遠藤周作(part2)

<女の一生(1982年、59歳)>
一部「キクの場合」と二部「サチ子の場合」の二部構成。一部の舞台は幕末から明治初期の長崎、二部の舞台は第二次世界大戦時の長崎。一部と二部のつながりは、長崎という舞台と、主人公のキクとサチ子に血縁関係があるという点、大浦天主堂の聖母像が大きな意味を持つ点。そのほかには、それぞれの時代の女性の生き様を描いたという点では共通している。でも、一部と二部は別の物語として読んだ方が良いかもしれない。そこでここでも一部と二部を別々に紹介します。僕は、一部・二部ともにかなり好き。「深い河」は別格としても、遠藤作品のなかで実は一番好きな作品かもしれない(特に二部)。


<女の一生(一部・キクの場合)>
舞台は幕末から明治初期の長崎。幕末に日本にやってきたプチジャン神父が、隠れ切支丹を探そうとしたことから、話は展開する。プチジャンが苦労の末、隠れ切支丹と巡り会ったシーンはとても美しい。何より、江戸幕府の弾圧にもかかわらず200年以上もの間、信仰を捨てずにいた切支丹の存在には、一種の感銘を受ける。

しかし、プチジャンとの出会いによって隠れ切支丹の活動が活発になったため、やがて彼らは奉行所から激しい弾圧を受ける。その弾圧を受け幽閉された隠れ切支丹の一人、清吉を愛していたのが、この小説の主人公キク(彼女自身は切支丹ではない)。何とかして清吉を救い出したいと思ったキクだが、奉行所の役人、伊藤に騙され体を奪われる。そればかりか、清吉を救う金を工面するために、体を売る。やがて、胸を病んだキクは、南蛮寺(大浦天主堂)の聖母像に語りかけながら息絶える。この時のキクと聖母像の会話によって示された、キクに対する「救い」は圧倒的な感動をもって読み手にせまる。自分の体は「よごれによごれきってしもうた……」と言うキクに対して、聖母は涙を流しながら、「いいえ。あなたは少しもよごれていません。なぜなら……」と語り続ける。この感動的なシーンは是非実際に読んでみてください。これが「女の一生 一部」のクライマックス。

でも、「女の一生 一部」はこれだけでは終わらない。キクを騙した卑劣で卑怯な役人、伊藤をも遠藤氏は救おうとする。正直言って、僕が初めてこの本を読んだ高校生の時、この伊藤が憎くて仕方がなかった。「こいつさえいなければ」という感じ。どうやら、当時はまだまだ自分の弱さを自覚していなかった模様^^;。今回、改めてこの本を読んだとき、卑怯者伊藤の気持ちはよくわかったつもりだし、拷問を受けても信仰を棄てなかった「強い」清吉よりも、伊藤の方に親しみを感じた。そして、この卑怯者に対する遠藤氏の優しい眼に、正直ほっとした。伊藤は卑劣で卑怯だが、その自分の卑劣さを自覚し後悔しながらも、行為を改めることができない弱い人間として描かれている。このような弱さは、伊藤ほど露骨で明確な形をとらないとしても、自分の中にも(いや、程度の差こそあれ誰の中にも)確実に潜んでいる弱さだと思う。だからこそ、遠藤氏の伊藤に対する優しさにはほっとする。

後年、伊藤は清吉に対して「自分もキクが好きだった」と告白するが、好きだったにもかかわらず、いや好きだったからこそ自分に振り向いてくれないキクに対して卑劣になってしまった伊藤の弱さはわかるような気がする。キクに愛され信仰を貫いた強い清吉と、キクを愛しながらも卑怯で弱かった伊藤、この2人のことを考えたとき、遠藤氏の「イエスの生涯」などの作品にたびたび登場する言葉を思い出す。その言葉とは、「自分を愛してくれる者のために死ぬのは易しい。しかし自分を愛してもくれず、自分を誤解している者のために身を捧げるのは辛い行為だった」という言葉である(なお、後者の死はイエスの死のこと)。そう、自分を愛してくれる者のために死ぬのは、人間にとってそれほど難しい行為ではないのである。とするならば、清吉はキクに愛されたからこそ強くなれたのではないか。伊藤もキクに愛されていたならば清吉のように強くなれたのではないか。このように考えると、清吉と伊藤の強さと弱さは、紙一重だったように思える。このように思うからこそ、晩年の清吉が伊藤の卑怯さを責めるシーンを読むと、僕は伊藤に同情する。「清吉は状況に恵まれていたからこそ、強くなれただけなのに。結果的に自分は卑怯ではなかったからといって、清吉には伊藤を裁く権利はないんじゃないか(人には人を裁く権利などないんじゃないか)」と思うから。

