遠藤周作
1923年−1996年。代表作は「深い河」「沈黙」「海と毒薬」「イエスの生涯」「キリストの誕生」「侍」など。カトリック信仰に基づいた純文学だけでなく、「ぐうたらシリーズ」などのユーモアあふれる著作多数。

ここでは、これまでの20数年の僕の人生に最も大きな影響を与え続けている遠藤周作の著作を紹介します。僕が初めて遠藤氏の小説を読んだのは、中学生の時でその本は「海と毒薬」でした。当時は、主にその圧倒的なストーリー展開のうまさと読みやすさに惹かれ、遠藤氏の小説を読み漁ったのですが、遠藤氏の小説を読み続けていくうちに、いつしか彼の小説から大きな影響を受けていました。初めて遠藤氏の小説を読んだ中学生の時以来、折りにふれ気に入った小説は、何度となく読み返しています。そのたびに、遠藤周作から受けた影響の大きさを改めて実感しています。

最近読み返していて思うのは、初めて彼の小説を読んだ時には全然彼の考えを理解できていなかったな、ということです。10年近く、彼の小説を読み続けているうちに、以前に比べると多少は彼の考えを正確に理解できるようになったとは思っています。しかし、読み返すたびに違う感じ方を与えられる場合の方が多く、おそらくこれからも時間の経過とともに、小説の読み方は変わっていくのは確かでしょう。こんな段階の僕に彼の小説を紹介する資格があるかどうかは疑わしいですが、彼の生き方と考えた方を、僕が現時点で理解できた範囲内で紹介したいという思いが最近強くなってきました。僕の紹介によって、一人でも彼の小説を読んで何かを得る人がいたならば、これに優る喜びはありません。

なお、僕は遠藤周作や三浦綾子といったキリスト教を信仰する作家の小説が大好きで彼らの考え方に共鳴していますが、僕自身は教会に行ったこともありませんし、キリスト教を信仰しているわけでもありません。だから、キリスト教徒にとっては考えられないようなことを言ってしまうかもしれませんが、その点はお許しください。それに、僕自身は文学者でも評論家でもありませんから、あくまでも普通の愛読者という視点からの紹介という点をご了承ください。


 紹介作品

 海と毒薬
 わたしが・棄てた・女
 沈黙
 死海のほとり
 イエスの生涯
 砂の城
 キリストの誕生
 
 女の一生
 深い河





海と毒薬(1957年、34歳)

この本は、「沈黙」と並んで遠藤周作の代表作と言われる有名な作品。遠藤周作と聞けば、まず「沈黙」と「海と毒薬」を思い浮かべる人も多いでしょう。(実際、僕が初めて読んだ遠藤さんの小説もこの本)。でも、今のところ僕は「海と毒薬」を「沈黙」と並ぶほどの代表作だとは思わない。確かに「海と毒薬」は遠藤周作の名を高めた名作だが、比較的初期の作品(発表は34歳の時)ということもあってか、遠藤氏の著作の最大の魅力(=「優しい眼の存在」)がそれほど明確に感じられない。実際、この本を読んでいる時に、一貫してまぶたに焼き付くイメージは「黒い海」と「灰色の空」という陰鬱なもの。もっとも、米軍捕虜の生体解剖事件という暗い事件が題材なのだから、これは致し方ないのかもしれないけど。

この本に対する評論などは読んだことがないので、一般にこの本がどのように読まれているのか良く知らないけど、新潮文庫のカバーの紹介文や解説では、「日本における神の不在を描き出し、日本人の罪の意識を問うた」というように書かれている。たしかにこれはその通りだと思う。この小説には、生体解剖という非人間的行為に参加しながらも、良心の呵責を感じない人々が描かれている。このことから考えても、日本には神が不在で(世間から受ける罰や白眼視は恐れたとしても)本当の意味での「罪の意識」(良心の呵責)を感じることはないのではないか、という問題提起がこの小説のテーマでしょう。ただ最近この本を読んだとき、遠藤氏は問題提起をおこなっただけではなく、その答えを示しているのではないか、と僕は感じた。遠藤氏が書きたかったのは、「神の不在」なのではなく、「神の不在に悩み、神を求めている日本人」なのではないか。つまり、この小説の主題は、良心の呵責を感じない日本人なのではなく、良心の呵責を感じないことを悩んでいる日本人なのではないだろうか。

とはいっても、彼らに対する「救い」は示されているわけではない。この点は、どんな弱虫も卑怯者も決して見捨てないという、後の遠藤作品に首尾一貫している「やさしさ」を考えると、遠藤作品らしくない。だからこそ、遠藤氏は後に、「海と毒薬」の主人公である勝呂医師を「悲しみの歌」に登場させ、彼に対する救いを提示せずにはいられなかったのではないか。「悲しみの歌」については改めて紹介しますが、そこでは遠藤作品のいくつかに登場する、ガストンというキャラクターによって、勝呂医師が包み込まれている。ガストンは遠藤作品の中で「やさしさ」の象徴ともいえる存在で遠藤作品におけるイエスと言うべきキャラクターで、遠藤作品でもっともやさしい存在が勝呂医師を救おうとするという点そのものが、「海と毒薬」に対する遠藤氏の明確な答えとなっているように思う。



