白石正一郎
Siraisi Syouitirou (1812-1889)
幕末の志士たちを物心両面から支援したことで知られる下関(竹崎)の廻船業の豪商白石正一郎は、長州藩の支藩である清末藩(1万石)の御用商人だった。そうした政治的立場の弱さが、正l郎の商売にも深く影響を及ぼしたことは、言うまでもない。
例えば、こんな「事件」があった。 安政5(1858)年、正一郎は西郷吉之助(隆盛)らに斡旋してもらい、薩摩藩から藍玉を仕入れ、長州藩に売り込む交易を計画した。しかし、正一郎が産物方役所に、この計画を願い出たと二ろ却下されてしまう。それどころか藩は、正一郎が立てたせっかくの計画を、西市(山口県豊浦郡豊田町)の勧農大庄屋中野半左衛門の手にまかせる。中野は萩の本藩の御用商人でもあるのだ。 正一郎は、よほどくやしかったらしい。めったに感情的なことを書かない『日記』に、中野のことを「大奸物」と記している。また、「あまり 残念なる事なれば、追てこの自注を入れ置くなり」とも記している。こうした苦汁を飲まされてきた正一郎の前に「馬関(下関)防御」の公務を帯びた高杉晋作が現われ、協力を求めた。文久3(1863)年6月のことである。正一郎はこれを機に、政治と深く結びつこうと考えたのだろう。晋作への協力を誓った。こうして正一郎宅を本陣に、奇兵隊が結成される。正一郎自らも隊に参加している。正一郎は鈴木重胤門下の国学者でもあったから、志士たちの説く尊王嬢夷論も、よく理解出来たことは確かだった。しかし、単に思想だけで無私無欲の支援を続けていたわけではなく、正一郎なりの商人としての打算も、当然、存在したと思われる。だが維新という新しい時代が到来した時、正一郎に活躍の場は無かった。志士たちを支援したことで大きな負債を作ってしまった正一郎は、家業をたたみ、晩年は赤間神宮(下関市)の第二代宮司をつとめ、黙して語らぬまま明治3(1889)年に亡くなった。しかし彼の日記によると白石邸を訪れた志士は約400人。まさしく明治維新の隠れた功労者といえる。現在、白石家の浜門が長府松小田町に移築されている。