ここに至って初めて、遠藤さんがたびたび言う「神は弱い者のために存在する。強い者は神を必要としない」という言葉の意味が何だかわかるような気がしてくる。伊藤は晩年、清吉に「20年前、自分は洗礼を受けた」と言う。また、伊藤は晩年になってから清吉に自分の罪を告白している。この伊藤の行為は、かつての卑怯で弱虫だった伊藤には到底できなかった強い行為ではないだろうか。以前の卑怯な伊藤のままだったならば、罪の意識を酒でまぎらわせるだけで何も具体的な行動はせず、時間が罪の意識を薄めていってくれるのをただ待っていたように僕は思う。その伊藤が、神を求め洗礼を受けたばかりか、何十年も経ってから清吉を呼びだして罪を告白するという行為をするほど強くなっているのだ。何十年も経ってから(自分の死を意識するようになってから?)というのが、完全に強くなりきれない伊藤の弱さを表現しているようですごく真実味を感じる。いずれにせよ、伊藤が以前とは変わって少し強くなったのは確かだと思う。このように伊藤を変えたのが「キクの存在」なのは言うまでもないだろう。この物語が、清吉の「もうよか、伊藤さん。おキクさんはあんたに苦しめられたばってん、あんたば別のところに連れていったとたい。そいだけでもあん人の一生は、無駄じゃなかった……無駄じゃなかった」という言葉で終わっていることからも、これは確かでしょう。実際にはキクは清吉のために死んでいったのだが、神はキクの死を伊藤のために用意したのではなかったか、というふうに僕は思う。


<女の一生(二部・サチ子の場合)>
二部の舞台は、第二次世界大戦時の長崎。この二部は大きく分けて2つの物語から構成されている。1つは主人公のサチ子とその恋人修平を巡る物語。もう1つは、アウシュビッツの強制収容所で身代わりの死を遂げるコルベ神父の物語。

まずコルベ神父の物語から紹介します。アウシュビッツの強制収容所の描写は、張りつめた緊張感に満ちている。そこは、人間は自分が生き残るためにはどんなことでもするのが当たり前の世界で、他者に対する愛などはまったく見られなくなった世界です。その愛のないはずの世界で、コルベ神父は自ら進んで他人の身代わりとして死ぬというこれ以上ない愛の行為をおこなう。コルベ神父は彼が常日頃言っていた「愛がない世界ならば、愛をつくらねば」という言葉を実行したのだった。コルベ神父の死後、それまで強制収容所というこの世の地獄で生活していた筈の囚人の一人が「ああ……なんて、この世界は……美しいんだ」とつぶやくシーンには感動させられる。この他にもコルベ神父の物語の最後を締めくくる「ヘンリックはパンをその男にやった。ヘンリックができた愛の行為はこれだけだった。それでもヘンリックは愛を行った」という文章にも胸をうたれる。ヘンリックの愛の行為はコルベ神父には及ばない愛の行為かもしれないが、愛のなかった筈の世界に確実に愛が芽生えたことを示している。

このコルベ神父の物語は、人類史の中で最もひどい出来事の一つである強制収容所の中においても、愛は失われなかったという厳然たる事実を、卓越した語り口で展開したもので、この物語自体にも深く考えさせられる。それと同時に、この物語はこの本の前半に緊張感をもたらす役割も果たしている。そして、この物語の終了とともに、それまで比較的のんびりしていたサチ子と修平の世界にも、一気に戦争の緊張感が忍び寄ってくる。

