| 赤根 武人 |
| Akane Taketo (1839-1868) |
| 名は貞一。周防国玖珂郡柱島地下医の長男。荻藩家老浦靱負家来赤禰雅平の養子となる。僧月性にまなび、その紹介で松下村塾開講直前のわずかな期間松陰に従学。京都に出て梅田雲浜に師事。高杉晋作とともに英国公使館焼き打ち(1862年)にも参加した。文久3年(1863)高杉晋作の奇兵隊創設に協力、3代目総督として攘夷戦にも活躍した。元治元年、俗論党藩政府と正義派諸隊との調停を図ろうとして同志に疑われ、元治二年一月、奇兵隊を脱走、渕上郁太郎とともに上方へ走った。当時奇兵隊を率いていた赤根は「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じ」と反対していた。3月、京都で幕吏に捕らえられ、六角獄に入牢。幕府大目付永井尚志や新選組伊東甲子太郎の肝煎で11月放免、長州訊問のため、広島へ下る永井の随員に加えられた。近藤勇、伊東甲子太郎ら新選組隊士や渕上郁太郎も同行した。永井は幕府と長州との戦争を回避するため、赤根を通じて長州尊攘派の人脈に接近しようとした。赤根は広島から防長に潜入したが、長州藩の追捕を受け、12月、柱島に潜伏中を捕縛された。山口の鰐石で斬処される。賊の汚名をきた。享年29歳。 |
| 赤根さんの裏話 |
| 夷を掲げ幕府と対抗していた長州藩は禁門の変(1863年)に敗れ、第一次長州征伐を受けたため、幕府に恭順する方針に転換した。このとき幕府に恭順する方向で動いたグループを“俗論派”と呼んだ。「山口では今だに“俗論派”なんて言っているくらい 、赤根武人たちは、今でも評価されていない。また処刑された夜、男装束の女性が現れ刀を振り回し、その首を奪い去ったという記録があるらしい. |