ねじまき鳥クロニクル
村上春樹の作品の中で僕が最も好きな作品。
この作品は3部作ですが、加藤典洋編『村上春樹 イエローページ』(荒地出版、1996年)によると、「当初、この作品は、未完と断ることなく最初の2部が同時刊行され、そのまま完成作として受け取られたが、1年4ヶ月後に第3部が出て、最終的に3部構成で完結した。このことについては作者は、第2部までの作品と第3部までを加えた作品は、2つの独立した作品と考えてもらってもよい、と言っている」とのことです。
たしかに、第3部は2部までとは、ちょっと雰囲気が変わっていますが、こういう背景があったんですね。この作品を読む上でこのことを念頭に置いておくと、ねじまき鳥の世界を理解しやすくなると思います。
僕はこれまでこの作品を4度読んでいますが、4度目にしてようやくこの作品のことを多少理解できたような気がしています(最初読んだときからこの作品は大好きだったんですが、あまりに不可解なことが多くて全く理解した気がしなかったのです)。そこで、今回この作品を読んだときに気づいたことについてまとめてみます。
この作品が語りたかったことは、おそらく3つです。
1.(自分以外の)人、社会との結びつきの大切さ
2.人間の奥底に潜む不気味な「何か」の存在
3.ぎりぎりの線まで妥協せず戦いつづけることの大切さ
それでは、この3つについて順番に見ていきましょう。
そして、その後で、この3つ以外の様々な謎の、謎解きをします。
*なお、本文を引用している箇所のページ数は、新潮文庫版のねじまき鳥のページ数です。
<1.人、社会との結びつきの大切さ>
この「結びつきの大切さ」がおそらく作者がこの作品を通して最も言いたかったことだと僕は思う。この作品のなかで、「結びつき」は何度も出てきます。というより、この作品自体が、「結びつき」によって構成されているとも言えます。
これは、例えば、第3部の285ページで簡潔に表現されています。
「僕と『客』たちはこの顔のあざによって結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている」。
こんな感じで、この作品では不可解とも思えるぐらいたくさんの結びつきが出てきます。
「世界にはたくさんの結びつきがあり、その結びつきが大切だ」ということは注意してこの作品を読めば様々な箇所で語られていますが、最もわかりやすい形でこのことを表現してくれているのは笠原メイでしょう。
例えば、第3部の194ページ。彼女は「人間がこうして毎日朝から晩までせっせと働くというのはちょっと変なものですね」と言いつつも、「でもそれにもかかわらず、それにもかかわらずです、自分がこんな風に仕事の一部になっていることにたいして、私はぜんぜん悪い気持ちを持っていません。イワ感みたになものもべつに感じない。というよりもむしろ、私はそうやってアリさん的にわきめもふらず働くことによって、だんだん『ほんとうの自分』に近づいているような気さえしちゃうのです。自分について考えないことでぎゃくに自分の中心に近づいていくというみたいなところがあるのね」と言ってます。
笠原メイはそれまで個性的な生活を送っていましたが、その生活は人間社会の歯車からこぼれ落ちてました。その笠原メイが、そんな個性的な生活を送っているときよりも社会の歯車に組み込まれたときに、「『ほんとうの自分』に近づいているような気がした」っていうのは、「結びつきの大切さ」をすごくリアリティに物語っていることだと思います。人間って、社会とか他の人とのつながりとか連帯感とか一体感とか感じたときに、充足感を得られるものなんだな、って。
人間はひとりでは生きられない。ひとりでいると、他人によって惑わされることがなくなって、本当の自分を見つけだすことができるような気もするけど、実際にはそうじゃない。ひとりでいることは、本当の自分からどんどん遠ざかっていることになる。自分が自分でいるためには、他者との結びつきが必要不可欠なんだ。笠原メイの言葉は、そういうことをすごく良く物語っていると思います。
また、この作品の2部では、主人公は、現実と非現実の区別がつきにくくなる場面が何度も出てきます。
例えば、第2部223ページ。「いったいどこまでが現実で、どこからが現実ではないのか、順を追って確かめていかないことにはうまく区別できなくなってしまっていた。ふたつの領域を隔てていた壁がだんだん溶け始めている。少なくとも僕の記憶の中では、現実と非現実とがほとんど同じ重みと鮮明さを持って同居しているようだった」。
この場面で、なぜ、現実と非現実の区別がつきにくくなったかというと、「主人公が現実世界と非現実世界の両方で、加納クレタと関わったから」だと思います。そしてこのことは、主人公も加納クレタも「2人とも」共有している記憶です。こんなことは普通の生活では起こりません。非現実世界(例えば夢)では、どちら一方が一方的にいろんなことを考えることはできますが、相手もその考えを共有しているわけではありません。だから、その世界を「非現実世界」だと考えることができるのです。つまり、現実世界と非現実世界を区別するものは、「自分とその世界を共有している者がいるかどうか」ということだけなのです。このことからも、他者との「結びつき」の重要性がわかると思います。