僕にとっては、「女の一生 第二部」の主人公はサチ子ではなく修平だ。彼は子どものころから教会で「殺すなかれ」という教えを唱えさせられてきたキリスト教の信者で、自分の人生で他人のことを殺すことがあることなど想像したことはなかった。しかし、学生の徴兵延期の廃止とともに、自分が人を殺さねばならない状況に追いやられることに、動揺し狼狽する。この修平の葛藤がこの本の後半を貫くテーマ。修平の葛藤については、僕がここで説明するよりも、実際にこの本を読んでもらった方が絶対によくわかると思う。僕が言えるのは、この修平の葛藤の描写の持つリアリティが圧巻だということぐらいだ。この葛藤を抱えた修平とサチ子の接し方、サチ子の不安な気持ちなど、非常によく伝わる。疑似体験という小説の持つ役割の一つが、これほど見事なリアリティをもって迫ってくる本は、今まで僕は読んだことがない。

結局、修平は特攻隊員に自ら志願し死んでいく。「よりによって、なんでそんなことを」と思う人は多いだろうし、僕も頭ではそう思う。修平が残した手紙の中で特攻隊に志願した理由が述べられているが、その理由は修平自身も述べているように「自分の心に辻褄をつけるための悪あがき」のようにしか思えない。頭で考える限り、修平の決断は理解できない。しかし、頭では理解できないものの、心では彼の決断は納得できるような気がする。自分が修平でも同じ状況に置かれたならば、きっと同じ決断をしただろうな、と。そう、この小説は頭で理解できないことを心に伝えることに見事に成功している。これはすごいことだと思う。戦時下に生きた若者の気持ちに共感できるからこそ、僕はこの小説を読み進めていくとき、いつも震えている。何度となく繰り返し読み返しているにもかかわらず。圧倒的な感動を与えてくれる僕の大好きな作品。



<深い河(1993年、70歳)>
遠藤周作の集大成と言って良い作品。そして遠藤作品の中で、僕がもっとも思い入れのある作品。

この本は、全13章のうち5章が、「磯辺の場合」「美津子の場合」「沼田の場合」「木口の場合」「大津の場合」というふうに登場人物それぞれの「場合」が語られています。そして、この5人の主要登場人物は、全員遠藤さんの分身というべき存在です。例えば、沼田の少年時代の環境は遠藤さん自身のそれとそっくりだし、大津のフランス神学生時代の苦悩は遠藤さんの留学生時代の苦悩とだぶって見える、という具合です。だから、この本では、遠藤さん自身の人生が5人の登場人物の姿を借りて象徴的に語られている、と考えても良いと思います。

こんな感じで、この本では遠藤さんの分身というべき様々な人間の人生が語られるわけですが、その中でもこの本で最も大きな位置を占めているのは、西洋のキリスト教そのものの普遍性を疑い、キリスト教の新たなあり方を模索している「大津の人生」でしょう。この本の中で大津の人生が占める大きな位置は、そのまま遠藤さんの人生における「新たなキリスト教の模索」が占める大きな位置を反映したものだと僕は思います。だからといって、大津以外の人物の人生がこの小説に必要ないかといえばそうではなくて、大津以外の登場人物はこの小説には必要だったのは明らかです。……遠藤さんの人生のすべてがキリスト教に占められていたわけではなく、(沼田に象徴される)少年時代の体験や(磯辺に象徴される)妻への愛情がなければ、遠藤さんの人生が成立しなかったのと同様に。僕がこの本に抱いたイメージは、登場人物5人の名前を借りた5本の河(広さ、深さには差がある)が集まり、やがて一筋の「深い河(=遠藤さんの人生)」となって流れていくというものでした。

