桂小五郎 (木戸孝允)
Katura Kogorou (1833-1877)
桂小五郎は、長州藩士和田昌景の子として、天保4(1833)年、萩城下江戸屋横丁に生まれ、8歳の時、同藩士桂九郎兵衛の養子となった。藩校明倫館に学び、さらに江戸に出て、斎藤弥九郎が主宰する練兵舘(品川弥二郎もここでした)に剣術修行する。小五郎は剣士として、めきめきと頭角をあらわし、やがて塾頭に挙げられた。当時、江戸の道場には、諸国の青年たちが青雲の志を抱いて遊学して来ていた。小五郎は藩や身分のワクを越え、多くの青年と知り合い、交流を深める。さらに著名な学者や知識人を訪ね、教えを受けた。こうした体験が、小五郎の視野を長州藩から日本全体へと拡げてゆく。また17歳で、山鹿竜兵学師範としての松陰の門下となった。桂は松下村塾で学ぶことはなかったが、高杉晋作をはじめとする塾生たちと、同門であることには変わりない。松陰は桂に対しては「才あれど胆略に乏し」と、評している(さすが松蔭先生よく分かってらっしゃる)。のちに、桂は「逃げの小五郎」と同志から揶揄されるほど、危険を事前に察知する能力にたけ、危ない橋を渡ることはなかった(もっと体を張らなきゃね)
 また、嘉永6(1853)年6月、アメリカのぺリーが黒船を率いて浦賀沖に姿を現わしたのを、リアルタイムで目にしたことも小五郎には衝撃的な体験だった。小五郎は江川太郎左衛門の門をくぐり、海岸測lや砲術を学び、「西洋」を知ろうとした。文久2(1862)年、長州藩が藩論を「航海遠略策」(公武合体)から、尊王嬢夷に転換させるや、小五郎は若き主導者として京都・江戸間を周旋する。だが、長州藩をはじめとする尊嬢派は、文久3年8月18日、御所内で起こった政変で失脚。小五郎は失地回復のため奔走するが、元治元(1864)年7月、「禁門の変」で長州藩は薩摩・会津藩と戦い、勝敗があらかた決するのを見て脱出する(やぱり脱出!)。この時桂は因州藩と共同作戦の交渉中だった。因州藩が薩摩・会津の背後を突くはずだったが、結局動かなかった。そして小五郎は乞食に身をやつして(くさそー)数日京都に潜伏した後、脱出して但馬へ逃れた。但馬出石に潜伏中の桂は幕府から捕縛命令が出されている「お尋ね者」の身の上であったが、無二の同志ですら、桂の潜伏先を知らなかったほど、完璧な潜伏ぶりであった。
慶応元(1865)年4月、高杉晋作らにより「討幕派」政権が長州藩で樹立されるや小五郎は帰国し(タイミングばっちり)、閏5月坂本龍馬と下関で会談し、薩摩藩との間に同盟を結ぶことを了承した。6月には政事堂用掛および国政方用談役心得に任命された。藩主から政権を委ねられた最高責任者の地位に就いたのである。そして9月には、幕府の追及からのがれるため姓を木戸と改めた。
慶応2年、長州藩は四境から攻め寄せた幕府征長軍を撃退。つづく戊辰戦争では「官軍」の主力として、関東から東北、北海道まで転戦して維新の大業を成し遂げた。かつての志士桂小五郎は、維新の元勲木戸孝允となり、新政府の参議の椅子に腰をおろした。
 明治に入り新しい時代がスター卜した。長州では五千人に膨れ上がった軍事力の一部を常備軍として残し、残りを整理するという「諸隊解散令」が、明治2(1869)年11月に出される。ところが、これを不満とする兵士たちは続々と隊を抜け出し、集結して反乱を起こした。世にいう「脱隊騒動」である。 反乱には約二千人が参加し、さらに藩内各地で農民一揆と結びつき、「維新の勝者」だった長州はまさに崩壊の危機に直面した。木戸孝允が急ぎ帰郷したのは、12月27日であった。そして断固武力鎮圧を唱える。木戸にとって初めての戦闘指揮が、彼を今日の地位まで押し上げてくれた兵士たちを、鎮圧することだったとは、皮肉というか、歴史の残酷さを感じずにはいられない。 こうして数度の戦いのすえ、木戸は反乱を鎮圧することに成功する。藩は脱隊兵たちを死刑62人、永牢・遠流71人という厳罰に処した。長州の維新史は、血ぬられたまま幕を下ろした。
 同朋たちの屍を踏み越えた木戸は、明治4(1871)年には廃藩置県を積極的に推進し、また同年には岩倉具視を正使とする欧米視察団の副使として外遊した。 明治6(1873)年の政変では、西郷隆盛らと対立。やがて明治10年の西南戦争のさなか、病が重くなり、京都で「西郷、もういいかげんにせんか」のうわ言を洩らして、亡くなったと伝えられる。享年43歳。
桂さんの裏話
1873年(明治6)8月31日、木戸孝允の乗った馬車が自宅に向かう途中の九段坂にかかった時に、急に馬が棒立ちになってそのはずみで、桂さんは車外に放り出されて頭を打っちゃいました。この時以来ものすごい頭痛で眠れなくなっちゃた。そのうち左足のマヒも出てきて病の床についた。この時の傷が桂さんの死の遠因にもなったんだって。
桂さんは重婚をしてました。公武合体派から身を守るために但馬の城崎温泉へ逃げた時、潜伏していた主から「娘を嫁にもってくて」言われて、断って疑われるのもやだから、結婚しちゃった。1年間も夫婦生活をしてたんだって。そして突然長州に戻った・・・。