これに関連したことはまだまだあります。
例えば、第3部のクライマックス。
ここで、主人公を井戸の底で溺れ死ぬことから救ったのは、間違いなく笠原メイの行為です。笠原メイが主人公の助けを求める声を意識の中で聞かなければ、主人公は井戸の底で死んでいたはず。最初、社会の枠から外れ社会をバカにしながらも一人ぼっちで孤独感を味わっていた笠原メイが、第3部になって社会の歯車に組み込まれることによって自分を発見し、最終的には主人公という他者を救っています。笠原メイは、人間のつながりの大切さを発見することによって、自分も救われ、他者をも救っているわけです。
さらに、主人公がクミコを取り戻すことができたのは、主人公の苦闘に加えて、本田さん、間宮中尉、加納マルタ、加納クレタ、笠原メイ、シナモンとナツメグ、牛河などなどが存在していたからです。彼らの誰一人が欠けても、クミコを救い出すことはできなかったわけですから。
こんな感じで、この作品では「結びつきの大切さ」が至る所で語られ、もっとも大きなテーマとなっています(と僕は今回感じました)。
<2.人間の奥底に潜む不気味な「何か」の存在>
この作品で最も象徴的に現れているのが、この「何か」です。
クミコを損なわせたものはこの「何か」ですし、第3部で主人公の「客」が鎮めてもらっているのもこの「何か」です。
ではこの何かとは何なのでしょうか?
これをもっともわかりやすく表現してくれてるのは、次の笠原メイの言葉だと思います。
第2部298ページ。
「暗闇の中でひとりでじっとしているとね、私の中にある何かが私の中で膨らんでいくのがわかったわ。鉢植えの中の樹木の根がどんどん成長していって、最後にその鉢を割ってしまうみたいに、その何かが私のからだの中でどこまでも大きくなって最後には私そのものをばりばりと破っちゃうんじゃないかっていうような感じがしたのよ。太陽の下では私のからだの中にちゃんと収まっていたものが、その暗闇の中では特別な養分を吸い込んだみたいに、おそろしい速さで成長しはじめるのよ。私はそれを何とか抑えようとしたわ。でも抑えることができなかった。そして私はどうしようもなく怖くなったの。そんなに怖くなったのは生まれて初めてのことだった。私という人間は私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうとしているのよ。それは私を貪ろうとしているの。ねじまき鳥さん、そのぐしゃぐしゃは最初は本当に小さなものだったのよ」。
確かに言葉にするのは難しいけど、こんな「不可解な何か」が自分の中にも潜んでいるような気がします。
そして、この「何か」に飲み込まれてしまったのが、クミコなのでしょう。
これは次の部分で端的に表されています。
第2部359ページ。
「それらはおそらくクミコという人間のどこかに潜んでいた光景だったのだ。そしておそらく、あの暗黒の部屋はクミコ自身が抱えていた暗闇の領域だったのだ」。
そして、この「何か」に飲み込まれたクミコを救い出したのは、次に見る主人公の苦闘です。
<3.ぎりぎりの線まで妥協せず戦いつづけることの大切さ>
この作品では、主人公は戦い続けています。
クミコを失った直後に彼は井戸の底に降ります。
そこで主人公は、それまでのクミコに関する記憶を辿り続けます。井戸の底という特異な場所にいて初めて可能になるぐらいの、「ぎりぎりの線」まで彼は意識を凝縮していきます。そして、彼は壁を抜けることができます。この出来事は、「ぎりぎり」まで考えることの重要性を示唆しています。
しかし、初めて井戸の底から、壁の向こうに行った主人公に対して、顔のない男は「今は間違った時間です。あなたはここにいてはいけないのです」と言います(第2部135ページ)。
なぜ「間違った時間」なのかというと、おそらく、主人公の戦い方がまだ足りないからだったからだと思います。クミコをめぐる状況についてもっともっと意識を凝縮して、考え尽くした上でなければ、「壁の向こう」に行ってはいけなかったのでしょう。
この後も、主人公は苦闘を続けます。ナツメグやシナモンに出逢い、いろんなことに巻き込まれながら、戦い続け、核心に近づいていって、ようやく、クミコを救い出すことができたわけです。
そして、これだけの苦闘を経た後だからこそ、
第3部のラストで、
p.462謎の女(あちらの世界にいるクミコ)が主人公に「あなたの確信はほんとうに確かなの?」と問いかけたときに、主人公は「僕は君を連れて帰る」って言えたのでしょう。おそらく、主人公の戦いが甘さを残したものであったならば、この最後の段階で主人公は迷い、最後のチャンスを逃すことになったのではないでしょうか?
