| 天保14年(1843)松本村に父、級藩士品川弥市右衛門萩藩足軽の子として生まれる。15歳で松下村塾に入る。松陰の冤罪を訴えて謹慎させられたが、翌年には許された。文久2年4月上京して寺田屋事変に関係。また、江戸に行き、11月高杉晋作らと英国公使襲撃を計画、御楯組の血盟に参加した。松陰の死後、久坂玄瑞、高杉晋作に兄事して尊攘運動に活躍した。慶応2(1866)年の薩長同盟提携では、人質として薩摩藩邸に留まった。戊辰戦争では御楯隊をひきいて転戦。萩の乱、翌10年西南戦争鎮圧に尽力。同14年農商務省で殖産興業に努めた。同15年協同運輸会社設立を援助したが、過当競争で失敗。同17年子爵。同18年駐独日本公使。同20年帰国後宮中顧問官、22年御料局長官を兼任、皇室財産を確立した。 同24年6月第一次松方内閣の内務大臣となり、信用組合法案を第2議会に初提案。翌25年3月第2回総選挙における民党への選挙干渉指揮で引責辞職。その後、枢密顧問官に任ぜられたが、同年6月退官して西郷従道、佐々友房らと国民協会を組織し、ついで同副会長となった。国民協会は対外硬派の運動などで実績があったが、日清戦争後低迷し、明治32年解散。この年枢密顧問官に復帰したが、翌年肺炎のため東京で病死した。「トコトンヤレ節」は品川の作という。維新後は、ドイツ公使、内務大臣などを歴任。松陰の意志を継いで京都に尊攘堂を建てた。(現京都大学所管)明治33年没。58歳 |