高杉晋作
Takasugi Sinsaku (1839-1867)
 天保10年(1839)8月20日、長門国阿武郡萩城下町の萩菊屋横丁で、長州藩士高杉小忠太の長男として生まれる。字は暢夫、号は東行。高杉家は元就以来の毛利家家臣であり、馬廻格として二百石の食む上士の家柄の長男として晋作は大事に育てられた。 父小忠太は晋作誕生の頃、藩の小納戸役を勤め、役柄にふさわしく謹厳実直の人であった。父だけではなく、高杉家は代々まじめで、おとなしい保守的な家系であり、ここから晋作の如き人物が出たのはある意味奇跡に近い。子供時代の晋作は、高杉家の一人息子として周囲の溺愛を受け、自然わがままに育っていった。加え、負けん気も人一倍強く、その性格は終生変わることは無かった。十歳の時、天然痘を患い、その影響からか病弱な体質で、しかも小柄で痩せていた為、身体的コンプレックスが強かったようである。少年期は学問よりも剣術に励んでいたのは、この身体的コンプレックスを克服せんが為かと、考えられる。幼少の頃の晋作は萩城下、吉松淳蔵の家塾(寺子屋格)で読み書きを習い、長じて藩校・明倫館に入学して、安政4年(1857)19歳のときには、学業優秀をもって入舎生(特待生)を命じられている。また、10代の晋作は柳生新陰流の内藤作兵衛について日夜剣術の修行に励み、免許皆伝を得ている。
 そんな晋作の最初の人生の転換期となるのが19のときである。14歳の頃から藩校・明倫館に通い、剣術に熱中する。柳生新陰流免許皆伝まで上り詰めた。明倫館の入舎生となったものの儒教を中心とする古典を教える明倫館に物足りないものを感じ、安政4年19歳のとき、中谷正亮のすすめで(学友の久坂玄瑞ともいわれている)松下村塾に通う。晋作は、机上の空論とは違い、実践を重じ、心の底から日本の将来を憂う吉田松陰に心服する。また、そこで一歳年下の久坂玄瑞と知り合い、吉田松陰もこの二人を評価し、ことさらに二人を比べ切磋琢磨させた結果、晋作の学力はみるみるうちに伸び、議論も卓越したものになっていった。松陰も事あるごとに晋作に意見を求めるまでになったのである。
 晋作が学問に身を入れるようになるのは吉田松陰に出会ってからである。松陰と出会い、その強烈な感化を受けたことが、晋作の生涯を決定したと、言えるのだが、最初は松陰に入門する事には、戸惑い気味であった。何故ならば、謹厳実直の父小忠太にとって、松陰の思想教育は危険極まりないものであり、松陰への師事を認めなかった。吉田松陰という男は優秀な男ではあったが、ことことごく藩庁首脳部の 忌避する決まり破りをした男であり、上級武士の師弟が近づく相手ではなかった。また晋作も晋作で、父に逆らうことは出来ない性分であった。村塾門下生となって以降も、そのことを父には告げず秘密裏に松本村へ通っていたようである。入門後の晋作の学問の進歩はすさまじく、また学問のみならず、言動もますます優れたものとなり、塾生の間で頭角を現すようになっていた。いち早く晋作の優れた点を見抜いた松陰は、晋作の競争心をあおるが如く教育を施したのであった。競争相手は松陰が「天下の英才」と称した、晋作の幼な友達の久坂玄瑞であるから、負けん気の強い晋作は猛然と学問に挑んでいったのだった。彼は、「あのときほど夢中になったことはない」と、後年述懐している。このような二人に対し、松陰は競争心をあおりつつも、互いに優れた点を認め合い協力していくよう促すのであった。こうして、玄瑞が「暢夫(晋作)の大識見にはかなわんなあ」と、言うと、「いやあ、やっぱし、おぬしの才は当世一じゃ」と、晋作が言い、二人は互いに認め合うようになった。これこそ、松陰が望むところであった。
