けた部分を列挙してみます(研究者としての視点ばっかりで一般の人には、もしかしたら縁遠い感想かもしれませんが)。
 p.54「人間の哀しさが滲む小説を書きたい。それでなければ祈りは出てこない」。まだまだ構想段階で、ぽつりと書かれていた一言。構想を考えているときに、こういう言葉で自分を奮い立たせる気持ちはすごくよくわかる。僕もよく、「こんなもんじゃだめだ。もっと良いものを書きたい。書けるはずだ」って自分に言い聞かせながら、論文に取り組んでいるし。やっぱり同じなんだな、と少しうれしかった。
 p.59「勝呂医師は」。遠藤氏の名を一躍高めた「海と毒薬」の主人公勝呂医師が、構想段階の「深い河」には登場していた?かつての代表作の主人公勝呂医師を登場させたいという遠藤氏の気持ちには胸打たれる。
 p.66「小説を書く途中、私はあるトーンを耳につけるため、屡々、モウリヤックかG・グリーンの小説を読む」。やっぱり小説家も、こういうことしてるんだ!僕も論文を書くとき、勢いをつけるために小説をよく読みます。主に、遠藤周作と三浦綾子です。良い作品を読んでいると、「こういうものが書きたい」っていう執筆意欲がかきたてられるから(実際には足下にも及ばないんだけどね)。
 p.104「とに角、今度の小説を書いている時が今の私の毎日で一番充実しているのだ。一日の小説予定分を終了すると私の残骸がテレビをみたり、本を読んだり、酒を飲んだりしている」。「深い河」の執筆が軌道に乗りだしたとき。この気持ちもすごくよくわかる。自分も論文執筆が軌道に乗っているときは、論文を書いてる時の充実感に比べると、論文を書いていない時はまさしく「残骸」状態だからだ。「残骸」状態だけど、充実した一日を過ごせたという満足感でいっぱいの「残骸」状態。
 p.104「小説が出来るまではこういうものだ。結局、無意識が書かせているのだ」。無意識のはたらきの大きさはよくわかるが、無意識に対する考え方は、小説と論文で違うのかなとも思う。僕は「無意識のうちに考えてることを、突きつめ問いつめていき、意識の表面に出して(自分で自覚して)それを論理的に人に伝わるように説明する」作業が論文に必要だと思っている(とても難しい作業で、満足いくようにできたことはないんですが)。どちらにしても、無意識の働きの大きさ(逆にいえば、意識していることのあまりの小ささ)は実感としてよくわかる。
 p.122「『沈黙』のように酔わせない。『侍』のように重厚になっていない」。遠藤氏が「沈黙」と「侍」を自分の代表作と考えていたことがわかる。特に「沈黙」については、これ以外の部分でもたびたび登場し、「沈黙」を意識しながら、「沈黙」を超えるような代表作を、という気持ちで「深い河」にとりくんでいたのがわかる。
 p.126「この小説ではとても大事な部分だが、日本の文壇は無視するだろう」。遠藤周作ほど、業績を残し認められていた人でさえ、自分が大事だと思う部分を認めてもらえないというジレンマを抱えていたことをうかがわせる、興味深い一文。
 p.133「この小説のために文字通り骨身をけずり、今日の痛みをしのがねばならなかったのか」。……。言葉はいらないと思いますが、この一文には深く胸打たれる。と同時に、このように思える作品を書き上げることのできた遠藤周作が羨ましい。
 この「深い河 創作日記」を読んで、最近停滞していた自分の執筆意欲が激しく駆り立てられている。この時期にこの本に巡り会えたことに感謝します。
2000年10月18日 水曜日 「深い河 創作日記」 講談社文庫 pp.135-192
 今日は「深い河 創作日記」の残りの部分を読み終える。「創作日記」の迫力に比べると、正直物足りなかったが、これはしかたないな。
 「宗教の根本にあるもの」で遠藤氏が述べていることは、同意できることが多い。なかでも、「宗教」と「宗教性」を区別していたのは興味深かった。宗教性は、思想でも何でもなくて人間の無意識にあるもので、この宗教性は根底においてはどの宗教でも結局は同じだろうと、遠藤氏は言っている。「同じ頂きを目指して、北から登るか、西から登るか、南から登るかの違いである」と。キリスト教を真剣に求めていた遠藤氏が、このように言っているのを聞くとすごく安心できた。
 「深い河 創作日記」をめぐっての三浦朱門と河合隼雄の対談も付いているが、これはどうでもいいや、と思ったのは僕だけ?特に目新しいことはなかった。河合隼雄が遠藤周作の「スキャンダル」を気に入っているというのは「へぇ」って思ったけど。あ、遠藤氏が「深い河」のなかで「神」を「玉ねぎ」と言い換えているのに、意味があったらしいというのも「へぇ」って思った。大根や人参じゃなくて、「玉ねぎ」なのは必然性があったのか…。河合隼雄は、玉ねぎは「中心だけ求めたら何もなくなってしまう」ものだから「とてもいいイメージ」だと言ってた。
