梨木香歩講演会レポート

2002年4月25日に京都精華大学で梨木香歩さんの講演会「裏庭の周辺を歩く」がありました。僕(管理人のむらさき)は、仕事のためどうしても行けず涙をのみましたが、きみどりさんとカメさん(当サイトの掲示板で活躍中)が講演会の様子や内容などを報告してくれました。梨木香歩ファンとしては、どうしても何らかの形で記録に残しておきたかったので、ここで紹介することにします。
*記憶を頼りに書いているので、不確かな点や誤った点があるかもしれません。その点はご了承ください。



<はじめに>
きみどり&カメです。2人で一緒に梨木さんの講演会に行ってきました。会場は立ち見が出るぐらいの満員でした。会場は大学でしたが、学生だけでなく、様々な年代の人がいましたよ。梨木さんに対する支持の表れでしょうか。私たちは、運良く(?)最前列に座ることができました。そして……

梨木さんの登場です。小さくてきゃしゃで色が白く目鼻形がくっきりとキュートで、想像していた以上に素敵な方でした。すっと湧き出て来たかのように、その場にいるのがとても自然な感じでした。森の中から妖精が現れたかのようです。思わず、恍惚と見とれてしまいました。

そうこうしているうちに、梨木さんの話が始まりました。
以下、梨木さんのお話の中で印象に残った点を抜粋してみます。



<言葉の濫用の危険性>
現在、「癒し」という言葉が、(何にでもマヨネーズやソースをかけて同じ味付けにするかのように)濫用されているように思います。このような言葉の濫用が起こると、だんだん言葉本来の力が失われていき、言葉が使えなくなってしまいます。20年ほど前に「しなやか」という言葉が流行った時もそうでしたが、「癒し」という言葉が再び力を取り戻すまでには30年くらいかかるのではないでしょうか。



<『西の魔女が死んだ』>
濫用されて力を失った言葉のことを考えて、『西の魔女が死んだ』が文庫化されるときには、帯には「癒し」と「不登校」という言葉を使わないようにしてもらいました。

文庫化するまでに初めて書いてから10年近く経っていたので、今、読み返してみると、まいのお母さんに感情移入してしまって、彼女のセリフをずいぶん増やしました。

<むらさき注記>
例えば、新潮文庫版p.179のまいの母のセリフ。
小学館版p.192「言っておきますけれどね。私はこれで一切仕事をやめるつもりじゃないんです。おばあちゃんのような生き方は私にはとてもできないわ」→
新潮文庫版p.179「言っておきますけれどね。私はこれで一切仕事をやめるつもりじゃないんです。おばあちゃんのような生き方は私にはとてもできないわ。私は私の人生を生きるし、おばあちゃんだからといって私にもまいにも自分の生き方を押し付けることはできないはずよ」

文庫版でとっても満足しているのは、私の願いが初めて実現したこと。最後のおばあちゃんの落書きををまいが見つけるところでは、読者もまいと同じように突然それを発見したと思って欲しかったので、ページをめくったところに配置しました。



<『裏庭』>
聖書を意識して、『裏庭』はできるだけゴツゴツした書き方にしました。聖書はゴツゴツした文体で書いてあって読みにくいので、立ち止まってそこで何が書いてあるか考えなくてはならなくなります。おこがましいのですけど、私も『裏庭』は、そういうゴツゴツした書き方をしたいと思ったのです。

『裏庭』では、本来言葉の立ち入らない領域である「イメージ」(個人の内界)を、どこまで言語化できるか試してみました。



<無理やり言語化することの恐ろしさ>
小さい時、読書感想文がすごく嫌いでした(今も嫌い)。言語発達の途中にある子どもが、拙い言語能力を使って自分の言いたいことを正確に言い表すことは難しいと思います。たとえ、無理やり書けたとしても、それで終わったつもりになってしまって、さあ次に行こうとなるのが怖いんいです。例えば、私の場合は『秘密の花園』の感想を無理やり書かずに、イメージのまま放っておいたんですけど、最近になってようやく(十分ではないんですが)言葉に表すことができるようになってきたように思います。

無理やり言語化してしまうと、イメージが貧困なものに、小さなものになってしまいます。無理やり言語化することは、「ふわっとしたもの」を記憶しておこうとする力を消してしてまうことにもなります。無理やり言語化してしまうと、取りこぼすものが多すぎます(100点ぐらいのことが抜け落ちてしまい、1点しか残らない)。

書きたいと思うときが来るまでは、それを無理に書きまとめる必要はないんじゃないかという気がします。



<再び『裏庭』>
『裏庭』では、照美の中で、ここは日本の森、ここは外国の森というふうに、うまく統合して見せました、というのではありません。そうじゃなくて、本来統合できないものなんだというアンバランスの中で私たちは生きているというイメージを伝えたかったのです。こういうことは口で言うよりも(無理やり言語化するよりも)、そういうイメージとして書いた方が分かりやすいと思っています。

イメージだけ伝われば、読んだ人の心の中に(言語するよりも)かえって残って、読んだ人の心の中で分解されやすくて、無意識に収まりやすいと思います。その人なりの吸収のされ方をして一体これはどこからきたイメージの具合だろうと分からないぐらいにその人のイメージの中で(その人の「裏庭」の中で)形を変えて新しい創造の芽が芽吹いてくるそういう風な事態を望んでいました。



<創作のためのワンポイントアドバイス>
外から見て客観的に描写するのではなく、ぐっと手元に引き寄せて自分の中に沈み込ませてみてはいかがでしょうか。「私は」という一人称でずっと書いてみて(「私は〜だと思った」)、その後で、三人称で書いてみます(「まいは〜だと思った」)。そうしてみて、行き過ぎだと思うところをあちこち修正してみると、文章がもっともっと皮膚感覚に近いもの、もっと質感のあるものになって、空気みたいにこちらの濃いものが相手の心にすーっと入っていく世界が作り出せるのではないでしょうか。



<おわりに>
本当に夢のようなひとときを持てた講演会でした。あこがれの梨木さんを見て、声を聞いて、話を聞いて……。30分ほどの質問タイムでもいろんな質問が飛び出して、皆さんの関心の高さが窺えましたよ。講演会終了後、できかけた列にすぐさま並び、梨木さんの著作にサインしてもらった上に、無理を言って一緒に写真をとらせてもらいました。梨木さんは少し照れながらも了解してくださいました。私たちの宝物ができました。日頃の疲れや鬱憤が全部吹き飛ぶような幸せな時間を過ごせました。


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