吉田松蔭
Yosida Syouin (1830-1859)
松陰は、天保元年八月四日、長門の国、萩の松本村に下級藩士父は萩藩士杉百合之助常道、母は児玉滝(毛利志摩守家臣村田右中の三女)の次男として生まれた。幼名は虎之助。五歳で叔父吉田大助の養子となり、翌年、大助の死により吉田家を継ぐことになる。吉田家は、山鹿流兵学師範の家柄であり、松陰この時、有無もなく藩の兵学教授となる道が決まってしまっていた。このとき以来、まだ年端もいかぬ少年に対し、兵学教授となるべく英才教育がはじまる。
 松陰幼少期の教育を施し、松陰生涯の人格形成に多大な影響を与えた人物は、もうひとりの叔父、玉木文之進である。文之進の教育は、激烈そのもので、松陰の些細なふるまいに対し、毎日のように鉄拳制裁を加えたという。講義中に幼い松陰の顔を蚊が刺し、それを手で掻いたといっては殴り、正座中に膝が少し曲がったといっては殴った。それも拳固を固めて殴るのだから、松陰の頭はコブが絶えなかったという。顔を掻く行為は、正に私的行為であり、学問中の私的行為を文之進は決して許さなかった。学問は、公であり、公より私を優先させることを非とし、それを幼い松陰に対し、体で覚えさせていったのである。松陰は、よく堪え、よく学び、わずか8歳の時、明倫館に入り教授見習いとなる。そして11歳の時、藩主毛利敬親に「武教全書」を講じた。18歳の時、兵学家として自立し、藩校制度改革の建白書を提出する。
 松陰は、20歳の時、家学研究にと藩に願い出て、九州遊学の旅にでる。この旅で当時の幕藩体制の矛盾や外圧を身をもって感じた。九州遊学では、四ヶ月の期間で各地の著名な士を訪ね、交わった。中でも、平戸の葉山佐内を訪ねた時、左内は「実行のなかにのみ学問がある。いくら考えが正しくとも行動しなければ学問ではない」と陽明学の思想を説き、松陰はその教えに強く魅かれるのであった。
 この旅では松陰生涯の友、肥後藩士宮部鼎蔵とも出会うことになる。宮部鼎蔵は、後に松陰とともに東北旅行に同行した人である。他に、兄の仇を討たんとする江幡五郎が同行を求め、出発を赤穂浪士討入の12月15日と決めた。この時、藩の過書を得ていなかった松陰は、男子の一諾を重んじ、嘉永5年12月14日、一足先に藩邸を亡命し水戸に赴いた。そして次の日、彼等と共に東北旅行に旅立っている。友人との約束により藩から許可を得ず東北へ歴遊、藩邸亡命の罪で士籍を削られ、杉家育(はぐくみ)となった(これは公的な居候という意味で、武士としての身分保障である)。逆に、これによって自由となり、藩も松陰の遊学を認めた。松陰は後に、この挙を「用猛第一回」と呼び、行動家松陰の出発点と呼べる行為である。
 憂国の志士、吉田松陰の基礎を築いたとも言える九州遊学の後、彼は藩主の東行に従い、江戸へ向かう。江戸では桜田の藩邸を居所とし、安積艮斎、山鹿素水、古賀茶渓、佐久間象山らに兵学、国学、朱子学、陽明学を学ぶ。剣を藩士平岡弥三兵衛の門下で学んだ。しかし松陰を満足させる師にはなかなか巡り会えずにいた。しかし、この時期、松陰は江幡五郎、来原良蔵ら同年代の友人達と出会う。その後松蔭は江戸に行く。江戸遊学において唯一、松陰の命運にかかわる師と言える人物が、佐久間象山である。象山に知識を吸収するために海外渡航を勧められた。
 嘉永6年6月3日、ペリーが四隻の米艦を率い浦賀に来航した。松陰がそのことを知ったのは、翌4日のことである。松陰は江戸より夜を徹して浦賀まで歩き、翌朝、象山とともに黒船を見た。その光景は行動家松陰の憂国精神を燻るに充分過ぎる程の衝撃であった。松陰は、その憂国精神を押さえることが出来ず、浪人の身にありながらも兵学の立場から「將及私言」(しょうきゅうしげん)をはじめとした急務策を次々と藩主に提出する。周りは彼のこの挙を越権行為とし誹謗するのだが無論、それも覚悟の上のことであった。その後、松陰は象山の進めで、異国の文化や兵学を学ぶべく、長崎に停泊中のロシア船に乗り込もうと長崎へ向かう。しかし、松陰が到着した時には既に、ロシア船は出港したあとであった。こうして最初の渡航計画は未遂に終わる。また嘉永6年遊学の途中の京都で梅田雲浜を訪ねた。「雲浜は精密、策あり。ただし大計にはすこぶる疎なり」と萩の兄梅太郎に手紙をおくっている。のちに松陰は安政の大獄で伏見に捕らえられた雲浜を救出すべく赤根武人を京に送ったが失敗した。しかし、皮肉にもその梅田雲浜の供述によって松陰は江戸へ送還されることになるのだった。
 安政元年1月、ペリーが再び来航し、幕府はアメリカの要求するまま下田、函館を開港した。翌年、3月、松陰は、再度の海外渡航を企てる。海外を知り、日本の将来採るべき道を探ろうという、やむにやまれぬ決断であった。この時、松陰の計画を知り、強行に同行を迫ったのが、金子重之助である。重之助の情熱溢れる言葉に折れた松陰は、彼の同行を認める。3月27日深夜、2人は小船で米艦ポーハタン号に乗り付けた。だが、松陰らの必死の面会要求にもペリーは、それに応じる事は無く、計画は失敗に終わる。
