| 天保5年(1834)萩藩士佐世彦太郎の長男として生まれる。安政4年10月、24歳で松下村塾に入門する。松陰は「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ」と評した。間部要撃策に血盟した一人。安政6年2月、長崎に遊学、8月藩の西洋学所に入り翌年まで在学したが、文久元年10月頃まで病床に就いた。元治元年12月、高杉晋作の挙兵に参加。戊辰戦争では大激戦だった会津若松城を板垣退助と共に落した。会津藩の籠城してまでの抵抗に対し「胸中に一点の風味あるに似たり」と述べ、会津藩士の武士としての精神と姿勢に共感を寄せていた。戦後は越後府判事に就任した。慶応3年海軍頭取となる。明治元年7月、北越軍参謀。翌7月参議、12月兵部大輔となったが木戸孝允らと意見が合わず下野、帰国した。このころから新政府に不満を抱く士族の不穏な動きがあり、ついに明治9年10月奮起、萩の乱を起こしたが、しかし失敗して、東京で裁判を受けることを条件に自首。だが佐賀の乱を起こした江藤新平と同じく希望は通らず臨時裁判にかけられ斬首された。斬られる直前「ここまでよくがんばったなあ」と病弱だった身体をいたわった。まだ生きていた父も自殺し、吉田松陰の叔父であり松下村塾の創始者玉木文之進も「萩の正気すでに尽きたり」といって切腹した。43歳 |