 明日からは「侍」を読む予定です。おそらく読むスピードはかなり落ちると思います。
2000年10月19日 木曜日 「侍」 新潮文庫 pp.1-35
 今日は「侍」初日。ほんの2、3頁読んだだけで、この小説は独特の雰囲気をまといだす。「侍」の世界という別世界が、出だしの2、3頁だけで成立しているのはなぜなのだろう。「侍」という人称を使って話を展開させているためだろうか?それだけではないような。今のところ、わからないな。これから読み進めていくうちに、なんとかこの謎を解きたいな。
 遠藤周作が「深い河 創作日記」で「侍のように重厚になっていない」と言っているが、この雰囲気は「重厚」っていうのが適切なのかな?「重厚」かどうかはよくわからないけど、「江戸時代の東北の寒村」の雰囲気はすごく良く出てるのは確か。さて、読み進めていくうちに、この雰囲気が別種のものに変わるのかどうか。話自体の展開も楽しみだが(確か以前に2度読んだことがあるはずだが良く覚えていない)、遠藤周作の描き方も楽しみです。
2000年10月20日 金曜日 「侍」 新潮文庫 pp.36-113
 「東北の寒村」から使者として異国へ旅立つ侍。少しずつ雰囲気が変わり出す。この辺りの雰囲気の変化は「うまいっ」と感心させられる。例えば、渡り鳥を眺める侍の心情描写。p.12では「その鳥を眺めるたび侍は、彼らが生涯訪れぬ国を知っているのだなと、ふと思うこともあったが、羨む気はあまりなかった」。それがp.51では「その鳥はあるいは自分が赴くノベスパニアという国から来たのかもしれなかった」。ただこれだけのことと言えばそうなのだが、こういうちょっとした描写が見事に雰囲気を変化させている。簡単そうに見えて、なかなかこうは書けないな。
 船出とともに雰囲気はかなり明るくなる。しかし、序盤から続く、決して不快ではない心地よい「暗さ」は依然として続く。東北という土地ではなく、東北で生きてきた「侍」という人間自身が発散している「暗さ」なのだろう。しかし、この暗さは実に心地よく落ち着く。この落ち着きをずっと感じていたいという気持ちが、本を先に進めさせる。実にうまい。
 一つ疑問なのが、「侍」と並ぶこの小説の主人公「宣教師」が、船出とともに「私」と一人称で語られはじめることだ。この意図はいったい……?
 それにしても、「沈黙」といい「女の一生」といいこの「侍」といい、遠藤氏は異国人を一人称で語らせるものだ。あえて異国人を一人称で描くことによって、日本人を相対化する効果がもたらされている。それにその描写にリアリティは十分にある。これもすごいな、といつも感心させられる。
2000年10月21日 土曜日 「侍」 新潮文庫 pp.114-210
 メキシコに到着してから、「侍」の考え方に変化が起きる。日本にいる時には運命を動かぬものとして受け入れていた「侍」が、しだいに「この旅が自分の運命に挑むことのような気がした」と考えるようになっている。この侍の変化に伴い、小説のまとっていた雰囲気も変わる。それまでの「侍」の発散していた暗さはなくなる。この暗さは非常に心地よかったため、なんとなく落ち着きのない違和感を感じるようになる。これを狙っていたのだとしたらすごいけど、そこまではないか。この「侍」の変化が何をもたらすのか、という気持ちが頁を進めさせる。
 もう一つ興味深いのは、宣教師ベラスコの持つ2面性。「彼はもう日本で布教する野望に憑かれた宣教師ではなく、小さな村で息を引きとる老婆を看取る一人の神父と同じだった」。という文章に現れているように、普段の彼は決して好ましい宣教師ではなく、野望に満ちた策略家だ。なのに、病人や怪我人が出たときは、けっして偽りではない、本当の優しさを示す。この宣教師の行き着くのはどこなのだろうか。
2000年10月22日 日曜日
 本日は完全休養につき、まともな文字はまったく読んでいません。読書もなし。メリハリをつけるために、週に1度くらいはこういう日がないと。
2000年10月23日 月曜日 「侍」 新潮文庫 pp.211-290
