| 山県狂介(山県有朋) |
| Yamagata Kyousuke (1838-1922) |
| 山県狂介は、天保9年(1838)、長州藩の中間の家に生まれた。足軽より低い身分から抜け出るため、少年時代は、槍術で身を立てようと稽古に励む日々を過ごす。 |
| 山県は小輔と呼ばれていた時代、伊藤らと一緒に、京都探索に加えられた一人だが、その当時はまだ松下村塾生ではなかった。松陰に会ったのはそのあとである。入塾が遅かったので従学の期間は短かったが、主要な門下生の、一人に数えられる。 |
| 彼は文久3(1863)年、足軽身分から士分に登用された。槍の修行に専念し、一途に武人を志した山県だけにその喜びは大きかったに違いない。しかも士分抜擢の理由は、松陰に学んだという「学歴」を認められたのだから、あらためて松門の自覚を抱いたと思われる。高杉晋作が「西海一狂生」などと唱えたように、山県も「狂介」を名乗った。それは松陰の影響であろう。「狂」は松陰が好む言葉だった。松陰は『講孟余話』尽心下篇第三十七章で「狂」について述べているが、行為者における「狂」とは、次のようなことを指している。「何を以て狂というか。その志が浩然たる誇りに支えられているからである。言、行をかえりみず、行、言をかえりみないからである」 松陰が老中暗殺という過激な言動を見せた安政5(1858)年の末、その生命はわずか1年足らずしか残されていなかった。松陰が門下生の理想像として生きつづけたのは、刑死の瞬間にむかって収斂されるこの期間の師の行動に対する畏敬の視線によるものであろう。そして松陰が後輩たちに垂範する強烈な行為を裏付けるのは「狂」への志向だった。暴威をふるう幕府に抵抗する志士たちが共通して抱いたのもまた「狂」である。素質や学問で養った才知だけでは、旧時代の厚い璧を崩す突破力とはなり得なかったからだ。松陰は入江九一にあてた手紙(安政6年1月27日)の中で、「太郎(原田)・松介(松山)の才、直八(時山)・小輔(山県)の気、伝之助の勇敢にして事に当る、仙吉の沈静にして志ある、また皆才というべし。然れども大識見大才気の如き、おそらくは亦ここに在らず」と書いている。気力は認めているが、それは大才気ではないという松陰の山県評は当たっているかもしれない。 |
| 山県は「槍の小輔」として知られ、自分でも「生涯一武人」といいつづけたが、それにしては高杉晋作ほどに猪突できなかった。晋作が功山寺に挙兵したときも、奇兵隊軍監の地位にある山県は慎重にかまえて動かなかった。わずか八十人足らずをひきいて晋作が決起したことを知った直後、かれは髷を切って死ぬ覚悟をさだめ「生きるも死ぬもこの一戦」と奇兵隊士を鼓舞して進撃、優勢な俗論軍への戦いをいどんだ。やや遅れたが、狂介の名にふさわしくみずからを狂に駆り立てることにより、松下村塾グループの一員として役割を果たし得たのである。 |
| 山県は、好意的に表現すれば、上位指向が強く、悪く言えば、出世欲の権化のような人物であった。高杉の引き立てのより、奇兵隊の幹部に取り立てられ、軍人としての地位を固め、明治維新後は、徴兵制を協力に推進するなど、陸軍創設に尽力する。明治22年(1889)には、総理大臣にまで上りつめ、元老政治の代表格として政界に君臨し続けた。大正11年(1922)没。 |
| 山県さんの裏話 |
| 騎兵隊日記の赤根が隊長だったころのページを破り捨てたのは山県さんらしい。赤根さんより自分の方が・・・って思ってたみたい。そういう性格だから結構周りの人に嫌われてたらしい。明治天皇も有朋を好まなくて、伊藤が暗殺されたあと、桂太郎が有朋を枢密院議長に推薦してもなかなか認めなかったんだって。 |