薩摩藩
島津家
77万石

薩摩藩は、天保期に、家老調所広郷の手腕によって、藩財政立て直しに成功した。その方法というのが、500万両もあった借金は踏み倒す。砂糖の専売制を強化して農民から絞取る。藩ぐるみで、琉球を経由して清国との密貿易を行う。おまけに貨幣を偽造するというものだった。
天保期には全国の各藩が財政困難で藩政改革が行われていたなかで、西南雄藩だけが、なぜ改革に成功を収めたのだろうか。 じつは、江戸時代後半に人口がもっとも増加したのが、薩摩と周防の二か国で、同じ時期人口がもっとも減少したのが陸奥(青森、手、宮城、福島児) と下野(栃木児) なのである。当時、人口がえるということは農業生産が伸びたということにほかならない。農業生産が伸びれば財政も潤う。全国的に見ても西日本の人口が伸びて、東日本が減少している。維新が西南雄藩によって起こされた基盤はここにあったのである。
薩摩藩ではその後、お定まりのお家騒動が起きた。藩主島津斉興は嫡子斉彬を差し置いて、寵愛する妾お由羅の子、久光を後継ぎにしようと考える。家臣は、斉彬を押す改革派と、久光を押す門閥派に分かれて抗争となった。これがお由羅騒動である。結局、嘉永四年、老中阿部正弘の仲介によって、斉興が隠居して、斉彬が家督を継いだ。藩主とった斉彬は、人材登用と富国強兵による藩政改革を推進した。まず、近代工場の先駆け集成舘を創設して、そこに反射炉、溶鉱炉を築造し、大砲・火薬・ガラス・陶磁の製造から、電信・ガス・電気の実験まで行っていた。さながら西欧一流国の文明と近代工業が、この日本の最南端に移転してきたような風景だった。その先端技術によって軍備の洋式化をはかり、嘉永六年には蒸気船を建造した。斉彬の軍事的な危機感は、薩摩が琉球を支配下においていたことで直接西欧列強と相対していたことも大きな要素となっていた。
 積極開国論者だった斉彬は、阿部正弘、徳川斉昭、松平春嶽、伊達宗減らとともに、危機にある幕政を運営しようとした。そのため、一橋慶喜を将軍に擁立する一橋派のリーダーとして、将軍継調問題で大きな役割を果たした。井伊直弼が、勅許を待たずに条約調印をし、家茂を将軍にしたことに怒った斉彬は、鹿児島にもどると、兵を率いて上洛、勅命によって幕政を改革しようとした。ところが、安政五年(一八五八) 七月、その準備のための軍事演習のさなかに急死してしまった。しかし、斉彬の遺志は西郷隆盛へと引き継がれた。側近に抜擢され、斉彬の手足となった西郷は、最後まで斉彬の遺志を実現するために行動した。その意味で、斉彬最大の功績は、西郷を残したことだったかもしれない。
 たしかに、斉彬の理想は大きかった。しかし、薩摩藩が軍備拡張暫して、大きな発言力をもったのも、天保期の改革のおかげである。斉彬は、そこで蓄えられた資金を湯水のように使って、武器を買い、藩士たちに政治活動をさせた。そして、その元手を作った調所は、お由羅騒動では反斉彬派だったのだから、歴史とは皮肉なものである。
 斉彬が死ぬと、遺言によって、弟久光の子忠義が、その後継藩主となった。しかし、斉彬の死後1年間は、健在だった前藩主斉興が藩政の実権を握り、斉彬の開明的な政策を破棄してしまった。安政6年、斉興が死ぬと、久光は、大久保利通など尊穣派下級武士たちのグループ「精忠組」と手を結んでクーデターを起こし、藩主の父として、藩政を取り仕切るようになった。久光は、本来門閥派だったが、斉彬派の精忠組の助けによって権力を得たので、斉彬以上に斉彬的な政策を取らざる得なかった。これから以後の、久光の行動の矛盾と限界は、こんなところに発端があったのだろう。
 まず、人事から手をつけた久光は、精忠組と近い小松帯刀を側役に抜擢し、また大久保を重用し、ついで、西郷を赦免して流罪地奄美から呼び戻した。藩内をまとめると、斉彬の残した計画を実行すべく、文久2年(1862)3月16日、兵1000余名を率いて、京へ向かった。久光の構想は、安政の大獄によって失脚した一橋慶喜と松平春嶽を幕政に復権させて、公武合体を推進しょうという、かつての一橋派に近いものだった。朝廷も、この想を受け入れて、久光に、京都守衛、国事周旋を命じたのだ。