わたしが・棄てた・女(1963年、40歳)

この本のテーマは、「一度でも人生を横切った者は、苦しみや悲しみ、寂しさなどの痕跡を残していく。たとえ、そのとき気づかなくても。そして、この痕跡こそが神の語りかけだ」というものでしょう。忘れたくても忘れられないこと、考えたくなくても考えてしまうこと、が存在することは確かに不思議なことかもしれない。何事でも自分の好きなようにできるのなら、嫌なことは思い出さなくてもすむ筈だけど、そういうわけではない。それはなぜか。この問いかけにはいろいろな答え方ができると思うけど、遠藤氏の答えは、「そういう人間の思い通りにならないことがあることが神の存在を示している、また、その思い通りにならないことをなぜかと考えさせることが神の人間に対する語りかけだ」、というものでしょう。

森田ミツという主人公と、彼女を棄てた男・吉岡を描くことで、この本はこの問いかけと答えを示している。最初から遊びのつもりで何のためらいもなくあっさり棄てたはずのミツのことが、時折吉岡の心に浮かぶ。思い出したくないこととして。そして、ミツの死後、この本の最初で語られているように、吉岡はミツのことを「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女と思っている」と言っている。吉岡は、「ミツは寂しさという痕跡を自分に残していった」、と言いながら、「神というものが本当にあるならば、神はそうした痕跡を通してぼくらに話しかけるのか。しかしこの寂しさは何処からくるのだろう」と言う。おそらく、この寂しさが何処からくるのかという問いかけを考えていくことが吉岡にとっての「人生の意味の手がかり」なのだろう。つまり、人生の意味とは、……。すいません、何となくおぼろげにわかってるような気もするのですが、整理しようとするとよくわからなくなってきました。はっきりとは言えませんが、遠藤氏の言ってることはなんとなくわかるような気はします。

それにしても、この本のミツについての描写はすごい。どこにでもいるような平凡な魅力のない女として、ミツを描きながら、ミツに聖人的行為をいつのまにか簡単におこなわさせてしまっている。聖人的行為はそんなに簡単にできるわけないのに、ミツは「自然に」やってしまう。読む方にも、ミツがそうするのが当然のように思わせてしまう。平凡なミツが自然に聖人的行為をしてしまうことを、当然だと思う気持ちを味わうだけでもこの本は読む価値あり。それにしても見事な文体と描写だ…。



沈黙(1966年、43歳)

名実ともに遠藤周作の代表作。僕が遠藤作品の中で最も好きなのは、彼の最後の長編小説「深い河」だが、「沈黙」の見事なまでの完成度の高さには「深い河」も及ばないことは認めざるをえない。「沈黙」が刊行されたのは遠藤氏43歳のときだが、最も充実していたときだからこそ、これほど完成度の高い作品を生み出すことができたのでしょう(正直に言うと、僕は今回この本を読み返すまで、「沈黙」の完成度の高さに気づかなかった…)。

この本の問題提起は、「西洋のキリスト教は日本には根付かないのかどうか」というもの。この問いかけに対して、結局は棄教に至るポルトガル人司祭を描くことによって、答えが出されている。その答えとは、「西洋のキリスト教はそのままでは日本には根付かない。しかし、日本に根付かないのはあくまでも『西洋』のキリスト教であり、キリスト教そのもの、イエスの考え方そのものが根付かないわけではない」というものである。言い換えれば、キリスト教がより普遍的なものになるためには、西洋的キリスト教がまったく疑われないままでは駄目なのだ、ということにもなるかな。

キリスト教禁制時代の日本に潜入したロドリゴ司祭は、多くの日本人信徒が迫害され殉教していくのを眼にする。そこで彼は、「このような状況を前に、神はなぜ沈黙されているのか」という大きな疑問を抱えることになる。彼にはこのときから「もしかしたら神は存在しないのではないか」という恐れが終始つきまとう。結局、ロドリゴは奉行所に棄教を迫られ踏み絵を踏むのだが、だからといって彼が「神の存在を信じられなくなった」のではないという点が最大のポイント。彼が踏み絵を踏んだとき、彼は重い痛みを感じる。それまでの自分の生涯をかけて最も美しいと思っていたものを裏切るのだから、当然でしょう。だが、そのとき踏み絵のイエスが彼に語りかける。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と。ロドリゴは踏み絵を踏むことによって、それまでのキリスト教信仰を棄てることになったが、それまでとは違った形でイエスの愛を捉え直すことになったのだ。神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたのであり、その神の苦しみを感じた人がいるということ自体が神の存在を語ることになっている、というのが「沈黙」の意味だろう。

