| 天保8年(1837)4月、長門国萩土村の足軽の家に生まれる。野村和作の兄。安政5年7月、江戸藩邸からの飛脚として帰りはじめて松陰に会い22歳で、11月松下村塾に入った。松
陰は、「共の憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものめればなり」と、入江を高く評した。高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿とともに村塾の四天王といわれた。安政6(1859)年松陰の入獄中はその志を受けて尊攘に奔走した。松陰は、獄中から書簡を出して、九一に後事(松陰は京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り国民の志気を鼓舞したいと考えていた)を託したという。松陰の伏見要駕策が幕吏に探知され、弟和作と共に捕えられて、藩によって投獄された。獄中で松陰の死を知った。釈放されたのち、文久3年(1863)上洛。長州水戸同盟をはかり、足利三代木像梟首事件の赦免を運動。同年に「尊攘の正義を弁知し、心得よろしき者」として士分に昇格した。下関の攘夷戦に参加し、 中山忠光の京都脱走に従って萩に帰った。 ついで九州を遊歴して尊攘の大義を説いた。6月高杉晋作をたすけて下関で奇兵隊の創設に尽力した。そして禁門の変には参謀の一人として奮戦し、久坂らと共に鷹司屋敷で自刃しようとするが久坂に後事を託され、脱出を決心する。しかし、屋敷を出たところで福井藩兵に出くわし、槍で顔面を貫かれて果てる。28歳。遺骸は京都霊山に葬る。別に鞍馬通上善寺に首塚がある |