土佐藩
山内家
24万2千石

 土佐藩は、長州藩と並んで尊王穣夷の志士たちを輩出した。だが、ついに討幕運動の主役となることはなく、薩摩・長州藩に次ぐ第3勢力に甘んじた。名君とうたわれ た山内容堂を擁した土佐藩の、苦渋に満ちた選択がそこにはあった。長州の毛利敬親も薩摩の島津久光も、公武合体を推進したことはあったが、最後には藩論に押されて、討幕へと向かった。その中にあって、容堂ほど終始一貫して佐慕派だった藩主はいない。これが土佐藩の動きを鈍くし、薩摩・長州に著しく遅れをとった原因といえる。
 これには、容堂の藩主就任のいきさつが絡んでいた。13代藩主豊配州、14代藩主豊惇が相次いで病死し、家名断絶の危機にあった山内家を、分家筋の容堂擁立で収めたのは、ときの老中阿部正弘や容堂には、幕府に藩主にしてもらったという恩義があったというわけだ。藩祖山内一豊は、女房がへそくりをためて、一頭の馬を買って、それが出世の原因となって有名である。関ヶ原以後、外様ながら掛川6万石から土佐24万石に大出世した男である。徳川家に対して頭が上がらす250年以上続いている。敗戦処理に恨みを持つ島津や毛利とは、徳川家への感情がまったく異なっていたことも忘れてはならない。
 容堂は、嘉永元年(1848)に、22歳で藩主となった。しかし、藩政は、天保期の改革を進めた 「おこぜ組」を弾圧した門閥派に握られ、彼の手腕を発揮する余地はなかった。
 しかし、嘉永六年のペリー来航は、恩義のある阿部を支えるためにも、幕政への参画を容堂に迫ってきた。7月、阿部が諸大名に対米交渉への意見を求めると、容堂は吉田東洋を大目付に登用し、外交意見書を書かせて提出した。これは開国反対論だったが、東洋の登用を手始めにして藩政改革を開始した。12月には、東洋を参政に昇格させ、旧おこぜ組の小南五郎らの人材を登用して、洋式兵制の整備、蒸気船の建造、専売制の強化などの富国強兵策による安政の改革を行った。
一方で、容堂は一橋派のメンバーとして慶喜擁立に動き、大老井伊直弼と対立した。これは失敗して、安政の大獄に巻き込まれた。安政6年、容堂は隠居、江戸での慎処分となった。 しかし、その間も、藩政は、吉田東洋と彼の門下である後藤象二郎、福岡孝悌、板垣退助らの「新おこぜ組」が取り仕切っており、容堂の方針による改革が進められていた。 維新のその時まで藩政を掌握していた、稀有な殿様といえる。
土佐藩には、他藩にない複雑な身分制度があった。関ケ原の戦いに敗れた旧長宗我部の家臣たちは郷土と呼ばれ、武士と農民の中間に位置する身分とされた。これに対して、山内家直属の武士は、上士と呼ばれ、婚姻・礼儀・衣服などの面で優遇された。だが、郷土のなかには、身分的には低くても、経済的には上士以上の者も多かった。坂本龍馬などもそのひとりだが、土佐勤王党を結成した武市半平太(瑞山)も、50石以上の農地を有する郷土だった。安政3年、武市は江戸へ遊学し、そこで各地の尊王穣夷の志士たちと接するようになり、長州の久坂玄瑞の影響を受け、松陰仕込みの「草莽崛起論」に傾倒して、尊王操夷の志士として声望を集めていた。
 文久元年(1861)8月、武市は江戸で、大石弥太郎らと土佐勤王党の盟約書を起草した。その後、土佐に持ち帰って同志に呼びかけ、竜馬をはじめ、約200名の連判を集めて結成された。その盟約書の内容は、「神州が、夷秋に蹂胴されるのを天皇は嘆いていらっしやるが、この禍を払う者はひとりもいない。容堂公が、これを憂いて進言したが、かってて罪に問われた。ひとたび、錦の御旗が上がったら、団結して困難に立ち向かうことを、神明に誓う。上は天皇の御心をやすんじ、容堂公の志をついで、万民の思を払わんとす」といういので、容堂が謹慎処分を受けていることを批判して、天皇を持ち出すことで、容堂の立場を擁護しているとも読める。ここが、他藩の尊穣の志士とは違うところで、あくまでも藩主容堂の意志に従う、藩をあげての「一藩勤王」が目的だったのである。
 また、盟約書に名前を連ねたのが、ほとんど郷土・庄屋という身分の低い層で、上土がきわめて少数にすぎないことにも、注目したい。これは、薩摩の精忠組、長州の正義派にも共通することではあるが、これまで藩政に発言権を持っていなかった下級武士にとつては、尊王穣夷は自由な飛翔への絶好の口実だったのである。
また、ここで登場する庄屋たちは、天保年間には庄屋同盟を結成して、「我々は天皇の直接の家来であって、将軍や藩主は、天皇の王思想で、自分たちの権益を守ろうとした。土佐勤王党は、この流れを継承しつつ、より政治的な発言をしたともいえる。武市らの動きは、当然、藩政を握っている新おこぜ組の上士たちの反発を受けた。「郷土の分際で藩政に口を出すとはなにごとか」というわけである。これは、武市が最後まで頼りにしていた、藩主容堂の立場でもあったのだ
