広沢 真臣
Hirosawa Saneomi ( -1871)
長州(萩)柏村安利の藩士の四男として生まれ、1844(弘化1)年、波多野家の養子となる。1853(嘉永6)年、ペリー来航にあたって大森台場警護のために江戸に出張する。1859(安政6)年に家督を相続し、改革派の実務官僚として重用される。しかし、禁門の変以後、椋梨藤太ら保守派が台頭したため、1864年に俗論党野山獄につながれる。高杉晋作のクーデター成功により復帰し、倒幕運動の中心メンバーとして活躍する。1866年の第二次長州征伐後、交渉に来た勝海舟と広島の厳島で会見し、終戦協定を結ぶ。同3(1867)年8月軍制惣掛を勤め、9月木戸孝允と共に薩摩藩大久保一蔵(利通)らと会談、倒幕出兵の盟約を結び、10月上京し倒幕の密勅を受けて帰国した。同年11月干城中隊副総督として出兵し上京した。
1868年、新政府に入って参与となり、翌年には参議となる。1870年7月の民部、大蔵両省を巡る紛議では、大久保を支持して木戸と対立した。関心は、主として民政にあり、民情を顧みない急激な改革を否定する、着実を好む漸進主義の立場であった。1871年、麹町富士見町の広沢の屋敷に何者かが侵入妾と寝ていた広沢は、全身を15ヵ所にわたり斬りつけられ喉を突かれた傷が致命傷となり死亡する。維新に対する賞典禄では、桂、大久保と同額の1800石。高杉や伊藤、山県より多い。
広沢さんの裏話
1871年(明治4)1月9日、広沢さんが 東京・麹町富士見町の自宅で 妾の横田かねと就寝中に斬殺された。東京での顕官横死の衝撃は大きく、犯人検挙要請として異例の天皇勅書も出したけど、警察は まるで手がかりを得ることができなかった。、妾のかねを拷問して家令(かれい)の起田正一との私通を自白させ翌年4月に起田を拘留し、拷問のうえニセの自白をとった。
1875年(明治8)7月13日、司法卿大木喬任を裁判長とした「参座」(陪審員制度)での審議により、かねと起田に有罪が宣告された。結果的には広沢暗殺の容疑者検挙者は80余人にのぼったが真犯人はわからず、事件は明治初の迷宮入りとなった。一説には政敵木戸孝允が差し向けた刺客による犯人説もある(ほんとかよ、木戸さん!)