 久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿など松下村塾の俊英が次々と江戸へ赴く中、晋作は自宅謹慎同様の姿でひきこもりなかなか藩外に赴くことが出来なかった。上士である高杉家としては国事犯である吉田松陰に晋作が近づくことを嫌っていた。祖父も、「なにとぞ大なることは致してくれるな。」というような人で、晋作は思うように行動が出来なかったのである。そんな祖父の死により、江戸遊学の機会を得た、安政5年7月、江戸に赴いた。まず日本橋の大橋訥庵の門を叩いた晋作だが、熱烈な攘夷論を唱える訥庵と塾の雰囲気が気に入らなかったらしく、すぐに退塾している。11月、幕府の昌平黌に入学。しかし中国の古典をテキストにして漢文の読み方を教えるような講義が晋作の心を満たすはずもなかった。そんなおり、条約に反対した松陰が老中・間部詮勝の暗殺を企てたのである。もてあました長州藩は松陰を投獄し、そののち安政の大獄に連座して松陰は江戸に送られた。晋作は牢にお金や筆紙を差し入れたりして献身的に奔走した。懸命に尽くしたが、一人息子を松陰に近づけることを嫌った父の画策によって帰国させられた。晋作が帰途についたのが10月17日。それからわずか10日後の27日に松陰は伝馬町獄で処刑された。松陰は「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし。」と晋作に手紙で教え、このことは晋作のその後の生き方となる。
 松陰の死後、久坂ら松下村塾生たちは尊王攘夷運動に邁進していったが、晋作の父・小忠太は晋作に平凡な人生を歩むことを願っており、晋作は「孝」のためにそれに逆らうことが出来ず、しばらくは同志との距離をおく時期が続く。さらに万延元年(1860)1月23日、親の勧めに従って長州藩士井上平右衛門の次女・雅子と結婚した。だが、新婚まもなくの2月25日、自ら希望して、藩の軍艦教授所に入って操練術の習得に励んだ後、航海実習として軍艦丙辰丸の遠洋処女航海の乗組員になり、4月5日、江戸へ旅立つ。60日ほどかけて江戸についた晋作だが途中、永い航海にあきあきし、また船酔いにも悩まされた晋作は江戸に着いたとたん「船は自分に向いていない」と、勝手に下船し、北関東、信州、北陸方面への遊歴を藩に願い出て許された。8月28日、江戸を発ち、笠間の加藤有隣、松代の佐久間象山、福井の横井小楠などに面接し、10月下旬には萩に帰着した。
 文久元年、晋作は江戸湾警衛の為、番手として再び、江戸に出る。江戸に着くや桜田の藩邸では久坂玄瑞を中心として長井雅楽追い落としの策が論議されていた。そのころ長井の唱えた「航海遠略策」が長州藩の藩是となっており、水戸や薩摩の尊攘派志士達の連中に対し、長州尊攘派代表格の桂小五郎、久坂玄瑞らは肩身の狭い思いであった。しかし、晋作は父が長井の親友であるという立場もあり、久坂らとは行動をともにせず、黙観していた。 しかし、突然、本気かどうか晋作は「長井雅楽を斬る」と、言い出した。これを聞いた藩の要人周布政之助は、晋作の暴挙を止めるべく、日本より追い出す為、上海渡航を晋作に促すのだった。晋作はあっさりと上海渡航を承諾した。このように言行の一致しない晋作を周囲は冷ややかな目で見るのだった。長崎では百日間も足止めされ、その間晋作は、藩から渡航に際してもらった金で豪遊を繰り広げ、またなじみの芸妓を見請けしてそばに置いたりした。藩の金で買い取ったこの芸妓は、上海出向時には、また他に売り払ったというから、何ともあきれた男である。