 その後、帰された二人は下田奉行所に自首し、通りに面した獄に入れられた。しばらくして、一人のアメリカ士官が獄の前を通りかかった。その時、彼はそこに死を覚悟し毅然たる姿勢の松陰を見るや、その姿に感動し、ペリーに報告した。ペリーは松陰らの救済を図ったのであったが、その時すでに江戸伝馬町の獄へ送られた後であった。江戸には2人を煽動したという事で逮捕投獄された師象山の姿があった。二人が米艦に乗りつけた小船が後、発見され、そこに証拠の品が残されていたのだった。この松陰らの国禁を犯した大胆な行動はいちはやく海外に報じられた。フランスの新聞によると、「勉強のためアメリカへつれて行ってくれと、頼む青年を頭ごなしにはねつけ、また帰れば死刑になるとゆうけなげな申し入れに応じなかった米国提督の頑迷はじつになげかわしい」と米国を非難している。
 国禁を犯した罪人となった松陰と重之助は、国許での蟄居ということとなり、籠で萩に護送されることとなった。師、象山もまた同罪となり信州松代へと送られたのだった。このときより「二十一回猛士」の別号を用いた。唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときである。 萩へ着いた松陰は野山獄へ、重之助は岩倉獄へと獄を分けられた。野山獄には、女囚高須久子を含め11人の在獄者が独房に起居しており、彼等の多くは、それぞれが罪を犯しているとは言え、裁きで決まった年限を過ぎつつも親族から厄介払いされた形で、そのまま在獄しているのだった。
 彼等は出獄出来るあても無く、希望を失っていたが、松陰入獄後、しばらくして獄舎は一変する。松陰は、読書ざんまい(在獄一年2ヶ月の間に618冊もの書物を読んだ)の生活をおくりつつ「孟子」の講義をはじめ、自身の体験談、世の情勢といった講義を囚人達に聞かせていた。ある時、優れた書風を有する富永弥兵衛に書の講座を開くことを促すと、やがて、富永はこれに応じた。次に松陰は、句を得意とする吉村善作に俳句の指導を提案した。これらの講座がいくつか出来あがり、獄舎はあたかも学生達の集う研究会の如く様相を呈してきた。このようにして、松陰は囚人達に、できることから皆ではじめようと提起し、互いに相手の優れたものを学び、教え合うという連帯感を築き上げたのだった。囚人達は次第に、生きる希望を取り戻したかのように、生き生きとするようになった。また司獄官の福川扉之助までもが松陰の弟子のようなものとなり、これに協力し、自身も廊下に正座して松陰の講義を聞くという具合であった。
 獄中を福堂に変えたとも言える松陰は、在獄1年2か月の後、病気療養の名目で出獄した。その後、彼は藩政府と交渉し、囚人7人の釈放に成功している。他に類を見ない獄中教育の集大成をここに開花させたのだった。また安政3(1856)年宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け、一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り、「普天率士の民、(中略)、死を尽して以て天子に仕へ、貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず、是れ神州の道なり」との断案を下した。出獄後、父の元での蟄居を命ぜられた松陰は、初めのうちは親戚の者達に対し講議を聞かせたりしていた。しばらくして、噂を聞きつけた近隣の若者達が集まるようになり、松陰は彼等に講義を行うようになった。これが、今に伝わる松下村塾である。松下村塾は最初、叔父の玉木文之進がはじめた寺子屋風の私塾であったが、その後外叔久保五郎左衛門、そして3代目として松陰が引き継いだのである。いずれも無報酬であった。松陰は、身分や職業に拘らない平等感と人間の可能性に期待しつつ彼等に接したのだった。入門を求めてきた若者に対し、「師として充分に教えることが出来るかどうかわからないが、一緒に勉強しましょう」と、丁寧に挨拶したという。ここでの松陰は、単なる知識としての学問ではなく、理想の国家、正しい政治とはどうあるべきか、また人間としてどう生きるかを全身全霊を以って説いた。
 松陰は塾生に対し、「学者になってはいけない、人は実行が第一だ」と、よく言っていたという。机上の空論ではなく、自らが死線を踏み、その行動をもって築き上げた教えに、心を動かされぬ者などいなかった。ここで教えを受けた数多くの若者が師の志を引き継ぎ、幕末動乱の世に巣立っていったのである。門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば、身辺を構わず常に粗服、水を使った手は袖で拭き、髪を結い直すのは2カ月に1度くらい、言葉は激しいが挙措は温和であったという。
