吉田稔麿
Yosida Tosimaro (1841-1864)
 1841年(天保12年)閏1月24日、長州藩下級武士(足軽)の吉田清内の嫡子として萩に生まれる。吉田姓は自称(正式な姓となったのは文久年間)。幼名は栄太郎。足軽の家に生まれた少年時代の稔麿は、あかるくて走り使いを機嫌よくするという印象のある子供であった。稔麿は近所にある寺子屋に百姓や町人の子供達とともに通っていたが、この寺子屋が松下村塾であった。ただし、まだ松陰がいたのではなく、久保五郎左衛門が教えていたころのことである。翌安政元年(1854)、槍を学ぶため、小幡源右衛門に入門している。江戸藩邸に小者として仕え、安政3年2月に帰郷。安政3年、飛脚として江戸藩邸の手紙をもって萩に帰った時、松陰が自宅禁固を命ぜられて、実家に戻っており、寺子屋で子弟を教えていた。稔麿は早速、松陰に入門して、翌年の9月までの10ヶ月間、松陰に就学した。真摯な態度で学問を求める姿勢は松蔭を喜ばせ、深く愛されたという。
 四天王の一人として、松陰から愛された稔麿であるが、師匠に似たのか人物評が好きで、次のような逸話が残っている。ある日、稔麿は絵を描いていたが、そこには、裃を付け端然と座っている坊主、鼻ぐりのない暴れ牛、木刀、そして隅にただの棒きれが、描かれていた。これを見た、山県狂介(有朋)が「この絵にはどういう意味があるのだ」と、問うた。稔麿は「この坊主は久坂だ。久坂は医者のせがれだが、廟堂に座らせておくと堂々たる政治家だ。この暴れ牛は高杉だ。高杉は中々駕御できない人物だ。この木刀は入江のことだ。入江は偉いが、まだ刀までとはいかない木刀だ。」と言った。狂介が「じゃ、この棒きれは誰だ。」と聞くと、稔麿は言った。「それは、お前のことだ」。
 稔麿は松陰が東送された後、脱藩して江戸へ行き、旗本妻木田宮氏の家士となり、獄中の松陰の様子と幕府の動静をうかがっていた。このことにより彼は以降、長州志士の間で幕府通と重宝がられる存在となる。しかし、この時は思ったような成果は無く、その後江戸を離れた。『実甫の才は縦横無尽なり。暢夫は陽頑、無逸は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり (途中略) 常にこの三人を推すべし』上記は、吉田松蔭先生による久坂玄瑞(実甫)、高杉晋作(暢夫)、吉田稔麿(無逸)の三人を比較しながらの人物評。この三人を『松蔭門下の三秀』、入江九一を加えて『松門四天王』と呼ぶ。また、松浦松洞(無窮)、増野徳民(無咎)と共に『松門三無生』とも言われる。安政4年8月、江戸御番手御供少使として、稔麿は再び江戸行きを命じられる。この際に松陰は江戸にいる桂小五郎に対し、稔麿を紹介する手紙を書き、よろしく指導してやってくれと頼んでいる。松陰は稔麿に江戸からの情報を送ってくることを期待していた。稔麿は将軍継嗣問題などの情報を松陰に送る一方、斎藤弥九郎について剣を学び、安政5年11月帰国した。
 老中間部詮勝の暗殺を企てた松陰が下獄し、稔麿は父清内から危険な松陰に接触することを禁じられ、同志達からも一時離れざるをえなくなった。安政6年5月25日、「安政の大獄」に連座し、江戸に送られる松陰の駕籠を隣家の杉垣の穴から見送ったといわれる。松陰が江戸伝馬町獄で刑死したのは、同年の10月27日だった。松陰処刑後、稔麿は同門の久坂玄瑞らとともに攘夷活動に奔走する。文久3年、幕府は朝廷の圧力に屈する形で、攘夷期限を5月10日と定めた。これにより帰国した久坂玄瑞は下関で光明寺党を結成し、これに稔麿も加わった。
文久3年5月11日未明、関門海峡を通航する外国艦を砲撃した長州藩では、6月高杉によって奇兵隊が結成される。稔麿も京都から帰り、これに参加。さらに7月5日にはそれまで足軽だった稔麿を士籍に加えるという沙汰が藩から出ると、7月7日、「屠勇取建引受」に任命される。これは稔麿が藩に提出した意見書が採用されたからで、屠勇とは勇気ある被差別民のことである。被差別民たちも兵士にとりたてよと、被差別民の解放が意識されていることは特筆すべきである。多くの諸隊が各地で組織されたが、中でも稔麿は、屠勇隊(とゆうたい)を組織したのだった。この屠勇隊は、のちに幕府軍を相手に最も勇敢に戦うことになる。
 元冶元年6月5日、京の三条小橋の旅篭、池田屋で志士達が集まり会合を行うこととなっていた。前年の文久3年8月18日、尊攘派の天下となっていた京の街より、会津、薩摩を中心とした公武合体派は、尊攘派公家と長州藩の追い落としに成功していた。長州を中心とする尊攘派志士達は京での復権を目指すべく、池田屋に集結していたが、ここに稔麿の姿があった。彼は、本来集まるべく予定されていたわけではなかったが、たまたま江戸から使いに出てきて、この会合を知り出かけたのだった。池田屋で志士達との会合中、突然に新撰組に襲撃され、稔麿は応戦し、肩先に一太刀浴びた。彼は、事態を同志に知らせるべく、その場を脱出し、川原町の長州藩邸に飛びこんだ。この時、稔麿は、危機を脱出して安全な藩邸に戻って来たのだから、そのまま潜伏していればよいものを、手に槍を取り、周囲が止めるのも聞かず、修羅場と化した池田屋に舞い戻って行ったのである。そして、加賀藩邸の前で多くの敵に出くわし、24年の短い生涯を閉じたのであった。 稔麿は近藤勇に斬られたのか、あるいは、沖田総司に斬られたという説もあり、その最後は定かではない。稔麿ら俊英達が多数殺された、この事件により歴史の進行が、数年遅れたと、後に言われるようになった。
吉田さんの裏話
 のちに明治の元勲となった品川弥次郎は後年、「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう。」と語ったらしい。
池田や事件で吉田さんは包囲網を突破、池田屋から逃れることに成功して長州藩邸に注進に走り、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の敵に出くわして闘死したとする説と、河原町の長州藩邸の門が閉ざされていた為、その場で自刃したという説がある。