殉教という神を信じる行為も神の存在を証明する行為だろうが、それなら殉教という行為が怖くてできない弱い臆病者を神は見捨てるのか、臆病者には救いはないのか、臆病者は神の存在を信じることができないのか、という問いに、遠藤氏はロドリゴ司祭を通して、「そんなことはない」と答えている。形の上では裏切ったことになっても、裏切ることによってしか証明できない愛のかたちがある、強い人間だけが正しいわけではない、と「沈黙」は語っている。ロドリゴが棄教することによって到達したキリスト教は、日本にも根付く可能性のあるより普遍的なキリスト教だったのではないだろうか。

「沈黙」は冒頭で言ったように圧倒的な完成度を誇る名作なので、ここで僕が稚拙な文章で内容を説明しようとするよりも、実際に「沈黙」を読んでいただいたほうがはるかに実感を伴うと思います。



死海のほとり(1973年、50歳)

この本は、「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読む前に読んでもらいたい本。なぜなら、イエスの生き方を正面から扱うという点は「イエスの生涯」「キリストの誕生」と同じだが、「死海のほとり」は完全に小説仕立てとなっているので読みやすいから。また、それ以上に、「死海のほとり」では、「イエスの生涯」の問題提起に至るまでの遠藤氏の思考経緯が窺えるから。実際、遠藤氏自身も、「死海のほとり」は「イエスの生涯」と表裏をなすものだと明言してます。

この本は、イエスの足跡を追いながら現代のイスラエルを旅する2人の男を描いた「巡礼」と、イエスの同時代の人々を描いた「群像の一人」という2つの物語が交互に展開するという形をとっている。どちらの物語も、遠藤周作らしい抜群の展開のうまさで読み手を飽きさせずとても読みやすい。特に、「群像の一人」の物語はどれも非常におもしろい。このなかでは、イエス時代に生きた人物たち(大祭司アナスや百卒長など)が、遠藤氏によって生命力を吹き込まれ、生き生きと描き出されているからだ。

もちろん、読みやすくおもしろいだけではない。この本を読んだときには、「イエスの生涯」を書くために、この小説を通して遠藤氏が自分の考えの原点を辿りながら自分の考えを整理していたのではないか、という印象を受けた。そのため、「イエスの生涯」をより理解するためにも、この本は是非とも読むべきでしょう。読後感は、一言で言うと「なにかが始まろうとしている」という感じ。だから、この本を読むと「イエスの生涯」を読まずにはいられなくなってくる。繰り返しますが、「イエスの生涯」を読む前には、この本を読んでください。もちろん、この本単独でも読む価値は十分にあります。



イエスの生涯(1973年、50歳)

この本はいわゆる小説のような感じがしない。小説というよりも、むしろイエスの生涯についての研究書といった方が適切かもしれない。でも研究書というのも正確ではないような気がする。遠藤氏が読んだ多くの聖書学やイエス伝の文献を踏まえてはいるが、研究書というには論理の飛躍が多すぎる。でも、論理的にしっかりしている研究書よりも、はるかにこの本には読み手を納得させる力が満ちている。それはなぜか? 遠藤氏がそれまでの人生において真剣に答えを求め続けた問題に対して、彼の試行錯誤と模索の過程と結果が語られているからだと思います。この本からは、それまでの遠藤氏の人生の重みがそのまま感じられ、たとえ論理的に飛躍があったとしても、一人の人間が真摯に答えを求め続けたということ自体が、圧倒的な説得力を持って読み手に迫ってくる(蛇足ですが、文系研究者の卵として、論理的な整合性を追求するあまり、かえって説得力を失ってしまっている、研究書の是非についても改めて考えさせられました)。

この本の特徴は、「一貫してイエスを無力な人間として描き出している」という点です。普通、イエスは数々の奇蹟をおこなった力のある人で、死後に復活した人間離れした力のある、神の子として考えられている。しかし、この本では、イエスの超人的な能力はすべて否定され、奇蹟は何もなかったとして話が進められます。こうした観点から聖書を読み直すと、イエスは奇蹟を求められても奇蹟をおこなえず人々の期待を裏切り、やがては人々から無力な人として見捨てられたということになります。遠藤氏は、イエスは人々に奇蹟をおこなったのではなく、愛を与えたと言う。また、病人や女性など世の中から弱者とみなされていた人々の悲しみを理解し、それらの人々に愛をあたえ、その人々と共に生きようとしたのだと言う。ここで象徴的なのは、人々が愛ではなく奇蹟を求めたという点でしょう。病人は、自分の病気を治すことをイエスに求めるのであって、愛されることを求めるのではない。なぜなら、病気が治るということは具体的に効果のあることだけど、愛されることは現実には何の具体的な効果ももたらさないからです。奇蹟を求めて、奇蹟を拒絶された人は、当初の彼に対する期待が大きかっただけに、イエスに幻滅し彼を見捨てたことでしょう。そうです、この時代には、具体的な効果の何もない「愛」というものなどは求められていなかったのです。だからこそ、その愛の必要性を証明するために、イエスの死が必要となった、というわけです。

