| 文政8年5月3日、町医師藤村孝益、村田梅の長男として周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に生まれる。幼名宗太郎、のち村田良庵、蔵六。慶応元年12月長州藩主毛利敬親の命により、大村益次郎と改姓名。諱は永敏。大坂の緒方洪庵の適塾に学び、塾頭となった。嘉永3年(1850)故郷に戻り村医者になるが、嘉永6年に宇和島藩主伊達宗城に召し抱えられた。のち桂小五郎の働きかけにより長州藩での召し抱えとなる。慶応元年(1865)高杉晋作の推挙により軍事指揮をとるようになる。慶応2年第二次征長時には石州口軍事参謀として勝利を収め、戦術家として脚光を浴びた。明治2年6月、戊辰戦争の軍功により、永世禄千五百石を受ける。明治2年9月4日、京都大坂の軍事施設視察のため京都の三条木屋町の長州藩控屋敷に投宿中、門人の加賀藩士安達幸之助と長州藩士静間彦太郎と酒肴のところ攘夷派の浪士に襲われた。襲ったのは、長州藩出身の神代直人、団伸二郎、太田光太郎、白河藩出身で軍曹の伊藤源助、越後郷士で府兵の五十嵐伊織、秋田藩出身の金輪五郎、三河藩宮和田進、信濃伊那郡の郷士関島金一郎の8名。その傷がもとで敗血症をおこし、11月5日大坂病院で死去。「火吹きだるま」とは高杉がつけたあだ名である。 |