 p.246「日本人には本質的に、人間を超えた絶対的なもの、自然を超えた存在、我々が超自然と呼んでいるものに対する感覚がないからです。(中略)この世のはかなさを彼らに教えることは容易しかった。(中略)だが日本人はそこから決して飛躍しようとはしない」(30年ほど日本で布教生活を送った神父の言葉)。僕は日本人だから、日本人が他民族に比べてこういう感覚を持たないのかどうかはわからない。しかし、この小説の中では、キリスト教を信じていなくても、利を得るという現実的動機からキリスト教の洗礼を受ける日本人が描かれている。彼らは本当に神に対する感覚がないのかどうかに対する遠藤氏の答えは、読み進めるうちに出されることでしょう。利を得るために改宗した日本人の中で、ただ一人本当にキリスト教を求めているかのようにさりげなく描かれている与蔵の存在が気になる。もちろん、洗礼を受けながら「形だけのことだ」と執拗に自分に言い聞かしている「侍」の心情も。
 宣教師ベラスコにも変化が起こる。自信に満ちた策略家だったベラスコがついに挫折する。自分に自信を持っていた時、彼は自分の(客観的に見れば)都合の良い考え方を「神の御心にかなう」ものだと言い聞かせることで、自分を欺いていた。挫折することによって、自分の考えに自信が持てなくなり迷いだす。読み手からすると、好感のもてる人物に変わってきた。
 彼らの行く末に待っているものは?悲劇的な結末だということは察しがつくが、それをどのように遠藤氏が描いているかが楽しみ。
2000年10月24日 火曜日 「侍」 新潮文庫 pp.291-422
 「侍」読了。侍はキリスト教に改宗した咎で処刑される。宣教師ベラスコも、暴挙とわかりながら日本に戻り処刑される。
 ベラスコの位置づけはわかったつもり。現実世界で挫折した彼は、それまでの自惚れを捨て、自分の非を完全に理解し、イエス再発見を経て、死んでいく。挫折したときに彼に聞こえた「嗤い声」は、神を捨てさせようとするいわゆる悪魔の囁きだろう。しかし、彼は、自分の失敗を自分の非として正面から受け止め、新たな信仰を築く。そして、イエスの死の意味と重ねあわせながら、神の根付かぬ日本に種をまくため、死を選ぶ。暴挙と知りながら日本に戻ってきたのはなぜかという「問いをあなたさまやこの日本に残して死んでいくだけでも、私にはこの世に生きた意味がございました」という彼の言葉はこの気持ちを的確に表現している。ただし、イエスが罪もなく死んでいったのに対し、ベラスコは同行した様々な罪を犯しているという点は異なる。イエスの死と自分の死を重ねる一方で、ベラスコは自分の犯した罪のためにも死なねばならなかったと自分に言い聞かせている。このイエスとベラスコの違いは決定的なものだが、死のまぎわのベラスコはイエスに愛される存在になっていたことは間違いない。逆に言うと、それまでの自信に満ちたベラスコにはイエスは関心を持たなかっただろう。ベラスコが真の信仰を獲得していく過程として、ベラスコの生涯は読める。この読み方は、遠藤氏の意図からそれほど外れてはいないと思う。
 さて、問題は「侍」の人生の意味。政治の世界に巻き込まれ運命に翻弄された彼は、その現実世界の醜さに気づいたとき、初めてイエスを求めるようになる。ただし、最後まで明確に求めていたわけではなく、徹底的に世間に裏切られ見捨てられてはじめて、自分のそばにいてくれる人(同伴者イエス)の必要性を感じたという程度。ここで意味を持つのが侍の従者で、異国で唯一キリスト教を真剣に求めていた「与蔵」の存在。与蔵は侍に常に逆らうことなく寄り添っていた。ひょっとしたら、遠藤氏は与蔵にイエスを重ねていたのかもしれない。ここぐらいまでしか今のところ僕にはわからない。解説を読むと、遠藤氏は侍に留学を経験した自分を重ねていたらしいが。結局、「侍」の人生とは何だったのだろう?遠藤氏が侍を描くことで伝えたかったことは何なんだろう?残念ながら、今のところわからない。
 という状態なので、「侍」の紹介文を今すぐ書いて良いのかどうか迷っています。とりあえず今日はここまで。
2000年10月25日 水曜日
 今日は読書せず。
2000年10月26日 木曜日 「スキャンダル」 新潮文庫 pp.1-77 & 「侍」再考
 今日から「スキャンダル」。それまで安定したキリスト教作家勝呂だが、勝呂の贋者?が登場し、いかがわしい場所に出入りしているという噂が流れたことで、勝呂自身がどんどん不安定な状態に陥っていくという話。何度かこの本を読んでるが、純粋におもしろく話を早く進めたくなる。ものの、よくわからない話なのも確か。
 勝呂のモデルが遠藤氏自身なのは明らかで、遠藤氏が自分のことをどのように考えてるかがわかるのもおもしろい。