どういうことかというと、人々に愛を与えることだけを唱え実際には何の罪もなかったイエスが、十字架上で悲惨な死をとげることになりながらも、その理不尽さを呪わず最後まで人間に対する愛を疑わなかったという事実そのものによって、愛の存在を証明したというわけです。……どうもうまく説明できませんね。このあたりを説明するのは僕の手には負えない作業のようです。「無力なるイエスという観点から、聖書を読み直す」という遠藤氏の取り組みに少しでも興味を持たれた人は、実際にこの本を読んでみてください。僕なんかが説明するよりも、圧倒的なリアリティと説得力をもった説明が遠藤氏によってなされているのですから。

この本のテーマはもう一つあります。イエスだけではなく、彼の弟子たちも弱虫でどうしようもない人間として描かれています。彼らはイエスの考えを、彼の生前まったく理解できていなかったのです。その彼らが、なぜイエスの死後、彼の考えを理解したのか。また、どうしようもない弱虫だった彼らが、なぜ、イエスの死後殉教をこわがらない強い意志を持った人間へと変わることができたのか。これがもう一つのテーマです。もっとも、この問いかけに対しては、この本のなかで十分な答えが出されたわけではありません。この問いかけに正面から取り組んだのが「キリストの誕生」です。

この本はいわゆる小説ではないため、遠藤氏の他の小説に比べると読みやすさという点では劣ります。だからこそ、この本は遠藤氏の他の小説を十分に読み彼の考え方に共鳴したうえで、読んでもらいたい本です。その方がこの本をより正確に理解することができる筈です。また、この本と「キリストの誕生」ほど彼の考え方がストレートに表現された本は他になく、この本を読むことによって、これまで読んだ彼の本で不可解に思ったことを理解することが可能になるかもしれません。今の僕はまさにこの状態です。



砂の城(1976年、53歳)

この本は、いわゆる遠藤流青春小説(と言っていいのかどうか知りませんが)。この本は、10年以上前に死別した母親が娘に宛てた手紙から話が始まりますが、この手紙の最後に書かれていた次の言葉がこの本のテーマです。「この世のなかには人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそれが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかしれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの」。

それでは、「美しいもの」&「美しいものへの憧れ」とは何なのか。この手紙を最初読んだときにはこの言葉に実感のなかった主人公の泰子が、様々な経験を通して、この言葉について考えていくのがこの本の流れです。親友の一生懸命だけど決して「美しくない」生き方を見て、泰子は「母たちが求めていた美しいものとは、結局そのよごれた人生からの逃避であり、慰めだけの場所ではなかったか」と「美しいもの」に対する疑問を持つ。

この本の最後の部分で泰子は、「生きるって、こんなにむつかしいことかと、この一年で、たっぷり味わいました。一体、美しいこととか、善いことって一体、何なのでしょうか」と、(かつて母と美しいものを共有していた)恩智氏に訊ねる。恩智氏の答えは、「美しいものと善いものに絶望しないでください。人間の歴史は……ある目的に向かって進んでいる筈ですよ。外目にはそれが永遠に足ぶみをしているように見えますが、ゆっくりと、大きな流れのなかで一つの目標に向かって進んでいる筈ですよ」。そして、この「目標」とは「人間がつくりだす善きことと、美しきことの結集です」と恩智氏は言う。

泰子はおそらくこの恩智氏の言葉を最後に肯定している(この点については、新潮文庫の解説も参考になりました)。一度は「美しいもの」に疑問を持った泰子は、結局「美しいもの」を求める必要性を認識したのでしょう。そして、厳しい現実を知った泰子は確実に成長している。なぜなら、現実の厳しさを知らない時に思い描いていた「美しいもの」と、厳しさを乗り越えて掴んだ「美しいもの」は意味が違うから。前者は汚れのまったく混じっていないものだけど、後者は汚れがまじっているがその汚れがあるからこそかえって「美しさ」を増している「美しいもの」。汚れのない「美しさ」は汚れを伴う「美しさ」にはかなわないということですね。人生で大事なことは汚れがあるからといってそれが「美しいもの」ではないと考えないことでしょう。きっと。だから、つらく苦しく醜い現実に直面したからといって、「美しいものに対する憧れ」を失ってはいけない。

ということを、この本は青春小説らしい一種のさわやかさをもって語ってくれています。



キリストの誕生(1978年、55歳)

この本は「イエスの生涯」と一対をなす本です。この本のテーマは、「イエスの生前には弱い弟子達が、イエスの死後なぜ強い信仰の持ち主に変わったのか」という点と「みじめな死を遂げたイエスが、その死後なぜキリストとして信仰されるようになったのか」という点です。こういう問題意識をもって、遠藤氏はこの本を書いているのですが、「イエスの生涯」に比べると迫力という点で劣っているのは否めません。これは、キリスト教の原点となるイエスの生き様の圧倒的な魅力に比べると、キリスト教団の成立と発展の物語は魅力的でないからかもしれません。もちろん、キリスト教団の成立と発展の裏にある、弟子達の悩み苦しみは十分に興味深いものなのですが。資料面での制限があったのかな、というのも感じました。

序盤で興味深かったのは、「イエスの復活」を弟子達の「宗教体験」と解釈している点です。「イエスの生涯」から引き続き、奇蹟をいっさい排除しようとした遠藤氏の視点が明確に貫かれています。

