長州藩
毛利家
36万石
| 維新を、もっとも力強くに推し進めた藩といえば、長州藩をおいてほかにない。多くの藩で尊穣派の志士が活躍したが、急進派が藩政を握ったのは、長州藩だけだったからである。なぜ長州藩でのみ、可能だったのだろうか。 |
| 天保8年(1837)、毛利敬親が長州藩主に就いたとき、藩財政は借金だらけ。おまけに、天保の大一揆は、藩全体に広がる勢いだった。この混乱時に、藩改革に起用されたのが村田清風だった。彼のとった方法は、まず、多額の借金を踏み倒し、一方で、蝋・紙の専売制の強化で、藩財政を立て直した。さらに、蘭学を奨励して、軍事の洋式化を急いだ。とくに、海防問題への取り組みには熱心で、藩士を長崎へ派遣して、外国書籍の翻訳を進めた。天保の大一揆によって農民の力を知った長州藩では、他藩に先駆けて、国民皆兵的な考え方が生まれていた。事実、嘉永2年(1849)には農民、漁民の強健な者によって沿岸警備隊が編成されている。 |
| 長州藩は表向き36万9411石ということにはなっていたが、江戸後期の農業生産の向上により、天保11年(1840)には89万右余となり、明治初年には98万8000右と、実質的には100万石にまで達していた。実質36万石ながら、巧みに蓄財した隠し財源が、長州藩を雄藩にしていったといえる。 |
| 安政期に入ると、村田の後を継いで改苦推進する周布政之助派と、保守的な坪井九右衛門派が藩を二分して、以後、交互に藩政を担当した。坪井も、村田のもとで天保期の改革を進めていただけに、頑迷な保守派ではなく、この時期、他藩の派閥抗争のような混乱にはいたらなかった。この間、藩主敬親は、派閥抗争にかかわらず、藩の内外で目立った動きをしていない。「このようにしたいのですが」と家臣が意見を求めると、かならず「そうせい」と答えたので、″そうせい侯″と陰口をたたかれたが、そのおかげで、長州藩はまとまっていた。他藩では、天保の改革以来保守派と改革派の対立があっても、常にその中心にはそれぞれ藩主の存在と意向があった。対立抗争はその意向によって左右されていた。雄藩といわれる藩には存在感がある藩主がいた。 |
| この八月二十三日の戦いがもっとも激しく、会津藩士の戦死は四六〇余名、藩士家族の殉難は二三〇余名にも上った。 鶴ケ城 (若松城) はこの日から完全に東征軍に包囲されてしまった。容保は形勢を挽回しようと、米沢藩に援兵を求めたが、米沢藩もすでに降伏寸前であり、かえって会津藩に降伏を勧めてくる始末であった。 鶴ケ城は孤立無援のまま、両軍の対峠は二〇日ばかり経過した。 東征軍は日増しに強まる晩秋の寒気が気になりはじめた。もし、このまま時日を費やせば、寒気と積雪で東征軍は動きがとれなくなる恐れがある。 ここは断然、一挙に鶴ケ城を攻め陥す以外にないと、九月十四日、猛砲撃を加えて、全軍に総攻撃を命じた。 城兵も砲撃でもって応戦し、あるいは城を打って出て壮烈な白兵戦を挑んだ。 東征軍が城の東南、小田山に砲陣地を構築し、眼下の城内に砲弾を撃ち込んだので、会津軍は多数の死傷者を出した。日を追って死者の数がふえ、屍臭は城内に漂ったが、藩士や婦女子の士気はいっこうに衰えることはなかった。 しかし、容保はこれ以上の抗戦は、いたずらに死者を増やすのみであり、弾薬・糧食の冬きた城内の惨状をみて、ついに降伏を決断した。 城内の白木綿はみな包帯に使用されて無く、白布の断片を縫い合わせて白旗に用いたという。「長州藩―吉田松蔭―松下村塾―勤王の志士」という連想からすると、長州藩は最初から尊皇攘夷の藩に思える。しかし、安政の大獄で松陰が刑死しても、攘夷派が主流だったわけではない。松蔭の行動は彼個人のプレーであって、藩全体の思想を代表してはいない。長州藩が攘夷の中心的存在になるのは、水戸藩の攘夷派が弱くなってからになる。