文久元年10月、土佐勤王党のメンバーを集めるために帰国した武市瑞山はあせっていた。江戸で長州の久坂玄瑞、桂小五郎、薩摩の樺山三円らと合流、藩主を擁し導権を取ろうと誓っていた。ところが、藩政府は佐幕派である。そこで武市は、説得のため吉田東洋をたずねている。武市は、いまこそ、薩長雨藩に先んじて、藩兵を率いて上洛すべきだと主張した。東洋は、こう答えた。「お前は、浪士たちにたぶらかされているのではないか。当家と、島津・毛利の両家とは立場が違うし、そもそも、二藩が本当に上洛するかどうかあやしいものだ」 まったく信用していない。このとき東洋は、藩政改革を推進していたこともあって、実行不可能な尊王穣夷などは、神がかり的な意見にしか思えなかったのである。
東洋の政策は、勤王党のみならず、保守的な門閥派にとつても怨範の対象だった。儒学者や軍学の師範の世襲制を廃するなど、身分家柄にとらわれずに、人材を登用しようというのだから、たまったものではない。さらに、教育や軍備の充実は、庶民の負担を増大させ、批判を受けていた。
ここに、武市は保守勢力である門閥派と手を組むことにした。「改革推進・公武合体派」対「保守門閥・郷土、尊王穣夷派遣合軍」という、奇妙な図式ができた。東洋は、側近から身辺警備を厳重にするようにと進言されたが、反対派を恐れていては容堂公の信任に傷がつくと、笑ってとりあわず、文久2年4月8日、いつものょうに護衛なしで、城から帰宅途中、土佐勤王党の3人の郷土に斬殺された。
 それにともなって、藩政府の新おこぜ組は一掃された。しかし、ここで藩政府を握ったのは、保守派だった。彼らは、東洋以上の佐幕派だった。反吉田東洋で手を握った門閥派と土佐勤王党だったが、目的が達成されれば、保守的な性格を現わすのは当然だった。身分的に低い土佐勤王党が、藩政府に参加することなど、もってのほかだったのである。しかし6月、朝廷より16代藩主・山内豊範に上洛の要請があり、土佐勤王党も京へ向かうことになった。藩主を上洛させるという武市の念願がついにかなったのだ。得意の絶頂にあった武市は、岡田以蔵、田中新兵衛らに指令を出して、次々と天誅を下していった。しかし、あくまでも一藩勤王に固執する武市にとつて、藩内の地盤はあまりにもろく、絶頂の日々も長くは続かなかった。
文久3年(1863)の8月18日のクーデターによって、公武合体派が尊王擾夷派を京から一掃すると、藩内の情勢も一変した。 かねてより勤王党をこころよく思っていなかった後藤象二郎、板垣退助ら吉田東洋門下の上士たちは、容堂の後押しのもと藩政を奪還して、勤王党弾圧へと乗り出した。9月には、武市も同志とともに捕えられた。これに危険を感じて、中岡慎太郎ら勤王党の同志の多くが脱藩した。また、武市たちの解放を要求して挙兵した者もいたが、鎮圧されてしまった。
後藤は、東洋の義弟にあたるので、勤王党への恨みは人一倍激しく、取り調べは峻厳をきわめた。武市たちは、これに耐えて、罪を否認しつづけた。しかし、翌元治元年、京で捕えられた岡田以蔵が、拷問に負けて、武市の天誅への関与を自白。これをきっかけにして、次々と勤王党員が処刑されていった。慶応元年(1865)閏5月11日、武市も、ついに切腹を命ぜられた。武市の弱点は、最後まで容堂を捨てきれなかったことにあった。とりわけ容堂が開明的な大名だったことが、武市に、藩論の公武合体から尊王穣夷への転換という幻想を与えてしまったのだろう。水戸藩の血で血を洗う抗争ほどではないが、こうして土佐藩でも多くの人材が失われた。彼らが悲痛なのは、藩全体で動こうとしたものの、藩の支援がまったくなかったことである。山内容堂は最後まで脱藩藩士を嫌っていたことも原因になる。
 武市とは違い、土佐を見限ったのが、坂本龍馬と中岡慎太郎である。龍馬は、はやくから脱藩をし、幕臣から浪士まで幅広い交流をしながら、藩の枠組みを超えた活動をしていた。土佐には 「いごっそう」という言葉がある。明るくお祭騒ぎが好きという意味だが、竜馬はこの「いごっそう」で、しかも頭が切れて、行動力があった。この二人がいなければ、薩長同盟もなかったのだから、維新の産みの親と言うにふさわしい。しかも、龍馬のすごいところは、勤王党の同志武市を殺した張本人で、憎んでも憎みきれないはずの後藤象二郎と手を組んで、大政奉還を実現したことだ。中岡も公武合体派から倒幕派となった板垣退助と行動をともにしている。国家の大事の前には、個人的な恨みなどは、眼中になかったのである。
現在、高知県には、桂浜に坂本龍馬、室戸岬に中岡慎太郎、そして須崎に武市半平太と、維新を見ることなく散っていった、3人の銅像が太平洋に向かって立っている。しかし、維新後に活躍したのは、彼ら土佐勤王党ではなく、彼らが暗殺した吉田東洋門下の、後藤、板垣、福岡孝悌、岩崎弥太郎らだった。これも、土佐藩の厳しい身分制度が生み出した、悲劇だったのだろう