 それはさておき、この本に出てきたフレーズを見ることで、「侍」の意味がわかったような気がしたので、今日はこれについて。そのフレーズとは、「一度、神につかまった者はそこから逃げることができない」です。そうか、「侍」で遠藤氏が書きたかったのはこれだ。役目の都合上、便宜的にキリスト教に改宗した侍が、いつしかイエスのことを考えるようになっていた。「ここからは……あの方が、お仕えなされます」という与蔵の言葉に、「侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた」のが侍の最期だったことを考えてもこれは間違いない。この「一度、神につかまった者はそこから逃げることができない」のは遠藤氏自身の思いでもあるし、こう考えると、解説で遠藤氏が「この小説は僕の私小説みたいなものなんだよ」って言ってることとも辻褄が合う。
 なんでこのことに「侍」を読んでるときに気づけなかったんだろう。人の意図を汲むことはほんとに難しいもんだ。
2000年10月27日 金曜日 「スキャンダル」 新潮文庫 pp.78-165
 どうも「スキャンダル」についてはコメントしにくい。この小説の正体が全くつかめないからか。遠藤周作の生涯をかけたテーマとは違うテーマを扱っているからか。とにかく、コメントしにくい。
 話自体はわくわくどきどきで「これからどうなるんだろう?」とおもしろく読めるんだけど。「スキャンダル」のコメントについては口数少ない状態が続きそう。
2000年10月28日 土曜日 「スキャンダル」 新潮文庫 pp.166-310
 スキャンダル読了。やっぱ、不可解な話というのが第1の感想。遠藤氏の意図も結局よくわからなかった。一つの意図としては、p.252にある「今日までつくった私の文学の柱をゆさぶり、それで崩れるか崩れないか、確かめてみたい」というのもあると思う。この話で作られた世界は、遠藤氏の作品に今までなかった本質的に醜悪な世界だから。他の作品では、醜いなかに美しさとか救いとかが示されているが、この小説の醜さにはそれがない。この作品には、遠藤氏の文学が作り上げたものをゆさぶる、という面があったのは確かだと思う。
 でも、それだけではない、と思うものの、よくわからない。ただ、一つ思うのは、よくこんな作品を書けたな、ってこと。この小説を書くという行為自体が挑戦だと思うし、その遠藤氏の挑戦には好意的に拍手をおくりたい。
 それにしても、よくわからん。
2000年10月29日 日曜日
今日は読書せず。でも「侍」の紹介文を追加しておいたので、興味のある人は読んでください。
2000年10月30日 月曜日 「泥流地帯」 新潮文庫 pp.1-100
 少し気分転換したかったので、今日から三浦綾子の「泥流地帯」です。この後は、また遠藤周作に戻る予定です。三浦綾子を読みたくなったのは、新鮮な風を心に吹き込みたかったからでしょう。なんとなく、心に張りの無い状態になってたから。別に「スキャンダル」を読んで陰鬱な気分になったわけではないと思うけど、ある程度「スキャンダル」の影響もあったことは否定できない。
 で、「泥流地帯」。三浦綾子作品で最も好きな作品で、今まで僕に涙を流させた唯一の芸術作品。遠藤周作の一種の暗さというか、現実世界の混沌を感じさせる文体とはうって変わって、三浦綾子の文体はみずみずしい。文章自体になんともいえない勢いがある。この躍動感をもたらしているのは、一文一文の短さだろう。ふつう、あまりに短い文はぶつぎりな感じを与えさせがちなものだが、三浦綾子の場合、文の短さによって勢いがつけられている。これはやっぱり才能だな。今日は100頁ほど読んで話に乗ることができたので、明日以降一気に読んでしまいそう。
2000年10月31日 火曜日 「泥流地帯」 新潮文庫 pp.101-278
 少しずつ「泥流地帯」のテーマが見え隠れしてくる。この本のテーマは「人生における苦難の意味」。小作農民である主人公一家は、朝から晩まで働きづめで、それでも貧乏暮らしの日々が続く。そればかりか、離れて暮らす母は発病し、幼なじみの女の子は借金の肩代わりに売られ、愛馬は死に、……というふうに次々と苦難が襲いかかる。にもかかわらず、彼らの生き方は、誠実で真摯で前向きだ。彼らの生き方を見ているとこっちまで元気に前向きになってくる。とはいっても、苦難に悩み苦難の意味を絶えず模索している、彼らには「なぜ誠実に真面目に生きている者が報われないのか」という疑問が絶えずついてまわる。この疑問に対する答えはいずれ彼らが身をもって証明してくれる。さらなる苦難を乗り越えて。
 それにしても、登場人物一人一人のなんて魅力的なことだろう。主人公の耕作、兄の拓一、祖父の市三郎、恩師の菊川先生、幼なじみの福子、ヒロインの節子、……とこの本の登場人物はいずれも魅力的。この本を読み返すたびに、尊敬できる師や懐かしい友達に再会した気分になる。特に、誠実で勇気ある拓一としぶい優しさを持った市三郎は、とっても魅力的。


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