文久2年1月3日、江戸を発して長崎に赴いた。晋作達を乗せた千歳丸が長崎を出港したのは4月29日のことだった。5月6日、上海についた晋作たちの目を奪ったのは港を埋めつくすヨーロッパ諸国の商船と、城郭のような商館、我が物顔で市街地を歩く外国人と、それを避けるかの如く、こそこそ逃げ隠れする清国人の姿であった。晋作は上海滞在中、外国公館を訪れて西洋の武器を見学したり、また半植民地化した状況の清国人の意見をきくなど精力的に行動し、時勢への認識を深めていった。この上海視察により、欧米列強の力を感じ、このままでは日本も清国の二の舞になるという危機感を抱いた。単純な攘夷は不可能であることを悟ったのである。約二ヶ月の上海視察を終えた。晋作の上海滞在中に藩論は大きく変わっていた。長井雅樂が久坂らの弾劾運動によって失脚自刃し、破約攘夷(即今攘夷)を藩論とする旨が決定していた。晋作は本当の攘夷をするなら国力をつけることが第一であると主張し7月14日、長崎に帰着。軍備の増強の必要性を感じた晋作は、オランダが売りに出していた蒸気船を、長州藩が購入するという契約を独断で結んだ。周布政之助のみは賛成したが、晋作の思いは重臣達には伝わらず、財政難を理由にこの契約は立ち消えとなり、晋作に対する非難だけが残った。
 その後、江戸に舞い戻った晋作は、十二月、久坂・井上・伊藤らと共に、品川の御殿山にある英国公使館焼討ち事件を起こす。この建物はまだ引渡し前で、直接英国に対し被害を与えたわけでは無かったが、ヒュースケン暗殺、東禅寺事件、生麦事件に続く、この攘夷事件に、幕府は次第に苦境に追い込まれてゆくのだった。翌文久三年正月、桜田の藩邸を出た晋作ら一行は、小塚原の刑場に向かった。師松陰の遺骸を掘り出して、世田谷若林村の大夫山に改葬しようというのだった。掘り出した遺骸は三年の歳月の間に白骨化し、これを見た晋作は絶句した。松陰処刑時、晋作は江戸にはおらず、松陰の血まみれの首を洗い、裸の松陰に襦袢を着せ埋葬したのは、桂小五郎、伊藤俊輔らである。そのため、この改葬は晋作自らの手で執り行いたかったのであった。刑場を出た晋作一行が上野の三枚橋にさしかかった時、「まんなかをとおれ」と馬上の晋作は叫んだ。三枚橋の中央は将軍が東照宮に参詣するときに通る御成橋で、将軍以外わたることはできない。橋役人が「お留め橋としらぬのか」と、叫んだ。晋作は、「知っておるわ。これは勤皇の志士吉田松陰先生のご遺骸である。勅命をいただいてまかりとおる。無用のとめだてをするならば・・・」と、凄みをきかせて槍の矛先を役人に向けた。役人が後ずさりするすきに、一行は御成橋をわたり終えてしまった。これも師松陰を殺した幕府への仇討の一種と考える晋作であった。
 三月、晋作は京都に呼び出され学習院御用を命ぜられた。晋作は相変わらず、自論の割拠論を説くのであったが、藩の要人らには受け付けられず、十年間の暇願いを出すのだった。晋作の良き理解者、周布政之助は、これをしぶしぶ許可した。その翌日には頭を丸め僧形になってしまう。西行法師を慕い、「西へ行く人を慕うて東行く我が心をば神や知るらん」と詠み、「東行」と号した。 その後、京都退去を命ぜられ、萩に帰ると、菊屋横丁の実家には帰らず、松本村の小屋に住みついた。この小屋で妻、雅と共に、ひとときの静かな生活をおくるのだった。こうして静かに世捨て人として生活しようとしていた晋作だが、長州藩は攘夷に向かって本格的に邁進する。