そのときはまだ、長州藩全体ではなく、桂小五郎を中心とする松蔭門下生の若手であった。その長州藩が、藩として中央政界に乗り出してきたのは、文久元年(1861)3月、長井雅楽が「航海遠略策」を藩主に建白して、これが藩の方針として採用されてからだ。長井は、智弁第一といわれる秀才理論家で、改革派の周布政之助政権のもとで抜擢された人物だ。その「航海遠略策」とは、朝廷が、これまでの行きがかりを捨てて開国し、海外に進出するよう、幕府に命じたならば、国内は統一されて、日本は世界に雄飛する、という積極的閑居論。維新後の政策を先取りした正論だった。 |
| しかし、この正論に真っ向から反論したのが久坂玄瑞である。久坂は長井の論は開国貿易論であると反発した。つまり、「日本には貿易して輸出するような物産がない。ない以上、手持ちの金を流出するか借金するか、領土で代償するかで、一方的な輸入になってしまう。」つまり現段階では開国は亡国を招くという。開国亡国論である。また「万一、開国したとしても現在の幕藩体制では利益が徳川家に独占されてしまう。」という大胆な反論であった。 |
| 5月に入京した長井は、朝廷に献策すると、その足で江戸へ向かい、幕府首脳をも説得した。公武合体と条約違勅問題で苦慮していた幕府は、これに飛びついてきた。文久2年3月には、長井の朝廷工作は功を奏していたが、どんでん返しが待っていた。それは、島津久光の挙兵上京がきっかけだった。京都での尊王攘夷運動の高揚を受けて、久坂玄瑞や桂小五郎は、長井を、幕府を助けるものとして激しく非難した。藩論の分裂を恐れた周布も、ついに反対派へと回る。同年7月、藩の政策は、実行不可能な「破約穣夷」へと転換してしまった。足場を失った長井は失脚して、翌年、切腹をさせられた。これ以後、長州藩は、尊王攘夷の拠点として、中央へ乗り出すことになった。 |
| しかし文久3年(1863)、朝廷工作に没頭していた尊攘派は、8月18日のクーデターで、京をおわれた。これは尊攘派にとっては危機的な事態であった。なぜなら、尊攘派が天皇の意志に反していた、ということになってしまったのである。尊擾は、奪われた朝廷での地位を回復しようという進発論と、まず藩内を固め、長州だけでも擾夷を行おうという割拠論に分かれた。進発論は、久坂玄瑞が代表して、これに京から亡命してきた尊穣派の公卿や浪士たちが加わった。対する割拠論は、松下村塾で久坂と並び称された高杉晋作や、桂小五郎が主張していた。翌元治元年(1864)、進発論が藩の大勢を占めると、彼らは、大挙兵を率いて京へ向かい、7月、禁門の変を引き起こし、敗れた尊攘激派はここに潰滅した。 |
| 幕府が朝廷に上申した攘夷の期日である。幕府は、日本側から攻撃しないように各藩に命令していたが、長州は、これを無視して穣夷を実行した。ちょうど下関海峡を航行中のアメリカ商船ペンブローグ号に砲撃を加えたのを手始めに、フランス、オランダ船を攻撃した。まさか、攻撃されるとは思っていなかった外国船は、驚いて逃げていく。しかし、戦勝気分もつかの間、6月にアメリカ軍艦一隻が現れ、藩所有の軍艦三隻をまたたく間に撃沈する。さらに、フランス軍艦二隻が砲台を攻撃して、これを壊したうえに、睦戦隊が上陸、武器弾薬を焼き払って去っていった。長州軍は、たった二隻に何の抵抗もできなかった。対策を求められた高杉晋作は、武士たちのあまりのふがいなさにあきれて、身分を問わずに、実力のある軍隊を結成した。これが奇兵隊である。態勢を立て直した長州は、ふたたび下関海峡に砲台を築いて、外国船の航行を妨げた。イギリスの呼び掛けに応じて、元治元年8月5日、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国連合艦隊一七隻が攻撃を開始した。