| 伊藤 俊輔 (伊藤 博文) |
| Itou Syunsuke (1841-1909) |
| 伊藤俊輔は、天保12年(1841)、周防国熊毛郡束荷村の農民の家の林十蔵の子として生まれた。のちに、父親が長州藩の中間の家に養子に入ったことから最下級の氏族になる。 |
| 安政3年(1856)藩命で浦賀警備に勤めた際、隊長の来原良蔵に才能を見いだされ、翌年、来原の紹介で松下村塾に入門。吉田松陰の21番目の弟子となる。そもそも松陰の旅は、情報収集を目的とするものでもあった。情報量のすくないこの時代では、みずから動いてそれを集めることも必要だったのである。幽囚の身で自由を奪われた松陰は、塾生を使ってそれを積極的に行い、内外の情況を細大もらさず観察したうえで未来を洞察しようとした。そのままが松下村塾における情報教育であり、「飛耳長目」という言葉で門下生に教えた。幕府が天皇を京都から彦根に幽閉しようとしているという風説が伝わってくると、松陰は調査の者を京都に派遣するように藩に進言し、六人が派遣されることになった。伊藤伝之助・杉山松助・伊藤利助(博文)・岡仙吉・惣楽悦之助・山県小輔(有朋)という顔ぶれのうち惣楽と山県のほかは松陰門下(伝之助は松下村塾生ではなかったが個人的に松陰の教えを受けていた)である。おそらく松陰が彼らを推薦したものと思われる。伊藤や山県がこうした藩の役目をになって活動したそれが最初の機会だった。この仕事は諜報活動だが、松陰が日ころから言っている飛耳長目の実践行動である。六人が京都に出発するとき、松陰は一書をさずけて彼らを激励したが、その中にもこう書いている。「往け六人、本藩方に飛耳長目を以て務と為す。汝らを使う所以なり。汝ら奔走駆役、他日(過去の日)俗吏の為に奴僕視せらる。一旦変故に遭遇し、文武志気を以て選ばる。事軽しといえども、また以て其の気を吐くべし。汝ら其の耳を飛ばし、其の目を長くし、選ばれし所以の意に報ぜんことを思わずんば、将たいずくんぞ六人の者を以て為さんや。京師は天下の中なり。近きはすなわち五畿これをめぐり、遠きはすなわち七道これをめぐる。およそ其の耳目の及ぷ所、人物形勢、皆識りて存するべし…」下層の者として軽視されてきたお前たちが、今こそその力量を見せる機会だと励まし、飛耳長目の意義を説くのである。 |
| その後、伊藤は相州勤藩のとき知り合った河野友之助にあてて「去るアメリカ出府登妓の砌、追々願いのやむむき趣、其の外段々之れあり候様承り申し候問、追々御入手條わば御写し取り成して御送り下され候様…」といった依頼の手紙を書いている。ハリスの江戸登城前後の様子を知らせてほしいというのである。これなども松陰から命じられた仕事だったのだろう。慧眼な松陰は「利助は周旋家になりそうな」と、伊藤の資質をいいあてた。 |
| その後しばらく桂小五郎と行動を共にするようになる。1852年、久坂玄瑞や高杉晋作が結成した御盾組に加盟し、英国公使館を焼き討ちにする。1863年、井上聞多と英国に留学し、英語の勉強をし、翌年帰国する。 |
| 元治元(1864)年12月、高杉晋作が少数の者をひきいて俗論党打倒の兵を挙げた当時、伊藤は相撲取りを集めて力士隊を編成し、その総督におさまっていた。決死の高杉に呼応して立ち上がったのは、遊撃隊と力士隊だけだった。伊藤がこの危険な賭けに身を投じたのは、決起軍に有利な藩内の情勢をにらんだ彼の鋭い政治判断によるものには違いないが、やはり松陰門下としての自覚が、重大局面に一身を投ずる果敢な決意となってあらわれたとしなければなるまい。これもまたすぐれた政治家としての行動であり、やがて初代内閣総理大臣となるだけの資質を示したものといえるだろう。松下村塾。伊藤はここで松陰から受けた情報教育を実践し、成長してゆく。 |
| その後、明治に入り大久保利通の後継者となり、工部卿から内務卿に就任する。1885年、初代内閣総理大臣に就任する。また、大日本帝国憲法の作成と発布等の功績を残す。明治42年(1909)、ハルピン駅で韓国人の安重根に暗殺される。享年69歳。 |