将軍家茂は長州藩を中心とする尊攘派に追い詰められ5月10日をもって攘夷を断行することを朝廷と約束させられてしまい、その5月10日、久坂や寺島(忠三郎、松陰門下)らは下関眼前の関門海峡を通航するアメリカ商船ペンブローク号に砲弾を撃ち放った。その後、次々と、海峡を通る外国船を砲撃し続けた。突如砲撃された外国船は驚いて逃亡し、一時戦勝気分にうかれた長州藩だが、列強の軍艦の報復にあい、たちまち敗走してしまう。この報を聞いた藩主毛利敬親は激怒。晋作を呼び出し、下関防御につき、何か良策はないかという問うた。この時晋作は、士分のものだけでなく幅広く有志のものを募り、奇兵隊を結成することを建言。藩主は大いに喜び、即座に晋作に下関の防御を一任した。晋作はただちに馬を飛ばして下関竹崎の商人白石正一郎のもとへ行き、奇兵隊の構想を話し、協力を要請。正一郎は快諾し、弟廉作と共に入隊する。白石は馬関における尊攘志士で世話にならない者はなく、藩内のみならず、藩外の脱藩浪士でさえも面倒を見た。晋作はこの白石を長州回天事業における最大の功労者であるとしている。白石は晋作に惚れ込み、とめどなく金銀をつぎ込んでいった。そのため、維新前後にはほとんどの家財を使い果たしたという。6月7日、白石の邸宅を本陣として奇兵隊が結成され、晋作は下関防御の立て直しに乗り出すことになる。なお、下関で外国船に砲火を浴びせていた長州藩は、横浜から井上聞多(養子に入っていた志道家から籍を抜いた)、伊藤俊輔ら5人の秘密留学生をイギリスのロンドンに送り出していた。
 初代奇兵隊総督となった晋作は、同時に新知百六十石を給せられ藩の政務座役に任ぜられた。奇兵隊は順調に成長し最盛期には六百名ほどになった。その後、奇兵隊の成功に刺激を受け多くの諸隊が各地で結成されていった。晋作の構想では、これを機に長州一国を強大な軍事大国にしたてあげ、外圧をしのいだ後、そのすべてを倒幕一点に傾けるというものであった。藩内各地からあらゆる階級の志望者が相次ぎ、規模を拡大していった奇兵隊だが、藩の正規軍、先鋒隊との軋轢が生じ始めた。先鋒隊はかねがね奇兵隊の存在を面白く思っておらず、奇兵隊は外国兵との戦いで無様な負け方をした先鋒隊を内心ばかにしていた。両隊の確執は続き、ついに8月16日夜、些細なトラブルから、奇兵隊士の一団が先鋒隊の宿舎である下関の教法寺を襲い、先鋒隊士たちは逃げ去ったが、治まらない奇兵隊士は病で寝こんでいた先鋒隊士蔵田幾之進を斬殺して立ち去ったのである(教法寺事件)。総督である晋作は当然罪を問われるはずだったが、直接喧嘩の原因となった奇兵隊士宮城彦輔が切腹することで一応決着がついた。9月15日には晋作も奇兵隊総督を去り、10月11日を持って、奥番頭(藩主の側近)についた。
 八月十八日の政変によって京を追われた長州藩では、武力を背景に京に上り、嘆願して冤罪を雪ごうという進発論で沸き立っていた。元治元年(1864)晋作は藩主の命令で、進発派の筆頭、遊撃隊総督・来島又兵衛を防府に訪ね、思い留まるように説得したが又兵衛は「臆病者、新知百六十石を捨てるのが惜しいか」と晋作をののしり聞き入れない。。晋作は、「臆病者でない証拠をお見せしよう」と、そのまま京に走った。つまり藩主への復命を放棄し、脱藩したのだった。京で桂小五郎に説得された晋作は帰国後、3月29日、脱藩の罪で野山獄に投獄され、その後、自宅座敷牢に移されたのだった。進発派の勢いに引きずられた長州藩はついに京都に軍勢を上らせ、7月19日、薩摩・会津を中心とする諸藩の軍勢と激突、敗走する(禁門の変・蛤御門の変)。この戦いで、久坂玄瑞、入江九一、真木和泉、来島又兵衛など多くの有為の人材を失った。