| 久坂玄瑞 |
| Kusaka Genzui (1840-1864) |
| 久坂玄瑞は、天保11年(1840)、萩平安古八軒屋に藩医久坂良迪の子として生まれる。20歳年上の優れた医者であり蘭学者でもあった、兄玄機の影響を受け成長するが、15歳の時、玄機が死去し、それに前後して両親も失い家督を継ぐこととなった。友人の高杉晋作が上士のひとり息子として、わがままな少年期を過ごしていた時、わずか十五にして自立せざるを得ない状況下に置かれた玄瑞であった。同年12月、野山獄から出た吉田松陰は、実家の杉家で幽囚の日々を送るようになった。玄瑞は安政3年、九州を旅したとき、熊本で会った宮部鼎蔵から松陰の存在を教えられた。ぜひ会うように勧められたが、玄瑞はまず松陰にあてて手紙を出す。「久坂玄瑞、再拝し謹んで二十一回猛士義卿吉田君の座前に白す」という書き出しで、穣夷を断行し、アメリカの使節などは、北条時宗の例にならって斬り捨てるべきだというのだった。松陰は「世を慷慨するかに見せて、実は名利を求めんとする輩と少しも変わるところがない。私はこの種の浮薄な文章を憎み、それを書く人間を憎む」と、痛烈な批判の返事を与えた。怒った玄瑞は反駁の手紙を出し、松陰はさらにそれをやっつけるという激しいやり取りが数回にわたつてつづいた。ついに屈伏した玄瑞は、松陰に面会し門下となる(松下村塾最初の入門者)。松陰は玄瑞のただならぬ資質を見抜いて、わざと仕向けたのだ。このような師弟の出会いは、松陰門下でも他に例がなく、それだけに松陰と玄瑞は最初から深い結びつきを見せた。人が変わったように素直となり、畏敬の念をこめ真筆な態度で師事する玄瑞を、松陰は愛してやまなかった。また早くから尊攘思想を持ち、諸国の志士と交わり、謹慎中で動けない松陰のために情報収集活動を行うようになる。 |
| そして玄瑞は強く松陰に乞われ、その末の妹「文」と結婚する。「久坂玄瑞は、防長における年少第一流の人物であり、天下の英才である。小妹には過ぎたる男だ」と、松陰は妹に贈る言葉の中で述べている。玄瑞につづいて入塾したのが高杉晋作である。玄瑞と晋作、この対照的な二人を松陰はつねに競争相手となるように指導した、そして「松門の双璧」と称されるようになる。松下村塾の四天王は高杉晋作・久坂玄端・吉田稔麿(栄太郎)・入江九一(杉蔵)だが、このうち晋作・玄瑞・稔麿の三人を比較した人物評を次のように述べている。「実甫(玄瑞) の才は縦横無尽なり。暢夫(晋作)は陽頑、無逸(稔麿)は陰頑、皆人の駕馭を受けず。高等の人物なり。実甫は高からずに非ず。且つ切直人に逼り、度量窄し。然れども白から人に愛せらるるは、激烈の操、これを行るに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり」玄瑞は人に対して率直に発言し、その度量は狭いかに見えるが、美才をもって「激烈の操」を発揮し、そして晋作のような「頑質」を持たなかったことが、人望を集めたと松陰はいうのである。それぞれの個性を尊重し、それを伸ばすように指導したのだった。「晋作の識を以て、玄瑞の才を行え」と、さらに松陰はいう。 |
| 安政5年2月、玄瑞は松陰のもとを離れ江戸に遊学した。江戸では各地の有志と交わり、尊攘運動に参画する。そんな折、国許より松陰が老中暗殺を画策しているという報を聞き、同じく江戸遊学中の高杉ら松下村塾門下生連名で、松陰に対し計画中止を促した。これに対し松陰から所見の違いから絶交を言い渡されてしまう。 |
| 松陰処刑の後、玄瑞は師の志を継ぐべく奔走し、松下村塾門下生の中では、他に先んじて志士としてめざましい活動をはじめる。松蔭が見抜いた通り、晋作は爆発するかに見えても弾力的な識見による曲線を描いて生きのび、いくつかの重大な使命をやり終えた。玄瑞は長州藩の尊皇攘夷派のリーダー格的存在に押し上げられ攘夷実現の第一歩として天皇の大和行幸を画策した。3月11日の加茂神社、次いで4月11日石清水八幡宮への行幸が実現した。しかし、文久3年(1863)の8月18日の政変のより尊皇攘夷派は京都から追放された。またこの年、久坂の呼びかけで集まった志士による光明寺党を結成し(京より脱走してきた公卿中山忠光を盟主として迎え、光明寺党を結成した。そのメンバーは、入江杉蔵(九一)、吉田稔麿、山県狂介、赤根武人ら松下村塾門下生をはじめ、計五十人ばかりの攘夷集団である)、下関で外国船砲撃に加わる。この光明寺党は後の奇兵隊の元となる。政変後、藩内は久留米神官真木和泉らの上京進発論と周布政之助、高杉晋作らの自重論とに二分されるようになっていた。しかし、次第に藩内での進発論の勢力が多勢を占めるようになり、福原越後、国司信濃ら三家老による率兵上洛に決定するのだった。京にいた玄瑞は当初、高杉らと同様、進発には反対であり、来島又兵衛ら急進派の説得の為、帰郷するのであったが、事態の推移からか、あくまで嘆願に努めるという立場で、再び京へ向かった。元治元年(1864)、蛤御門の変が勃発し、久坂は、失地回復のための挙兵に反対して長州藩兵の上洛を防ごうとしたものの(桂小五郎も高杉晋作も「時期尚早」と述べていた)、暴発は止めることができず、ともに戦うことを余儀なくされた。7月19日、壮烈な行軍と戦争のなか銃弾を受けた玄瑞は同門の入江九一や寺島忠三郎らとともに、山崎(ぴ那郡大山崎町)を発して、御所の堺町御門に近い閑白の鷹司邸に入り込んで自刃する。享年25歳。玄瑞は「激烈の操」によって磨かれた才をひらめかせながら一途に走り、蛤御門の変で討死した。 |
| 久坂さんの裏話 |
| 西郷は晩年長州出身の訪客に、「久坂さんがこの明治の御代まで生きておられれば、この西郷などは参議などと申して大きな顔をしておられませぬ。」 と言ったらしい。あんたたちが殺しておいて・・・。久坂さんが生きていれば高杉さんや龍馬さんと違って明治政府内でも活躍できたと思うんだけどね。 |