長井雅楽
Nagai Uta (1819-1863)
文政2年(1819年)生まれ。長州藩士。始祖は鎌倉幕府を支えた政治家大江広元の次男であり、主家毛利家はその四男であったという。よって、毛利家臣団のなかでも、長井家は名門中名門であり、長井雅楽自身、藩主の信頼厚い重臣であった。天保8(1837)年には小姓役に抜擢され、嘉永4(1851)年には奥番頭にまで進み、殿中の諸事一切を統轄するにいたった。この時、敬親から雅楽の名を与えられている。そして安政5(1858)年十月には直目付となり、翌6記録所役を兼任して、藩政の中枢に参画するまでになった。
歴史は時に、非情な一面を見せる。「智弁第一」とまでうたわれ、順調に栄達を遂げていた雅楽に、あまりにも理不尽な死が待っていたとは、誰が予測できたであろうか。事の起こりは、文久元(1861)年三月、長州藩が中央の政局に乗り出してゆく時のこと。「航海遠略策」と呼ばれる、雅楽の起草による公武合体、開国論が、長州の藩論として採用された。これは、勅許を得ずに幕府が行なった開国を既成事実として認め、今後、朝廷が幕府に命を発するなら、皇国は世界に雄飛するであろうという考えであった。この「航海遠略説」はたちまち藩主敬親の心をとらえ、これをもって藩論とし幕府に国是として認めてもらうべく長井雅楽自らが朝廷、幕府それぞれへ建白書を提出し、周旋を計ることとなる。違勅調印を非難され、苦境に立たされていた幕府は、この「航海遠略策」に飛びついた。そして、この航海遠略説はあの徹底した攘夷論者である孝明天皇にこのような堂々たる建白書は読んだことがないと言わしめ、朝廷、幕府共に好感をもって受け入れられて長州藩は大いに面目をほどこすこととなる。しかし、おもしろくないのが久坂玄瑞ら藩内の攘夷論者で、その多くは吉田松陰門下であった。師松陰は尊王攘夷遵法であり、到底座しているわけにはいけない。又、長井雅楽はあの安政の大獄の際、幕府に屈服し松陰を江戸送りにした憎い敵であり、久坂らは猛然と反対行動を展開する。吉田松陰は長井雅楽より10才程若い。ひたすら純粋で情熱的。ただ、純粋過ぎて現実的ではない。書生論の域を脱しておらず、藩論として取り上げるにはあまりにもまっすぐすぎて、刺激も強すぎる。まだ青いといえる。そして、その青いところを引継いだのが松下村塾門下生達である。彼らはただ、長井憎しで行動していた感がある。そのため、雅楽は尊操派志士の憎悪を一身に受けることとなる。最も敵視したのは、久坂玄瑞だった。玄瑞は当時20代前半で、雅楽からすれば書生のような者。当初は相手にもしなかった。ところが玄瑞は「長井雅楽罪案」を書き、執拗に排斥運動を続け、ついには藩の重臣周布政之助までも味方にしてしまった。こうして長州藩は文久2年7月、藩論を尊王穣夷に一変させ、雅楽は朝廷をそしった者として失脚を余儀なくされた。そして帰国、謹慎して罪を待つ身となった。藩主は助命を願っていた。しかし玄瑞らの勢いが強く、ついに文久3年2月6日、雅楽は藩命により、見事なる切腹をして果てた。享年45。
長井さんの裏話
維新後、雅楽の協賛者たちはもちろんだが、死に追いやった者たちまでが後になって悔やんだと言われているが、逆にこの長井雅楽の開国論を長州人達は維新史の恥部として、全てが長井の個人的運動で長州藩は何ら関知していなかったと主張した人たちもいたらしい。