京都の敗走が藩主の耳にもたらされたのと同じ頃、今度は四ヶ国連合艦隊が前年の攘夷活動の報復のため、横浜を発し、下関へ向かうという情報が届いた。さらに御所に兵を向けたことにより、「朝敵」となった長州藩を征伐せよとの勅命が7月23日、幕府に下る。内憂外患、危急存亡の窮地に立たされた長州藩だが、晋作はこの間、野山獄では書と詩作に没頭していた。四国連合艦隊が現われると、父・小忠太のはからいにより座敷牢に移されていた晋作に8月4日出頭命令が出て、晋作は山口に赴き、この報を聞き急遽帰国していた井上・伊藤らと対策を練る。17隻からなる連合艦隊は8月5日から7日にかけて下関を砲撃。上陸する。止戦講和の談判は8月8日よりはじまった。下関海峡に浮かぶ連合艦隊の旗艦を訪ね、クーパー提督と会見した。通訳として、伊藤俊輔、井上聞多がつきそっていた。晋作は藩の筆頭家老宍戸刑馬というふれこみで、旗艦におもむき、そのいでたちは黄色い一等礼服の烏帽子直垂姿であった。外国の要求のうち、下関の安全通行、薪水の補給をさせること等は認めたが、賠償金300万ドルは幕府に請求させることに成功した。また、彦島租借については、これを許せば清国の二の舞になると思ったか、急に神代からの我国の歴史を講じはじめたのだった。晋作は相手を煙にまいたのか、クーパーは要求を引っ込めてしまった。だが実際は、彦島租借がイギリスの抜け駆けの要求であったため、簡単に要求を引っ込めたにすぎなかった。だが、この晋作の機転が、もし無かったとしたならば、関門の地に、香港の如き植民地が我国に存在していたかもしれない。晋作の態度はイギリス公使の通訳官アーネスト・サトウによると「魔王の如く傲然として見えた」と、言い表している。
 晋作は8月18日に馬関応接役、30日には政務役兼石州境軍務管轄となり藩政に復帰。10月5日には待望の長男・梅之進(のちの東一)が誕生している。
幕府の征長軍がせまると、尊皇攘夷を唱え革新的な政治を続けてきた「正義派」が失政を責められて失脚、幕府への徹底恭順を唱える「俗論派」が首をもたげ、「正義派」の重鎮・周布政之助は自刃、井上聞多は帰宅途中を刺客に襲撃され瀕死の重傷を負い、晋作も現職を退くこととなった。「俗論派」が幕府への謝罪恭順のため、「正義派」の要人の捕縛を開始し、危機を感じた晋作は10月25日萩を脱出、奇兵隊軍監・山県狂介(のちの山県有朋)を訪ね、協力を求めたが、慎重な山県は動かず、仕方なく九州に亡命した。筑前脱藩の中村円太の提案により、九州各地の尊攘派糾合を図ろうとした晋作だが、すぐにその不可能を悟り、筑前藩の月形洗蔵の紹介で福岡郊外に隠棲する野村望東尼のもとに潜伏して時期を待つことにした。望東尼はこのとき五十九歳、かつて勤皇僧月照をかくまったこともある勤皇尼僧である。後、晋作の死を下関で見取った望東尼は、晋作を厚狭郡吉田の清水山に埋葬した。そんなおり、「俗論派」が幕府への恭順の意を示すため、「正義派」の三家老、四参謀を処刑したことを知った晋作は、長州藩に戻り、「俗論派」を倒す決意を固める。
 11月下旬、下関に戻ってきた晋作は奇兵隊を訪ねともに決起することを求めたが、当時の総督・赤根武人ら諸隊の幹部は「俗論派」との妥協点を模索中で、晋作の説得に耳を貸そうとはしなかった。晋作は賛同してくれた遊撃隊(総督・石川小五郎)、力士隊(総督・伊藤俊輔)あわせて80名ほどを率いて12月25日深夜、長府功山寺から出陣。晋作が最も当てにしていた奇兵隊の実権を握る山県狂介はこのときの挙兵には賛同していない。 