この本では、結局最初に述べた問題に明確な答えは出されていません。努力にもかかわらず、遠藤氏は答えを出せなかったのです。しかし「答えが出せない」というのは、「これ以上ない答え」なのではないでしょうか。この問題には「答えが出せない」し、また「答えを出すべきではない」ものなのかもしれません。無理矢理、答えを出すことは可能かもしれませんが、遠藤氏が述べているように、「ひとつの宗教は、神についての謎をすべて解くような神学が作られた途端、衰弱と腐敗の坂道を転がっていく」ものでしょうから、答えが出せない問題には性急に答えを出すべきではないと思います。

大事なのは、答えが出せないからといって答えを求めないのではなく、よりいっそう真剣にその問いと向かい合っていくことなのではないか、ということを感じさせられました。

この本を全て読む気力も時間もないという人は、せめて最終章だけでも読んでみてください。遠藤氏の考えが端的にまとめられています。そこで改めてなされている問題提起は、キリスト教に少しでも近づくために、どうしても押さえておかねばならないものだと思います。



(1980年、57歳)

「沈黙」と並ぶ遠藤周作の代表作の一つ。東北の下級武士である主人公の「侍」は、藩主の命により、通訳兼案内人である宣教師ベラスコに伴われて、異国への長い旅に旅立つ。そして、長い旅の終わりに待ち受けていたのは、キリスト教に帰依したことを理由にした処刑。

「侍」は決して本心からキリスト教に改宗したわけではなく、キリスト教に改宗しなくては役目を果たせない状況に追いつめられたからで、いわば「形式的な」ものだった。にもかかわらず、江戸幕府の難詰を避けるためには、東北藩主は「侍」を処刑したのである。この政治上の争いに巻き込まれ、人間世界の醜さ・不条理さを知った「侍」は、最期に「同伴者」としての神の存在を求める心を真に理解する。この侍の人生は、遠藤氏の「どんな形であれ、神に一度かかわってしまったものは、神を捨てることはできない」という考えを表したものなのでしょう。

これが遠藤氏が「侍」で描きたかったものの1つなのは確かとは思うが、読んでいる感じでは、これを書きたいために「侍」を書いたような気はしなかった。描きたかったのは、これも含めて、東北の閉鎖的な世界から開かれた世界に飛び出した「侍」の心情の変化そのものだったと思う。その意味では、他の作品に比べると、「これがテーマだ」というものはあまり明確ではないし、この作品はこれで良いのでは、と思う。例えば、東北で生活している「侍」の描写は、東北の寒村の持つ雰囲気が伝わってくる見事な描写だ。その雰囲気が船出とともに次第に変化していく。この雰囲気の変化の描写はほんとに見事なものだ。

「侍」の人生以外に、宣教師ベラスコの変化もこの小説の見所の一つ。というより、この小説に芯を通しているのは、侍ではなく、このベラスコの生き様だろう。宣教師とはいえ、野心に燃えるベラスコは、(好ましくない)自分の行動を正当化するために、神の意思を自分に都合良く解釈するという大きな過ちを犯し続ける。しかし、大きな挫折を味わうことで、彼は悩み、そして変わる。ベラスコは挫折することによって、それまでの偽りの信仰に気づき、真の信仰を獲得した。そして、彼は自分のそれまでの罪を償うため、死を覚悟して日本に戻り、果てる。このベラスコの生き様がこの小説に一本芯を通しているのは確かでしょう。

この小説は、それほどテーマが明確ではなく、遠藤氏の他の代表作とは少し趣が異なる。だから明確なテーマを遠藤氏の作品に求める人には、やや物足りなく感じられるかもしれない。しかし、卓越した情景描写と、侍と宣教師というまったく異質なタイプが織りなす話の展開など、この作品が名作と言われる理由はわかるような気がする。



女の一生(1982年、59歳)

一部「キクの場合」と二部「サチ子の場合」の二部構成。一部の舞台は幕末から明治初期の長崎、二部の舞台は第二次世界大戦時の長崎。一部と二部のつながりは、長崎という舞台と、主人公のキクとサチ子に血縁関係があるという点、大浦天主堂の聖母像が大きな意味を持つ点。そのほかには、それぞれの時代の女性の生き様を描いたという点では共通している。でも、一部と二部は別の物語として読んだ方が良いかもしれない。そこでここでも一部と二部を別々に紹介します。僕は、一部・二部ともにかなり好き。「深い河」は別格としても、遠藤作品のなかで実は一番好きな作品かもしれない(特に二部)。


女の一生(一部・キクの場合)

舞台は幕末から明治初期の長崎。幕末に日本にやってきたプチジャン神父が、隠れ切支丹を探そうとしたことから、話は展開する。プチジャンが苦労の末、隠れ切支丹と巡り会ったシーンはとても美しい。何より、江戸幕府の弾圧にもかかわらず200年以上もの間、信仰を捨てずにいた切支丹の存在には、一種の感銘を受ける。

