毛利敬親
Mouri Takatika (1819-1871 )
長州藩11代藩主・毛利斉元の第1子として、江戸麻布の長州藩邸で生まれる。天保8(1837)年4月萩藩主毛利斉広の養子となり、家督を継ぐ。末期の養子。1837年、19歳の時に藩主となり跡を継いだとき、溜まっていた借金は銀9万両、年間国家予算のなんと24倍であった。藩財政の改革や文武の振興に尽くす。妄奮起して財政改革に取り組み、村田清風を登用して踏み倒しなどの手荒な手段もとりながら、幕末にはほとんどゼロにしてしまった。その後、村田と対抗する坪井九右衛門をも藩政改革に登用した。8月18日の政変によって入京を禁じられる。翌年、禁門の変を起こした罪で官位を削られる。1867年、王政復古がなされると官位を復旧され、後に参議、山口藩知事となる。
毛利敬親は、家臣が何事かを上申すると、どんな提案でも「そうせい」と許可を与えたため「そうせい候」と呼ばれた。1869年に、家督を子に譲って隠居し、間もなく亡くなった。明治になって旧大名のひとりが、毛利敬親に、そのことをきいたところ、ああでなければ殺されていたでしょう、といったという。ともかくも、長州藩において藩主は起き上がり小法師の重心になる鉄片だった。このおかげで藩論が左右になって激動しても、藩そのものは壊れず、結果的には長州は維新の主導勢力になった。
毛利さんの裏話
 長州藩の毛利氏は、関ケ原の戦いで敗れる前は8か国120万石の太守だったけど、敗戦後は37万石に減封されてしまった。当然、徳川幕府を嫌っていた。毎年正月に藩主と重臣が行う行事は、徳川征伐の問答だったらしい。重臣が(徳川征伐を)「今年こそいかがでしょう」というと、藩主はしばらく考えてから「いましばし、時機を待とう」と答えてたんだって。