馬上の人となった晋作は、三条実美ら五卿の前で「今日より長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と、言うと、雪をけたてて下関を目指した。夜明けと共に下関新地にある長州藩の会所を襲撃し、続いて決死隊20人を率いて三田尻の海軍局を襲撃して軍艦癸亥丸を奪った。さらに翌慶応元年(1865)1月2日には再び新地会所を襲撃、占領した。奇兵隊および諸隊は晋作の決起に動揺し、1月7日未明、ついに決意を固めた諸隊軍は、絵堂に駐屯していた「俗論派」の政府軍陣営に戦書を投じ、奇襲をかけた。絵堂を占領した諸隊軍は、「俗論派」政府軍を各地で破っていった。内戦の結果、萩の藩庁では鎮静会議員という中立派が誕生し、「俗論派」を藩政から追放。代わりに「正義派」の要人たちを復帰させたのである。 政権交代の行われた長州藩は、表向きは幕府に恭順を装い、裏では実力を蓄えるという「武備恭順」の姿勢を固めた。その一方で、庶民や下級武士からなる諸隊が発言力を持ち始めたために、晋作は世禄の藩士だけで結成された干城隊をを新しい軍事体制の中心に置こうとした。奇兵隊および諸隊を干城隊の下に置き、その命令がなければ諸隊が動けないシステムを築こうとしたのである。さらに諸隊を藩内各地に分散させた。諸隊は不満を抱えながらもそれに従った。
 その頃晋作は、下関を世界に広く開港し、長州藩の物産を輸出、最新の武器を輸入して実力を蓄える構想を立てていたが、諸隊との間に齟齬が生じ、突然イギリスに密航すると言い出す。藩も晋作と伊藤俊輔(のちの博文)の洋行を黙認し費用を与えたが、船便を探すべく長崎のイギリス商人グラバーに相談を持ちかけた所、幕府がいつ攻めてくるともわからないときに長州を離れるべきではない、下関の開港が先決であると説得され、洋行を中止。4月には下関に戻り、馬関応接掛に任ぜられ、開港を推し進めようとしたが、下関は支藩・長府藩の領内であり、この計画は下関を宗藩の管轄にするというものだったので、晋作・井上・伊藤の三人は長府藩士および頑なな攘夷主義者から命を狙われることとなり、気ちがい連中にころされてはたまらないと、晋作は下関の芸妓・おうのを連れて海路、四国松山の道後温泉に逃れ、琴平の侠客・日柳燕石を頼った。閏5月3日、高松藩が晋作の捕縛にかかったさい、日柳は自分が代わりに縛に就き、晋作を逃した。虎口を脱した晋作らは伊予→備後と逃走・潜伏し、ほとぼりが冷めるのを待って下関に戻った。しかし、藩は下関開港は時期ではないとし、晋作ら三人を馬関応接掛を解任していた。晋作の留守中に、長州藩では、前年京都での敗戦以来姿をくらましていた桂小五郎(のちの木戸孝允)が帰ってきており、近代的な体制づくりを推進する一方、村田蔵六(のちの大村益次郎)を登用し、軍政改革を推進していた。 幕府が長州藩への再征を朝廷に上奏、許可されると、藩庁は桂や晋作への追及を避けるため、桂小五郎を木戸貫治、高杉晋作を谷潜蔵と改名させ、まったく別に人物に仕立て上げた。これにより晋作は高杉家を廃嫡される形となった。この前後に土州の坂本竜馬・中岡慎太郎らの仲介により薩長同盟が成立。長州藩は、竜馬の提案により薩摩名義で武器・弾薬を購入することができた。また晋作はグラバー商会から売りに出されていた蒸気船を独断で購入。晋作の独断を非難する声も大きかったが、木戸や井上の周旋により事無きを得、迫る幕府軍との戦いの準備が整っていったのである。晋作の購入した蒸気船は、干支にちなんで丙寅丸と名づけられた。