 各地の尊王穣夷派志士たちは、この上洛を、討幕のための挙兵と誤解して次々と京・大阪に集まってきた。ところが、久光は上洛に際し、「尊王攘夷といって過激な説を唱え、各地の有志と交わりを結び、容易ならない企てをする者がいるそうだが、決してそのようなことに同意してはならない」と、藩士たちに釘を刺している。彼の頭にあったのは、あくまでも、幕藩体制の中での薩摩藩、なかんずく久光自身の発言力の強化であった。失敗には終わったが、この時、息子の忠義を退けて、自分が藩主になろうと、幕府に工作しているほどだった。後に、倒幕が現実のものとなっても、久光は、次に自分が将軍になって、島津幕府が出来ると夢見ていたというから、結局は、斉彬の理想にはほど遠いお殿様でしかなかった。
 諸国からの志士たちは、大坂の薩摩藩邸に集まっていた。久光一行は、4月10日に大坂著し、4月16日に京に入った。しかし、いくら待っても久光は動かない。当たり前である。このときすでに、久光は、過激派浪士鎮撫の勅諚を受けていたのだ。これにいらだった急進派は、佐慕派の関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を斬って、久光を倒幕へ巻き込もうと企てた。4月23日、有馬新七、橋口壮助、森山新五左衛門らは、大坂の藩郎を出ると、伏見の寺田屋へ入った。これを知った久光は、志士たちと親しい奈良原喜八郎、大山綱良ら剣客九名を、鎮撫に派遣した。彼らは、有馬に暴挙を中止するよう説得した。しかし、有馬は、「すでに他藩の同志との盟約もあるので、たとえ主命でも服従するわけにはいかない」 と拒否した。これを聞くと、同行の道島五郎兵衛が 「上意」と叫んで、斬りつけた。これをきっかけに乱闘となり、有馬をはじめ志士6名が即死した。これが寺田屋騒動である。こうして、挙兵は不発に終わり、薩摩藩の尊王穣夷派は首脳部を失った。
5月、久光は、勅使大原重徳の護衛を名目に江戸へと向かい、6月には、幕府に対して慶喜、春嶽の登用を求めて、これを受け入れさせた。8月、目的を達した久光は、意気揚々と京へもどつた。この途中、生麦事件を起こしている。家臣が、イギリス商人を殺傷してしまったのだ。しかし、一行は、気にも止めずに京へ向かった。 京に帰ってみると、寺田屋で弾圧したはずの尊穣派が、勢力を盛り返していて手がつけられない。このままでは藩士も浮き足だち、ふたたび寺田屋の悲劇をくり返すことになりかねないと、久光は早々に鹿児島に引き掲げた。
翌文久3年(1863)5月9日、幕府が10万ポンドの賠償金を払い、生麦事件についての幕府とイギリスの交渉は決着した。ところがイギリスは、6月27日、代理公使ニールが軍艦七隻で鹿児島湾に押し寄せて、薩摩藩に対しても、犯人の処刑と賠償金の支払いを要求してきた。薩摩藩はのらりくらりと回答を延ばす。これを拒絶とみたイギリスは、7月2日、湾内にいた三隻の薩摩藩の汽船を捕獲。これをきっかけに薩摩藩の砲台が火を吹いた。薩摩の大砲は83門だったが、射程距離は1キロしかなかった。対するイギリス艦隊には、最新鋭アームストロング砲を含めて101門。その射程は4キロ。これでは、まったく戦いにならないと思うが、実際はそうではなかった。幕府の弱腰外交になれていたイギリス側は、艦隊を派遣すれば、交渉は簡単に解決すると思っていた。ところが、薩摩が砲撃をしかけてきたのだ。意外な展開にあわてたイギリス艦隊は、応戦のために、ついつい薩摩軍の射程内にまで接近してしまった。
 交戦を開始してから、45分ばかりで旗艦ユーリアラス号の艦長ジョスリング大佐とウィルモット中佐が、薩摩軍の砲撃で戦死した。その他のイギリス艦隊も、ほとんどが被弾して損害を受け、戦死者は60名にもおよんだ。しかし、しだいに火力の差がものをいってくる。薩摩の砲台は次々と破壊されて、反撃できなくなってしまった。自慢の集成館は焼け落ち、鹿児島市内にもロケット砲を打ちこまれて、折からの強風にあおられ、市街地の約1割が焼失した。
7月4日、イギリス艦隊は鹿児島湾を離れて、横浜へもどっていった。戦闘場面だけを見れば、明らかにイギリスの勝利だったが、薩摩の抵抗の激しさは、イギリス側を驚かせるに十分であった。薩摩側も、歴然とした武器の差を体験するにつけて、大久保利通ら精忠組の志士たちも、これ以上の操夷が無益なことを悟った。こうして11月1日、イギリスと薩摩の問に、賠償金2万5000ポンドで和睦が成立した。和睦が成ると、さっそく イギリス側から、軍艦購入の仲介を申し入れてきた。イギリスは、この戦争によって、無力な幕府を見限って、薩摩を新たなパートナーと認めるようになったのである。