また、これに関連して、「そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。憎しみからでもなく恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった」(第3部p.471)。それを「やらなくてはならないこと」と判断できるようになっていたのは、主人公が長い長い時間をかけて、ぎりぎりの線まで妥協せずに戦いつづけたからでしょう。
この「ぎりぎりの線」という表現は以前に笠原メイもしています。
第2部302ページ
「私は自分の中にあるそのぐしゃぐしゃをうまくおびきだしてひきずりだして潰してしまいたかったの。そしてそれをおびきだすためには、本当にぎりぎりのところまでいく必要があるのよ、そうしないことには、そいつをうまくひっぱりだすことができないの」。
そして、この妥協のない戦いは、限られた時間にのみ報いられるものです。
この点に関しては、第2部75ページの間宮中尉の言葉。
「人生というものは、その渦中にある人々が考えているよりはずっと限定されたものなのです。人生という行為の中に光が射し込んでくるのは、限られたほんの短い期間のことなのです。あるいはそれは十数秒のことかもしれません。それが過ぎ去ってしまえば、そしてもしそこに示された啓示を掴み取ることに失敗していまったなら、そこには二度目の機会というものは存在しないのです。そして人はその後の人生を救いのない深い孤独と悔悟の中で過ごさなくてはならないかもしれません。そのような黄昏の世界の中にあって、人はもう何ものをも待ち受けることはできません。彼が手にしているものは、あるべきであったもののはかない残骸にすぎないのです」。
間宮中尉が言うように、一度だけしかない機会に、戦う手を緩めればそこですべてが終わり。人生とは意外に限定されているものなのかもしれない。今の僕はこういうことを何となく感じることができるような気がする。
機会は一度だけしかないということをしっかり認識することによって、はじめてぎりぎりのところまで戦うことができるのかもしれませんね。機会は一度しかない、という緊張感を持って、戦うべきときに戦わなければならない。そして、待つべき時には、戦いの日に備えていなければならない。人生とは、実はこれぐらい厳しいものなのかもしれません。
この作品の大きなテーマについては以上です。
あとはその他の謎について少しだけ書いてみましょう。
<その他の謎>
*主人公の頬にできたアザの意味は?
クミコが救いを求めているということの証、なのでは。
*なぜ、綿谷ノボルは加納クレタを汚したことになるのか?
(結果的にクレタを正しい方向に歩ませることになったにもかかわらず)
第2部p.249の加納マルタの言葉が明確な答え。
「でもうまい具合に、そのときのお前の存在はたまたま本来のお前ではなかったから、それが 逆にうまく作用したのだよ」。
*間宮中尉の話に出てくる「皮剥シーン」の意味は?
答えは第2部p.331/332。主人公の夢のなかで札幌の男が自分で皮を剥いでいき、最後には「肉の塊」になる。この「肉の塊」は、おそらくクミコが飲み込まれ、笠原メイが感じている「何か」と同じもののはず。ということは、「皮剥シーン」はこの話全体のテーマを具体的な形で暗示したものだったはず。
と、ここで思い出すのが第1部p.39/40の笠原メイの言葉。「そういうのをメスで切り開いてみたいって思うの。死体をじゃないわよ。死のかたまりみたいなものをよ」。笠原メイは、死のかたまりが人の中にあるって考えてる。このことも皮剥シーンと類似点が多く、「何か」を示していた表現なんでしょう。
*壁の向こうの世界の「顔のない男」は誰?
間宮中尉でしょう。 第3部p.448で主人公の「あなたは誰ですか?」という質問に、顔のない男は「私は虚ろな人間です」と答えている。あちらの世界に飲み込まれた人間で、虚ろな人間で、唯一の主人公の味方、といえば、間宮中尉以外に考えられない。
とりあえずこんなところです。
この作品には、僕にはよくわからない謎がまだまだたくさんあります。
例えば、第3部269ページでクミコが言う「<駄目になった>というのは、もっと長い時間のことです」というのはどういう意味なんだろうとか、ね。
残された謎の謎解きは、また今度読んだときにじっくりとすることにしましょう。
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