 慶応2年(1866)1月22日、幕府は朝廷に長州処分を奏請して翌日許される。藩主親子の蟄居と10万石の削封というものだったが、5月29日、長州はこの条件を蹴って、交渉は決裂、第二次征長戦争の幕開けとなる。この戦争は、幕府軍が長州藩を四方から取り囲み、芸州口、大島口、石州口、小倉口という藩境で戦闘が行われたために「四境戦争」と呼ばれた。6月7日、幕府軍艦が周防大島を砲撃、松山藩兵が上陸占領する。海軍総督に任じられた晋作は12日未明、丙寅丸に乗り込み停泊中に幕府軍艦に奇襲をかけ、幕府軍艦は逃亡、さらに奇兵隊が上陸して松山藩兵を追い払い、大島を奪い返した。晋作が指揮したのは小倉口の戦闘である。本営を小倉城におき、老中小笠原長行を総督に、小倉藩・肥後藩・唐津藩・久留米藩など総勢2万人以上といわれる小倉口の幕府軍に対し、晋作は奇兵隊・報国隊の精鋭一千を率いて応戦した。6月17日未明、五隻の軍艦に乗り込んだ長州軍は一斉に関門海峡を渡り、田ノ浦・門司を艦砲砲撃し、さらに上陸・占領したが、深追いをせず敵地の一部を焼き払って下関に戻る。7月3日にも戦闘が行われたが、この頃から晋作の病が目に見えて悪化してゆく。不治の病、肺結核であった。晋作はそのために佐世八十郎(のちの前原一誠)に指揮をまかせる事が多くなった。7月27日、三度戦闘が行われたが、小倉城の外れ、赤阪を守る肥後藩兵の猛反撃にあい、長州軍は劣勢になる。しかし、7月20日に将軍・家茂が病死したとの知らせが小笠原総督のもとに届くと、彼は突如、小倉口征長軍を解散して、自国に引き上げてしまった。これにより小倉城は孤立、自ら城に火を放った。小倉口以外でも長州軍の勝利は続き、9月2日、芸州宮島において幕府の使者勝海舟と長州藩士広沢兵助(真臣)らとの間に休戦協定が結ばれ、慶応3年(1867)1月23日、幕府は孝明天皇崩御(慶応2年12月25日)を理由に、征長軍の解兵令を発した。この戦争は事実上長州の圧勝であり、幕府はその醜態を世間に晒すこととなった。
 慶応2年10月頃、晋作は、下関の郊外桜山に「東行庵」と名づけた小屋を立て、療養の家とした。藩は病の重くなった晋作の赤間関都合役を12月29日に解き、翌慶応3年1月6日にはすべての現職を除いた。2月には市街に近い下関新地の商人林算九郎方の離れに移る。慶応三年四月十四日、晋作の枕元には父母、妻妾、友人らがつめかけていた。その中に、かつて筑前に逃亡中、晋作をかくまってくれた野村望東尼の姿があった。望東尼は先年、玄海沖の姫島に幽閉されていたところを晋作らに救出され、白石正一郎宅にかくまわれていた。晋作は辞世の句を書き出した。「おもしろき こともなき世を おもしろく」と、ここで気力が尽き、筆を取り落とした。そこで、望東尼は晋作に代わりに下の句を付けてやった。「すみなすものは 心なりけり」。晋作は、「おもしろいな」と、微笑んだ・・・。そして、静かに息をひきとったのだった。時に、享年二十七歳八ヶ月であった。
高杉さんの裏話
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と言われたがほんとにそのとおりだと思う。きわめて英雄的なイメージが強く、行動は自由奔放で情熱的だけど結果的にみると冷静な状況判断のもとに行動しているようにも見えるね
結婚の時はくじ引きで相手が決まったらしい。というか晋作じゃなくて雅子の方がくじを引いた。3枚の紙から1枚引いたら、幸か不幸かそこには「高杉晋作」と書いてあった。たぶん不幸だった思うけど・・・。実際一緒にいた時間は1年ちょっとだったみたいだったし。また、すごい酒好きで亡くなる前にも急に酒を飲みに行こうと言い出し、行きの籠で漏らしてしまい苦笑して戻ってきてそのままなく亡くなったんだって。