来島又兵衛
Kijima Matabei (1816-1864)
名は政久、幼名は光次郎、森鬼太郎の偽名がある。禄高59石余、馬廻役。本姓は喜多村だが来島家の養嗣となる。体躯は人にすぐれて大きく、剣技馬術に長じて武勇の人であったが、また算術に精しく28歳のとき駕龍奉行になった。安政2年(1855)大検使役、翌3年所帯方頭人の任に抜擢され京都と江戸にあって大いに尊攘運動をした。戦国武士を思わせるような、なかなか豪快な男だったらしい。剣術は新陰流の免許皆伝、馬術も神業の域に達していたという。長州藩が尊王操夷を旗じるしに掲げ、中央の政局に乗り出した文久年間には、すでに四十代の半ばを過ぎていたけれど、それでも血気は衰えを見せず、高杉晋作ら若い志士たちから親しみと尊敬の念を込めて、「来翁」と呼ばれていた。
だが、実は又兵衛には、もうひとつ意外な特技があった。経理である金の管理をさせたら、この猛将は実に手ぎわ良く、正確にやってのけるのだった。吉田松陰は「来島又兵衛は胆力人に過ぎ、又精算密思あり」と許している(さすが松蔭先生よく見てらっしゃる)。私生活でも江戸在番中は、支出を細々と記録し、故郷の妻に送っているほどだ。そんな又兵衛に金の無心をした若き長州藩士がいた。井上聞多(のち馨)である。攘夷家の井上は、高杉晋作・久坂玄瑞ら同志と、武蔵金沢にピクニックに出かける外国公使を襲撃しようと考えた。しかしその前に、品川の妓楼にある五十両もの滞りを払わねば、ということになったのである。井上は江戸藩郎の会計主任ともいうべき又兵衛に、藩の金を貸してくれるよう頼んだ(この頃高杉・伊藤・井上は金を使いすぎ!)。むろん理由は学問のためとしてある。だが、又兵衛は、彼らの放蕩ぶりを日頃から耳にしていたから烈火のごとく怒った。そこで才覚人井上は一策を講じた。怒る又兵衛の前に「かかる書翰の伝達を依頼されました」と、一通の封書を差し出した。中を見た又兵衛の顔色が変わった。馴染みにしている女郎からの金の無心だったのだ。実は早耳の井上は又兵衛のスキャンダルを知っていて、同志とともに偽手紙を作って用意していたのである。弱みをにぎられた又兵衛は、ついに自分のポケットマネーから五十両を取り出し、渋々、井上に渡した。若者たちの単純なトリックに、まんまとはまってしまったわけだが、そんな素朴なところが「来翁」と呼ばれ慕われた、一因なのかもしれない。 
文久3年(1863)五月、馬関における外艦砲撃戦には総督国司信濃の参謀となって奮戦して、6月には藩命によって射撃に巧みな猟師を集めて遊撃隊を組織し、これを率いて禁裡守衛のため上京した。しかし8・18の政変によって長州藩兵は尊攘派の七卿を擁して京都からの撤退をよぎなくされた。このとき来島は大阪にいたので憤激してただちに京都に戻ったが伏見で阻止されてむなしく帰藩した。
1864年、禁門の変で馬上で指揮中に銃弾を浴び動けなくなり自決して果てる(司馬遼太郎の本ではかなり壮絶な書き方だった気がする。相手側の指揮官はたしか西郷どんでした) 享年49歳
来島さんの裏話
禁門の変では、薩摩の川路利良(後の警視総監)が「あの大将を狙えば勝てる」と自ら狙撃し、打ち倒したらしい。死骸は力士隊が担いで退却した。