長岡藩
牧野家
7万4千石

信濃飯山より、堀直寄が8万石に増転封で長岡に入って、長岡藩が成立。堀直寄は越後村上に転封になり、替わって越後長峯より牧野忠成が入る。以後、川越藩と庄内藩の領地替えが長岡藩を巻き込んでの三方替えだったので、川越に移されそうになるが、転封中止で、結局、牧野家の支配で、幕末に至る。
幕末になると、慶応元年に軍制改革を行い、仏式銃隊八大隊を編成した。大政奉還後、忠訓は上京し「公武調和の建言」を議定所に提出した。同四年三月帰藩。藩論は恭順、抗戦二派に分れ容易に決しなかった。四月になって「独立特行」つまり中立を維持する方針が固められ、家老河井継之助を軍事総督とする軍事体制が固められた。五月二日、河井は小千谷の新政府軍本営を訪ね、軍監岩村精一郎と会見した。この席で長岡藩の藩是説明し、藩主の嘆願書を提出したが相手にされなかった。ここにおいて、ついに開戦を決意し奥羽越列藩同盟に加盟、北越戦争が始まった。長岡戦争では死者300名近くにのぼり、戊辰戦争でもっとも激しい戦闘になった。