具体的な内容面に関しては、一番迫力のあるのは何と言っても大津の生き方とそれに影響されて起こる美津子の変化でしょう。大津によって語られるキリスト教に対する言葉は、遠藤さんが長い人生をかけて煮詰めた言葉だけに、どれもこれもすさまじい凄みがあります。例えば、「それに、ぼくは玉ねぎ(*神あるいはイエスのこと)を信頼しています。信仰じゃないんです」という言葉や、「〜母を失いましたが、その時、母のぬくもりの源にあったのは玉ねぎの一片だったと気がつきました。そして結局、ぼくが求めたものも、玉ねぎの愛だけで、いわゆる教会が口にする、多くの他の教義ではありません。(もちろんそんな考えも、ぼくが異端的と見られた原因です)この世の中心は愛で、玉ねぎは長い歴史のなかでそれだけをぼくたち人間に示したのだと思っています」という言葉、さらには「ぼくはむしろ、神は幾つもの顔をもたれ、それぞれの宗教にもかくれておられる、と考えるほうが本当の対話と思うのです」という言葉。この他にも、遠藤さんのキリストきょうに対する思いがぎっしり詰まった言葉がこの本には溢れています。これらの言葉は、遠藤さんの作品を読んだときに感じることですが、この「深い河」ほど遠藤さんの思いがストレートに表現されている本は他にそれほどないと思います。

大津の生き方を美津子は、「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変わる筈はないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、揚句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。あなたは結局は無力だったじゃないの」と評します。確かに、大津は現実世界では無力でした。だけど、大津の生き方は、空虚感にとらわれ何ごとにも夢中になれなかった美津子をいつしか変化させています。この本のクライマックスで美津子が上の言葉を言うとき、美津子は、「叫び」「石段を叩いて」いるほど本気になっているんですから。美津子にこのような変化をもたらすということが、大津の人生=イエスの人生の意味だったし、このような形で愛の存在を示す人がいなかったら僕たちは人間世界を信じることができないと思います。

美津子はこの話の最後の方で、「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」と言います。この言葉の意味は現時点では、頭で考えても僕にははっきりとわかりません。でも美津子のこの言葉には、何かしらほっとさせるものがあるし、「生きよう」という気になってきます。心に響く言葉です。

最後にこの本に対する僕の個人的なありのままの感想を。この本の読後感は、「あれ? もう終わり?」でした。でも、この本の読後感は、「もう終わり?」で良いんだ、というような気がします。だって、遠藤さん自身の人生をすべて凝縮して詰め込んだようなこの本は、遠藤さん自身の人生そのものと言っても良いと思うから。一人の人間の人生は(どんな充実したものでも)、「これで十分・完璧」って思わせるもんじゃなくて、「もう終わり?」と思わせるものだから。遠藤さんだって本当はもっともっと考えたいこと書きたいことやりたいことがあったはずだから。だから、この本の読後感は「もう終わり?」で良いんだと思う。遠藤さんが生涯をかけてできたのは、「愛の宗教としてのキリスト教に行き着き、それを小説という形で多くの人に理解できる形で示すこと」までだったはず。これだけでも十分ですごいことだと思うけど、遠藤さんだって、本当は、「もっともっと多くの人に自分の考えに共鳴してもらいたい、宗教間の争いをなくしたい、この世のなかにもっと愛を増やしたい」って思いがあったはず。遠藤さんにはそこまでできなかったけど(というか一人の人間の短い人生では誰にもそこまではできない)、遠藤さんがまいた種は確実に僕らを始めとする多くの人々の心の中に間違いなく根を下ろしている(と思う)。その遠藤さんの根付かせた種を実らせるのが(あるいは実らせる努力をするのが)、残された僕らの仕事かな、とそんな風に思う。僕には遠藤さんのように小説という形では表現できないけど、自分でできる形で精一杯の努力はしていきたい。こんな思いでいっぱいになりました。

最後にもう一言。この本で、大津は「あなたは、背に人々の哀しみを背負い、死の丘までのぼった。その真似を今やってます」と言います。ここでの「あなた」はイエスのことで、大津の生き方はまさしく「イエスの真似」なんですが、「その真似を今やってます」という大津の言葉は、僕の耳には遠藤さん自身の言葉として聞こえてきます。遠藤さんは小説という形で、イエスの真似をし、「愛を伝え」てきたんだから。この部分を読むと、遠藤さんに心から「ごくろうさまでした」と声をかけたくなります。遠藤さん、本当にごくろうさまでした。そしてありがとうございました。

*「深い河」に関しては、「2001年2月5日、6日の読書日記」でも長々と扱っているのでこちらもご一読いただけば幸いです。


戻る