しかし、プチジャンとの出会いによって隠れ切支丹の活動が活発になったため、やがて彼らは奉行所から激しい弾圧を受ける。その弾圧を受け幽閉された隠れ切支丹の一人、清吉を愛していたのが、この小説の主人公キク(彼女自身は切支丹ではない)。何とかして清吉を救い出したいと思ったキクだが、奉行所の役人、伊藤に騙され体を奪われる。そればかりか、清吉を救う金を工面するために、体を売る。やがて、胸を病んだキクは、南蛮寺(大浦天主堂)の聖母像に語りかけながら息絶える。この時のキクと聖母像の会話によって示された、キクに対する「救い」は圧倒的な感動をもって読み手にせまる。自分の体は「よごれによごれきってしもうた……」と言うキクに対して、聖母は涙を流しながら、「いいえ。あなたは少しもよごれていません。なぜなら……」と語り続ける。この感動的なシーンは是非実際に読んでみてください。これが「女の一生 一部」のクライマックス。

でも、「女の一生 一部」はこれだけでは終わらない。キクを騙した卑劣で卑怯な役人、伊藤をも遠藤氏は救おうとする。正直言って、僕が初めてこの本を読んだ高校生の時、この伊藤が憎くて仕方がなかった。「こいつさえいなければ」という感じ。どうやら、当時はまだまだ自分の弱さを自覚していなかった模様^^;。今回、改めてこの本を読んだとき、卑怯者伊藤の気持ちはよくわかったつもりだし、拷問を受けても信仰を棄てなかった「強い」清吉よりも、伊藤の方に親しみを感じた。そして、この卑怯者に対する遠藤氏の優しい眼に、正直ほっとした。伊藤は卑劣で卑怯だが、その自分の卑劣さを自覚し後悔しながらも、行為を改めることができない弱い人間として描かれている。このような弱さは、伊藤ほど露骨で明確な形をとらないとしても、自分の中にも(いや、程度の差こそあれ誰の中にも)確実に潜んでいる弱さだと思う。だからこそ、遠藤氏の伊藤に対する優しさにはほっとする。

後年、伊藤は清吉に対して「自分もキクが好きだった」と告白するが、好きだったにもかかわらず、いや好きだったからこそ自分に振り向いてくれないキクに対して卑劣になってしまった伊藤の弱さはわかるような気がする。キクに愛され信仰を貫いた強い清吉と、キクを愛しながらも卑怯で弱かった伊藤、この2人のことを考えたとき、遠藤氏の「イエスの生涯」などの作品にたびたび登場する言葉を思い出す。その言葉とは、「自分を愛してくれる者のために死ぬのは易しい。しかし自分を愛してもくれず、自分を誤解している者のために身を捧げるのは辛い行為だった」という言葉である(なお、後者の死はイエスの死のこと)。そう、自分を愛してくれる者のために死ぬのは、人間にとってそれほど難しい行為ではないのである。とするならば、清吉はキクに愛されたからこそ強くなれたのではないか。伊藤もキクに愛されていたならば清吉のように強くなれたのではないか。このように考えると、清吉と伊藤の強さと弱さは、紙一重だったように思える。このように思うからこそ、晩年の清吉が伊藤の卑怯さを責めるシーンを読むと、僕は伊藤に同情する。「清吉は状況に恵まれていたからこそ、強くなれただけなのに。結果的に自分は卑怯ではなかったからといって、清吉には伊藤を裁く権利はないんじゃないか(人には人を裁く権利などないんじゃないか)」と思うから。

ここに至って初めて、遠藤さんがたびたび言う「神は弱い者のために存在する。強い者は神を必要としない」という言葉の意味が何だかわかるような気がしてくる。伊藤は晩年、清吉に「20年前、自分は洗礼を受けた」と言う。また、伊藤は晩年になってから清吉に自分の罪を告白している。この伊藤の行為は、かつての卑怯で弱虫だった伊藤には到底できなかった強い行為ではないだろうか。以前の卑怯な伊藤のままだったならば、罪の意識を酒でまぎらわせるだけで何も具体的な行動はせず、時間が罪の意識を薄めていってくれるのをただ待っていたように僕は思う。その伊藤が、神を求め洗礼を受けたばかりか、何十年も経ってから清吉を呼びだして罪を告白するという行為をするほど強くなっているのだ。何十年も経ってから(自分の死を意識するようになってから?)というのが、完全に強くなりきれない伊藤の弱さを表現しているようですごく真実味を感じる。いずれにせよ、伊藤が以前とは変わって少し強くなったのは確かだと思う。このように伊藤を変えたのが「キクの存在」なのは言うまでもないだろう。この物語が、清吉の「もうよか、伊藤さん。おキクさんはあんたに苦しめられたばってん、あんたば別のところに連れていったとたい。そいだけでもあん人の一生は、無駄じゃなかった……無駄じゃなかった」という言葉で終わっていることからも、これは確かでしょう。実際にはキクは清吉のために死んでいったのだが、神はキクの死を伊藤のために用意したのではなかったか、というふうに僕は思う。


女の一生(二部・サチ子の場合)