 松陰は幽囚の身にありながらも、彼自身の気魄は決して衰えることはなく、彼の信念に伴う計画は過激さを増してきたのだった。松陰の教えは年を追うごとに過激化していき、急進的な尊王攘夷派となり幕閣批判を行う。安政5年、大老に井伊直弼が就任し、反幕勢力を一掃せんとする、いわゆる安政の大獄が、始まりつつあった。8月、井伊の命により老中間部詮勝が京都に着くや、朝廷にはびこる反幕勢力を一掃すべく画策をはじめた。幕府に恐れをなした朝廷や公家、及び藩大名に対し、松陰はこれを痛烈に批判し、支配者階級による変革が不可能であることを実感する。
 その後、松陰は京都に捕らえられている梅田雲浜を救い出そうとするが失敗し、また公家の大原三位を迎え、藩論を倒幕に統一しようとするもこれも失敗に終わる。また、松陰は次第に幕府による反幕勢力弾圧が激しくなるにつれ、幕府の暴政許せじものという思いが募り、老中間部詮勝襲撃を企てる。ところが、松陰は理念と情熱が先行し、計画の成功率がほとんどゼロに等しい。さらには計画に伴う現状認識が甘く、藩の要人、周布政之助に幕府の老中を襲撃すべく武器の援助を申し入れた事などその表れである。松陰の良き理解者であった政之助もこれには驚き、松陰の暴挙を阻止せんと、再投獄を命じたのである。再度、獄中の身となった松陰は門下生に対し書状で老中襲撃計画の実行を促すも、江戸にいる高杉、久坂らの連名で、計画を中止するよう勧告する書状が届いた。時期尚早を唱える高杉、久坂ら対し、松陰は「僕は忠義をするつもり、諸友は功業を為すつもり」と、その所見の違いから絶交を言い渡すのである。
 高杉、久坂ら門下生達は、この松陰の過激さには手を焼き、指示を受け付けなかったが、入江杉蔵(九一)、野村和作(靖)兄弟ら門下生のうち数人は松陰の右手となり、計画の実行者として行動を起こすのだった。しかし、そのことごとくが失敗に終わり、松陰は獄中で絶望の淵に陥り、死をも想ったという。やがて、松陰の心も次第に、落ち着き絶交状態であった高杉らとも書簡のやりとりをするようになった。そんな折、幕府より松陰に東送の命が下るのである。その絶望の中ではじめて「草莽崛起」 論に到達し、変革の担い手は在野の志士であり、百姓一揆のエネルギーを無視できないことを自覚した。
 松陰東送の容疑は安政の大獄で処刑された梅田雲浜との関係についてである。松陰が東送の命を聞いて考えたのは、この際、尊攘の大儀を法廷で説き幕政転換に役立てることが、藩のためとなると、いうことであった。むろん、死は覚悟の上である。東送に際し、諸友あての手紙に、「余に一護身符あり。孟子曰く、『至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり。』と。これ是れのみ。諸友、是れ之れを記せよ。」と書いている。むしろ、松陰は東送を喜んでさえいた。世は安政の大獄の嵐の最中、松陰東送以降、彼が故郷の土を踏みしめることは、二度と無かったのだった。
 安政6年7月7日の朝、幕府評定所に送られた松陰に対する容疑は、梅田雲浜との関係、京都御所の庭に落ちていた幕府中傷の落とし文が彼のものか、の2点であった。松陰は、この2点に関しては、きっぱりと否定している。事実、雲浜との間に蜜某があるわけでもなく、落とし文についても松陰の関知するところではなく、そのような卑劣なことをする人間と見られたことに、松陰は憤慨したという。このまま、評定が終了していれば死罪になるようなことは、まず無かったであろう。ところが、松陰自身がこの評定をそのまま終わらせなかった。今こそ、自分の所信を唱える良い機会であるとし、ペリー来航以降の自身の奔走について語りはじめたのだった。事もあろうに幕府評定所で、幕府老中の暗殺計画や、公家の大原三位を迎えて倒幕計画を練ろうとしたことなどを問われもしないのに延々と語りはじめたのである。あまりの事の重大さに評定所役人は唖然としたという。公儀をはばからず不敬のいたりと判断された松陰は死罪に処せられることとなった。当初、奉行の原案は流罪であったのだが、井伊直弼はこれを死罪に書き改めたという。
 10月25日死を予知して遺書を書き始め、翌日の暮れにまでおよんだという。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の句を置き、全編を「留魂録」と命名。安政6年10月27日朝、松陰は評定に呼び出された。呼び出しの声を聞くや懐紙に句を書きとめたが、第四句の字数が足らないのに気がつき、修正を図ったが、横に「、」をうったまま、警吏に引き立てられなければならなかった。その時の句は「此程に思定めし出立をけふきくこそ嬉しかりける」。 同日午前10時、江戸伝馬町の獄にて、処刑が執行された。時に松陰、享年29歳4ヶ月であった。
松蔭のお言葉
「人間、いつ何処で死ぬべきかということは、大きな問題ではない。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業を成す見込みあらば、生き続ければよい。つまり、生死を度外視して、何を成すべきかが大切なのである」