戦いは一時間で決した。長州の砲台は猛烈な砲火に沈黙。翌々日には、陸戦隊が上陸してこれを破壊した。下関市街に外国兵が入っても、藩兵は手も足も出せずに、ただ見ているだけで、勇敢に戦ったのは奇兵隊だけだった。一般庶民は、戦いが終わると、穣夷など存在しないかのように、外国人部隊が砲台を破壊するのを手伝ったという。こうして、下関戦争は、長州の一方的な敗北に終わったが、大きな教訓を得た。それは、穣夷が無謀なことを身をもつて知ったこんだろう。開国をして、日本の国力を伸ばすためにも まず、国内を統一しなければならない。こうして、攘夷に代わって、討幕が緊急の課題となったのである。 |
| 第一次征長令、馬関戦争という厳しい情勢のなかでも、藩論は、保守の俗論党、攘夷の正義派に分かれて、対立はますます先鋭化していった。俗論党のリーダーは殺された坪井の直系の椋梨藤太で、彼らの主張は、すべてを犠牲にしても幕府に恭順して、毛利家を守ろうという「統一恭順説」。これに対して正義派は、恭順をよそおって、武力を充実させようという「武備恭順説」を主張した。馬関戦争に敗退し、かつ、幕府軍が目の前に迫るという事態にいたって、俗論党が政権を握ると、正義派のリーダーだった周布政之肋は、進発には反対していたが、暴発を止められなかった責任をとって、切腹をした。さらに、禁門の変の責任者、益田右衛門介、国司信濃、福原越後の三家老に切腹を命じ、首を差し出すことで、長州は幕府軍との全面対決を逃れたのである。 |
| 俗論党は、三家老の首を幕府軍に差し出して、戦いを回避したことが憎まれて、長州蒲のなかでは悪役となった。だが、幕府軍参謀の西郷隆盛は戦わずに勝つことを、この戦いの目標としていた。「長州藩の内情は、よほど混乱しているようすなので、長州藩の暴徒の処置は長州人につけさせる方法もある。藩内が暴党へ正義派)と正党 へ俗論党) の二派に分かれているのは、まことに天の賜と言うべきだ。たとえ、一致していても、二つに分けるのが戦法だ。対立しているものを、無理に攻撃して、ひとつにして死地に追いやるのは、無策というべきだ」 と、薩摩に手紙を送っている。この意味では、最小限の条件で和睦を結んだ俗論党の存在が、長州藩を守ったともいえる。そもそも、西郷の手紙では、俗論党のことを、正党と書いている。勝者の尊穣派からだけでは、維新史は見えてこない。こうして、あいまいなままに第一次征長の役に決着をつけた俗論党政権は、藩庁を山口から萩へと移すと、奇兵隊などの諸隊に解散を命令した。 |
| 幕末の長州藩では、正義派が政権をとると山口へ、俗論党が政権をとると萩へと藩庁が移っている。そこでは、萩は、伝統的な門閥が支配する保守的な町、対する山口は、農業・商業の発展した瀬戸内の改革派の拠点、という意味が込められている。それだけ、民衆の力が藩政へ影響を与えたということで、他の藩では見られない現象だった。元治元年(1864) 12月15日、高杉筈作は、長府の功山寺で挙兵して、下関に向かった。奇兵隊、遊撃隊など正義派の諸隊は俗論党の藩の正規兵を撃ち破って萩へ殺到すると、ついに藩政府から俗論党を一掃してしまった。俗論党のリーダー、椋梨藤太も斬首された。 このとき、正義派の諸隊を支持したのも、瀬戸内沿岸の豪農たちだった。彼らは、こう言っている。「正義派がお倒れになっては、藩はそれっきりです。もし、ご家来様がたでやれないというのなら、百姓一揆をおこして (正義派を)回復しましょう」この力が、第二次征長の役を大勝利へとみちびき、長州藩を倒幕の一番手へと、推し進めることになったのである。このように、華々しい志士たちの活動もさることながら、長州においては、むしろ民衆の力がそれを乗り越えて進んだといえるかもしれない。 |