二部の舞台は、第二次世界大戦時の長崎。この二部は大きく分けて2つの物語から構成されている。1つは主人公のサチ子とその恋人修平を巡る物語。もう1つは、アウシュビッツの強制収容所で身代わりの死を遂げるコルベ神父の物語。

まずコルベ神父の物語から紹介します。アウシュビッツの強制収容所の描写は、張りつめた緊張感に満ちている。そこは、人間は自分が生き残るためにはどんなことでもするのが当たり前の世界で、他者に対する愛などはまったく見られなくなった世界です。その愛のないはずの世界で、コルベ神父は自ら進んで他人の身代わりとして死ぬというこれ以上ない愛の行為をおこなう。コルベ神父は彼が常日頃言っていた「愛がない世界ならば、愛をつくらねば」という言葉を実行したのだった。コルベ神父の死後、それまで強制収容所というこの世の地獄で生活していた筈の囚人の一人が「ああ……なんて、この世界は……美しいんだ」とつぶやくシーンには感動させられる。この他にもコルベ神父の物語の最後を締めくくる「ヘンリックはパンをその男にやった。ヘンリックができた愛の行為はこれだけだった。それでもヘンリックは愛を行った」という文章にも胸をうたれる。ヘンリックの愛の行為はコルベ神父には及ばない愛の行為かもしれないが、愛のなかった筈の世界に確実に愛が芽生えたことを示している。

このコルベ神父の物語は、人類史の中で最もひどい出来事の一つである強制収容所の中においても、愛は失われなかったという厳然たる事実を、卓越した語り口で展開したもので、この物語自体にも深く考えさせられる。それと同時に、この物語はこの本の前半に緊張感をもたらす役割も果たしている。そして、この物語の終了とともに、それまで比較的のんびりしていたサチ子と修平の世界にも、一気に戦争の緊張感が忍び寄ってくる。

僕にとっては、「女の一生 第二部」の主人公はサチ子ではなく修平だ。彼は子どものころから教会で「殺すなかれ」という教えを唱えさせられてきたキリスト教の信者で、自分の人生で他人のことを殺すことがあることなど想像したことはなかった。しかし、学生の徴兵延期の廃止とともに、自分が人を殺さねばならない状況に追いやられることに、動揺し狼狽する。この修平の葛藤がこの本の後半を貫くテーマ。修平の葛藤については、僕がここで説明するよりも、実際にこの本を読んでもらった方が絶対によくわかると思う。僕が言えるのは、この修平の葛藤の描写の持つリアリティが圧巻だということぐらいだ。この葛藤を抱えた修平とサチ子の接し方、サチ子の不安な気持ちなど、非常によく伝わる。疑似体験という小説の持つ役割の一つが、これほど見事なリアリティをもって迫ってくる本は、今まで僕は読んだことがない。

結局、修平は特攻隊員に自ら志願し死んでいく。「よりによって、なんでそんなことを」と思う人は多いだろうし、僕も頭ではそう思う。修平が残した手紙の中で特攻隊に志願した理由が述べられているが、その理由は修平自身も述べているように「自分の心に辻褄をつけるための悪あがき」のようにしか思えない。頭で考える限り、修平の決断は理解できない。しかし、頭では理解できないものの、心では彼の決断は納得できるような気がする。自分が修平でも同じ状況に置かれたならば、きっと同じ決断をしただろうな、と。そう、この小説は頭で理解できないことを心に伝えることに見事に成功している。これはすごいことだと思う。戦時下に生きた若者の気持ちに共感できるからこそ、僕はこの小説を読み進めていくとき、いつも震えている。何度となく繰り返し読み返しているにもかかわらず。圧倒的な感動を与えてくれる僕の大好きな作品。



深い河(1993年、70歳)

遠藤周作の集大成と言って良い作品。そして遠藤作品の中で、僕がもっとも思い入れのある作品。

この本は、全13章のうち5章が、「磯辺の場合」「美津子の場合」「沼田の場合」「木口の場合」「大津の場合」というふうに登場人物それぞれの「場合」が語られています。そして、この5人の主要登場人物は、全員遠藤さんの分身というべき存在です。例えば、沼田の少年時代の環境は遠藤さん自身のそれとそっくりだし、大津のフランス神学生時代の苦悩は遠藤さんの留学生時代の苦悩とだぶって見える、という具合です。だから、この本では、遠藤さん自身の人生が5人の登場人物の姿を借りて象徴的に語られている、と考えても良いと思います。

こんな感じで、この本では遠藤さんの分身というべき様々な人間の人生が語られるわけですが、その中でもこの本で最も大きな位置を占めているのは、西洋のキリスト教そのものの普遍性を疑い、キリスト教の新たなあり方を模索している「大津の人生」でしょう。この本の中で大津の人生が占める大きな位置は、そのまま遠藤さんの人生における「新たなキリスト教の模索」が占める大きな位置を反映したものだと僕は思います。だからといって、大津以外の人物の人生がこの小説に必要ないかといえばそうではなくて、大津以外の登場人物はこの小説には必要だったのは明らかです。……遠藤さんの人生のすべてがキリスト教に占められていたわけではなく、(沼田に象徴される)少年時代の体験や(磯辺に象徴される)妻への愛情がなければ、遠藤さんの人生が成立しなかったのと同様に。僕がこの本に抱いたイメージは、登場人物5人の名前を借りた5本の河(広さ、深さには差がある)が集まり、やがて一筋の「深い河(=遠藤さんの人生)」となって流れていくというものでした。

具体的な内容面に関しては、一番迫力のあるのは何と言っても大津の生き方とそれに影響されて起こる美津子の変化でしょう。大津によって語られるキリスト教に対する言葉は、遠藤さんが長い人生をかけて煮詰めた言葉だけに、どれもこれもすさまじい凄みがあります。例えば、「それに、ぼくは玉ねぎ(*神あるいはイエスのこと)を信頼しています。信仰じゃないんです」という言葉や、「〜母を失いましたが、その時、母のぬくもりの源にあったのは玉ねぎの一片だったと気がつきました。そして結局、ぼくが求めたものも、玉ねぎの愛だけで、いわゆる教会が口にする、多くの他の教義ではありません。(もちろんそんな考えも、ぼくが異端的と見られた原因です)この世の中心は愛で、玉ねぎは長い歴史のなかでそれだけをぼくたち人間に示したのだと思っています」という言葉、さらには「ぼくはむしろ、神は幾つもの顔をもたれ、それぞれの宗教にもかくれておられる、と考えるほうが本当の対話と思うのです」という言葉。この他にも、遠藤さんのキリストきょうに対する思いがぎっしり詰まった言葉がこの本には溢れています。これらの言葉は、遠藤さんの作品を読んだときに感じることですが、この「深い河」ほど遠藤さんの思いがストレートに表現されている本は他にそれほどないと思います。

大津の生き方を美津子は、「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎのために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変わる筈はないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、揚句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。あなたは結局は無力だったじゃないの」と評します。確かに、大津は現実世界では無力でした。だけど、大津の生き方は、空虚感にとらわれ何ごとにも夢中になれなかった美津子をいつしか変化させています。この本のクライマックスで美津子が上の言葉を言うとき、美津子は、「叫び」「石段を叩いて」いるほど本気になっているんですから。美津子にこのような変化をもたらすということが、大津の人生=イエスの人生の意味だったし、このような形で愛の存在を示す人がいなかったら僕たちは人間世界を信じることができないと思います。

美津子はこの話の最後の方で、「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です。その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」と言います。この言葉の意味は現時点では、頭で考えても僕にははっきりとわかりません。でも美津子のこの言葉には、何かしらほっとさせるものがあるし、「生きよう」という気になってきます。心に響く言葉です。

最後にこの本に対する僕の個人的なありのままの感想を。この本の読後感は、「あれ? もう終わり?」でした。でも、この本の読後感は、「もう終わり?」で良いんだ、というような気がします。だって、遠藤さん自身の人生をすべて凝縮して詰め込んだようなこの本は、遠藤さん自身の人生そのものと言っても良いと思うから。一人の人間の人生は(どんな充実したものでも)、「これで十分・完璧」って思わせるもんじゃなくて、「もう終わり?」と思わせるものだから。遠藤さんだって本当はもっともっと考えたいこと書きたいことやりたいことがあったはずだから。だから、この本の読後感は「もう終わり?」で良いんだと思う。遠藤さんが生涯をかけてできたのは、「愛の宗教としてのキリスト教に行き着き、それを小説という形で多くの人に理解できる形で示すこと」までだったはず。これだけでも十分ですごいことだと思うけど、遠藤さんだって、本当は、「もっともっと多くの人に自分の考えに共鳴してもらいたい、宗教間の争いをなくしたい、この世のなかにもっと愛を増やしたい」って思いがあったはず。遠藤さんにはそこまでできなかったけど(というか一人の人間の短い人生では誰にもそこまではできない)、遠藤さんがまいた種は確実に僕らを始めとする多くの人々の心の中に間違いなく根を下ろしている(と思う)。その遠藤さんの根付かせた種を実らせるのが(あるいは実らせる努力をするのが)、残された僕らの仕事かな、とそんな風に思う。僕には遠藤さんのように小説という形では表現できないけど、自分でできる形で精一杯の努力はしていきたい。こんな思いでいっぱいになりました。

最後にもう一言。この本で、大津は「あなたは、背に人々の哀しみを背負い、死の丘までのぼった。その真似を今やってます」と言います。ここでの「あなた」はイエスのことで、大津の生き方はまさしく「イエスの真似」なんですが、「その真似を今やってます」という大津の言葉は、僕の耳には遠藤さん自身の言葉として聞こえてきます。遠藤さんは小説という形で、イエスの真似をし、「愛を伝え」てきたんだから。この部分を読むと、遠藤さんに心から「ごくろうさまでした」と声をかけたくなります。遠藤さん、本当にごくろうさまでした。そしてありがとうございました。

*「深い河」に関しては、「2001年2月5日、6日の読書日記」でも長々と扱っているのでこちらもご一読いただけば幸いです。